23 転
花譜ちゃん聞いてたら遅くなりました
何者かと尋ねられ、丁寧に答えたにもかかわらず、何も言わない人間たちを見てアルバートは呆れたように頭を振った。
「答えたのだからそちらも名乗るのが礼儀じゃないかな?」
「勝手に居城へ入り込んだ奴に何故こちらが配慮しなければならないのですか? いや、そもそもどうやってここに」
「普通にお邪魔したとも。正面からね」
クランバードは自分の展開していた探知魔術が正常に作動しているか確認した。
青と黒の世界で白く色づいたシルエットが、確かにそこに存在していることを証明している。
馬鹿げていると言いたくなったが、たとえ何処かから潜入されていたとしてもこれほどの距離まで感知できなかったのは事実だ。
気配遮断、知覚阻害、聴覚阻害、認識阻害。全てを使用できるのは高位の魔術師だけだとなれば、この老人は魔術師ということになる。
頭には幾つもの可能性が浮かんでいく。アーゼライ教の天敵である魔術大国の刺客や、最近勢力を取り戻してきた帝国の諜報、もしくは魔王の配下など。
しかしどれも当てはまらない。これだけの魔術を行使できるのに姿を見せる理由がなかった。
そうなればやはり、アルバートが名乗った通りの完全な部外者となるが、勇者たちには虚偽を口にする魔王の配下にしか映らなかった。
アルバートは警戒を解かない面々を悠然と見回してから、ヴァレイルに向けてひらひらと手を振った。
「そう警戒しなくてもいい。私は君命を受けて君たちに加勢しに来たのだからね」
「……加勢、だと?」
「おや、ミラ・サイファーから聞き及んではいないのかな?」
確かに、公国へ出立する直前に聞いている。
視線で事実であることをドグマに伝えるが、眉間の皺が懐疑心を表していた。
「へぇ、王国への援軍ですか。エステルドバロニア……聞いたことがありませんね。どこかで湧いた新興の小国でしょうか」
「小国……ね」
「そうでなければなんだというのですか?」
「ここまで侵入されて姿を見せるまで気付くことがなかった弱者が、随分と粋がっているなぁ」
嘲笑うような挑発に飄々と返すアルバートの態度が気に食わず、クランバードは小さく指を動かした。
些細な動作は気付かれず、ギュルっと唸るように三本の触手が蠢く繭の影から小柄な体目掛けて伸びたのを勇者は目で追うこともできなかった。
理解できたのは全てが終わってからのことであり、瞬きの間の結末は老人が貫かれた無残なものを想起させた。
しかし、仕掛けたはずのクランバードは最初こそ愉悦に目を細めていたが、手応えのなさを感じて少しずつ眉を顰めていく。
直進した触手は螺旋を描いてアルバートへ迫ったはずなのに、肉を千切り、血を啜り、臓腑を食い破って絶命へと至らしめる甘美な手応えがなかった。
「薄汚いモノで触れないでくれないか。我が王より賜った、世界に二つと無い貴重な礼服なのだよ」
礼儀を知らない連中だと独りごちりながら、アルバートは煩わしげに体に触れる触手を手で払った。
クランバードの意識下に置かれていたはずの黒腕は力なく地面に転がる。その先端は、出来の悪いバネのような蛇腹の形状にひしゃげていた。
気配を消してこの場に現れるよりもわかりやすく彼我の差を如実に表す光景に、更に警戒が高められる。
こんな化け物が魔王を名乗ったとしても信じられそうだった。
「さて」
こほんと小さく咳払いをするだけでドグマの剣がピクリと切っ先を下げる。
「そろそろ本題に入っても構わないかね? 私は私の主人以外のことで手を患うのがとても嫌いなのだ。あの御方と過ごす時は何物にも代え難い素晴らしい時間で、その為に尽くすことは苦じゃないが、余計な手間を取らされるのは耐えられん」
そう言ってクランバードの方へ体を向けてゆっくりと歩き始めた。
クランバードはわざとらしく悠々と迫る不審者をどう迎え撃つべきか頭を巡らせ始める。
先ほどと同じ手段では傷一つつけられない。であればもっと強力な手段を選ばなければならない。
あの日、己の運命を呪い絶望していた自分に、魔王の配下を名乗る女によって与えられたこの力。
拒絶した世界に報いを与えろと渡された、世の悪と絶望を編みこんだこの繭。
世界を一度は破滅寸前にまで追いやった最も凶悪な魔物の力が、ぽっと出の存在に負けるはずがない。
その自負があったから、クランバードは今日の今日まで脆弱な世界を見下して嗤っていられた。
「しかし、実に面白いことを魔王とやらは考えるようだ。堕ちた勇者とはね」
今度はこの繭の力を全て解き放ってしまえ。
ドグマとヴァレイルもろとも絶望の汚泥に沈めて壊してしまえばいい。
切り札の強力さをよく知るからこそ、まだ笑っていられる。
「人間の救世主であることを放棄し魔に従属した存在……興味深いが、如何せんこの程度では役に立たんからなぁ」
指を動かす必要すらない。
望み、願うだけでこの繭は手足と同じように動いてくれる。
こんなに隙だらけなら簡単に飲み込めてしまう。
だから動けと命じたい。
なのに、何もできなかった。
一歩一歩と近づいてくる。
その歩みに合わせて、老人から溢れる魔力の濃さを感じてしまった。
「あの世界の勇者であればどうなのだろうか。超越した力の原動力が魔物への殺意であるならば、矛先が人間に変わった場合も同じ効力を発揮するのか? コレを見ている限りではよく判らん」
邪魔な衣服を脱ぐように、抑えていた枷を外していく度に膨れ上がる邪悪なオーラ。
背後に控える悪意の塊と比べてしまえば、この繭なんてただの泥人形だ。あの日出会った魔王の配下も赤子でしかない。
魔に堕ちたからこそただの人間以上に異常性を理解してしまう。部屋に満ちて歪み漂う紫黒の陽炎が、罪過のない無邪気な殺意を象っているのだと。
凍りついたクランバードの感情を代弁するように、黒い触手が小刻みに震えていた。
「役に立つとしても所詮塵は塵でしかない。そうだろう?」
明るく弾んだ声に感情はない。
顔に差した影から覗く幾つもの目玉が、人智を憐れむようにぎょろりと回った。
「はっ、はっ、はっ」
余裕の消え失せたクランバードから漏れる吐息だけが辛うじて命乞いをしている。
全身を締め上げてくる威圧感は言葉を喪失させ、ただでさえ死体のように青白かった肌から搾り取るように生気を奪い去っていく。
彼の目にはアルバートしか映っておらず、因縁の相手だった王国の勇者のことなんて片隅にも過ぎらない。
決して手出しできない相手に怯えて竦み上がるのは、ちからを手に入れる前の臆病者の姿によく似ていた。
「待ってくれ、アルバート殿」
背後に手を回して何かを取り出す仕草をするアルバートへ、ヴァレイルが声をかけた。
「ふむ、なにかね?」
捨て置いても構わないが、口だけとは言え同盟関係を結んだ相手だ。
横合いから都合のいいタイミングで殴りに来た自覚もあって、アルバートは誤魔化すように空いた手でハットを直しながらにこやかに応えた。
「援軍に来たと言うのはありがたいが、あくまでもこの戦はリフェリス王国とラドル公国の戦争だ。その主犯であるクランバードに手を出されては我々も立つ瀬がないんだ」
「ほう。しかし諸君らの弱さが招いた事態じゃないか。醜態を晒しておいて、それを手助けしたのは我々なのだよ? 顔を立てろとは虫のいい話だ」
「だが、こちらとしてはその援軍の話も疑わしく思っている」
それは当然だ。
ミラ・サイファーから伝え聞いただけで何処の勢力かも分かっておらず、正式に要請したわけではないのだから。
根本を疑われてはアルバートも援軍であると自ら口にした以上迂闊に関係を崩す真似はできないはずと読んだ。
どうにもこうにも物事がアルバートの登場で有耶無耶になり始めてしまった。
それを正道に戻そうと判断したヴァレイル。
しかし、一歩前に歩み出たドグマが大剣を振って空気を壊した。
「やりましょう」
「は……? ドグマ、貴様何を考えて」
「こんな化け物を野放しにはできません」
肩をつかみかかったヴァレイルに向けられた眼差しには正義感が爛々としている。
今この場この状況で、最も不要な感情だ。
叫びたくなるのを堪えて、前に進もうとする巨体を必死に離さぬようにしながら小声で叱責する。
「状況を考えろ! 三竦みなんぞになったらどうなるかわからんわけじゃないだろうが!」
「では、こんな存在の下になることを良しとするのですか!?」
「話が飛躍しておるだろ! 賢く立ち回らんか! 少なくともこの場で敵対するべきではない相手なことくらい感じているだろうが!」
「だからこそです」
震わせる身体は敵意の証でもあり、同時に怯えの証でもあった。
「嘘か真かはもう重要じゃない。これほどの悪が王国に毒牙を突き立てようとしているのを見過ごすなど、私にはできない!」
この怪物が懐に入り込もうとしている危険はヴァレイルにも理解できる。
須らく救国の英雄になるべしと部下たちを奮起させた言葉を違えられない性格なのも知っている。
事実、ドグマは己の中を流れる勇者の血が巨悪を滅ぼせと叫ぶ声に支配されていた。
「……勝てんぞ。あれには」
血の衝動に同じく駆られていても理性で跳ね除けるヴァレイルが囁くと、ドグマは剣を腰だめに構えることで答えた。
「そうか。なら付き合う他なさそうだな」
「すみません」
「いい。気持ちは、同じだとも」
肩から手を離し、ヴァレイルも杖を振って音叉を鳴らした。
共鳴した波紋が魔力に作用し、鮮やかな真紅の魔法陣を描いていく。
「おや、どういうつもりかな? 私はそちらの味方なのだが」
「ふざけるなよ化け物。お前のような存在が人間に味方するわけがないだろう。邪悪の化身を野放しにすれば世界に破滅を導くことになる」
「随分と能天気な頭をしているのだね。懐かしさすら感じるよ」
「懐かしい……?」
アルバートの言葉に引っかかりを覚えたドグマは、それを瞬時に人魔戦争のことだと結びつけたが実際は違う。
しかし正すつもりは微塵もなく、むしろ好都合だと化け物らしい笑みを作ってみせた。
「もう一度言うが、私は君たち王国のことを助けに来た」
「なら俺ももう一度言おう。邪悪の化身を野放しにするなど、勇者である私にはできんと!」
手を仰いでいる隙にドグマは飛び込んだ。
瞳に真紅の焔を灯し、眼前の敵目掛けて。
もう2人の目にクランバードは映っていない。目の前の邪悪に注視し、それを打ち倒すことに燃えていた。
「はぁ、はぁ、っくぅぅうううう!」
それと同時にクランバードも動いた。
ドグマたちと共闘する意思はないが、ここで動かなければただ無残に殺されるのは目に見えていた。
行き過ぎた恐怖からの逃避にも似た、黒い獣の全てを解き放つ螺旋の槍が先よりも強力な一撃となる。
誰もがアルバートを見ている。
震え上がる恐怖。奮い立つ勇気。
どちらも、強大な存在を前にした弱者の思考でしかなく、それが弱者の証左であった。
「うぉぉぉぉおおおお!!」
鼓舞するように咆哮する剛剣。
その背後で今放てる最上の魔術を組む大火。
「うわぁぁぁぁああああ!!」
恐れに突き動かされて絶叫する簒奪。
ウェポンスキル・《エリミネーター》
刹那、蒼黒の光に飲まれて跡形もなく消え去った。
音もなく悍ましい輝きが視界を埋め尽くし、消え去った時には屋敷の大半が穿孔されていた。
薄暗く淀んだ部屋には陽光が差し込み、吹き込む風が場違いな穏やかさを運んできた。
何一つ知覚できずに、王国最強の騎士も、最高の魔術師も、悪に堕ちた勇者も、モノクロの彼方で死を遂げた。
それを為した張本人たるアルバートは、晴れやかな顔で構えを解いた。
左手には黒鉄の羽を折り重ねた巨大な弓があり、右手は3つの刃を放射状に取り付けた同じく巨大な矢が握られていた。
歌い出しそうな上機嫌さで異形の矢を影の中へ消し去ると、高く響く金属音を立てて折り畳まれた黒弓【アルデバラン】を背負い、弾む足取りで崩れかけた屋敷の外へと出る。
胸の中にあった邪魔な思考を振り払えた歓喜に、消した者への手向けも忘れて。
「いやいや、こうも思い通りに事が運んでしまうと腹を抱えて笑いたくなるねぇ」
アルバートはこの度の計画に於いて勇者による友好関係の妨害を懸念していた。
勇者が魔物に対して心の底から好意的な感情を向けてきたことは一度たりともない。
勇者がエステルドバロニアに対して強硬姿勢を取ってしまえば凡百は従ってしまうだろう。
だからこそ、カロンからこの件を命じられた時にカロンの意を汲み、言い訳の立つ流れを作り双方を処分することに決めたのである。
アポカリスフェにおける同盟システムは両国の王が同意することで国民や軍に敵対行動を制約をかけるものである。
王の命令があって初めて裏切ることが可能であり、アルバートが勇者に攻撃されたからと言って無断で弓を引くこともなかった。
しかし今回は所詮口約束でしかなく、システムが作動していない。
つまりは、カロンがこの展開を期待しているのだとアルバートは考えた。
この勇者2人を失えば、才能の面で見ればカロンと交流のあるミラたちが上の地位に就く可能性がある。
信頼も信用もできないが、少なくとも人間の王に対して悪感情を持っていない者が今後の流れに作用してくれると期待できる。
恐らく引きこもった内政官は受け入れないだろう。だが低級モンスターの活躍を目にした軍官は従うべきだと唱えるはずだ。
天秤が余計に傾かないくらいが付け入る隙を作り出してくれる。
「向こうももう終わる頃合いか。本当なら大公とやらを殺して作り変えて戦場に送り出した方が面白くなりそうだったんだがなぁ」
許可なく命を弄ぶのはアルバートでも気が引けるようで、ポリポリと頬を掻いて残念がりながらも仕方ないと諦めた。
これで全て丸く収まる。
この成果をどのように褒めてくださるのか。それを考えるだけで歪む口元を抑えられない。
久方ぶりの清々しい気分に乗じて陽光を仰ぎ見て、燦々と照らす光の中に笑いかけた。
「よく見ておけ。この場に姿も出せない軟弱者の集団め。掃き溜めから湧いた蛆のすることに関心はないが……我々の、我が王の邪魔だけはしないでくれたまえよ」
バキン、と音を鳴らして構えられた黒鉄に巨大な三枚刃の矢が番えられる。
「それではごきげんよう。身の振り方は間違えぬよう注意したまえ」
深い皺の刻まれた指が離されると、天高く閃光が放たれた。
それは、この戦の終わりを告げる鏑矢となった。
獅子奮迅の働きを見せた魔物たちも、それを呆然と眺めていた騎士たちも、大地に伏した巨躯から目を外して空を見上げる。
どれだけ大きな戦であろうと、そこに英雄がなければ大きな感動も起こらない。ただただ、終わったことへの安堵とこれからへの不安ばかりが胸に飛来するのだ。
王国は勝利を得る代わりに掛け替えのない対価を支払った。
魔物の国の存在によってこれから大きな変革を求められるだろう。
それが彼らにとって幸運と呼べるかは今後の身のふりにかかっている。
「隊長?」
屍の転がった血塗れの大地で、ミラだけは遠く彼方を見つめている。
快哉も叫ばず怯えたように集まる騎士の群れから外れ、死骸の処理をするコボルトよりも向こう、森の木々より高い白亜の城を。
薄く開いた唇は誰かに向けて何かを語ろうとして、そのままゆっくりと閉じられた。
ただ、きりっと鳴らされた歯だけは押し殺された心の音を奏でた。
◆
手の届かぬところで全てを終わらせられ、心の澱を抱えたまま人間たちは国へと帰っていった。
公国がどうなったのか、各地の貴族は無事なのか。そんなことさえ調べようとせず、茫然自失のまま受け入れきれない現実を持ち帰り、吐き出して楽になることを選んだ。
街が勝利を祝っても空回りしているだけで、騎士たちは皆、あの時死んでいた方が良かったのかもとだけは口にしなかった。
対して、夜の帳に覆われても煌々と明かりを灯して賑わいを歌うのはエステルドバロニアである。
軍において最も階級の低い魔物たちが今回の戦争に抜擢され、大きな戦果を上げたとなれば騒がずにはいられなかった。
主力とも言える部隊から若干の不満はあったが、しかし普段小間使いばかりすることの多い者たちが活躍する場を異郷にて得たことは喜ばしいと称賛の声も上がった。
財への執着が薄いことに加えて国が豊かなお陰で国内で経済がよく回るが、まだまだ物資を安定して入手する目処がたっていないので使われすぎるのも困りものだ。
だが、やはり吉事に国が協力しないのも狭量だろうとこの度も大量の食材を提供したのである。
その判断は、カロンから下された指示ではなかった。
内政を司る王城右に聳える執務塔。
その周辺に備えられた食糧庫の前で、鋭い眼光を手元の資料に向けながら口頭で自分が従える第16団の兵に搬出の指示を飛ばしていた。
「姐さん、これ以上肉類を出すと予定を超えちまいますぜ」
近くに寄ってきたオークよりも豚に近い【ピッグマン】が鼻を鳴らしながら耳打ちしてくる。
「ああ」
「ああって……って、これカロン様の許可を取ってないんでしょ?」
「許可はもらっている。任せたと」
「いや、えぇ……?」
普段のルシュカであれば必ず「偉大なる我らが王から勅命を」などと騒ぐのだが、今回はそのような前置きもなく粛々と命令を下したことに不信感を感じている部下に、彼女は何も説明しない。
いかに上司であっても独断に従うのは釈然としないピッグマンがもう一度真意を尋ねようとする。
「姐さん、やっぱ――」
「こらこら、そんなに団長を困らせちゃいけないよ?」
キザったらしい口調に、ピッグマンは顔を向けずとも誰なのか察して顔を顰めた。
「副団長……」
「そう、副団長のノット・コブラツイストさんだよっ」
美青年を想像させるが、ピッグマンのジト目の先にあるのは巨大な、巨大な目玉であった。
ランク10の異形種【アンラ・マンユ】は巨大な眼球から触手と翼を生やした化物中の化物だ。魔物たちの中にある格で言えば図書館の怨霊より上である。
しかし扱いは16団の中では団長たちにとっての五郎兵衛とほぼ同等と言えば察しがつく。
「なんだい、その塩の塊を口の中にねじ込まれたような顔は」
「塩の塊より不味いのが来たからっすよ」
「こんな柑橘類のような爽やかな神様を前にして失礼なことを言うなぁ」
どんなに言おうと、うねうね触手を動かす目玉だ。そこに爽やかさを感じたら魔物であってもイカれてると思われるだろう。
「カロン様も此度の勝利を喜んでおられた」
「なら、なんで落ち込んでるんですかい」
この戦はカロンの思い描いた通りに進んだと認識している。
加勢を滞りなく成功させ、各地の救助も迅速に終えた。障害となる勇者の処分も果たし、エステルドバロニアの存在を大々的にアピールできたのだ。
それならルシュカも喜んでいなければならないのに、軍上層部に流れる空気は鉛のようだった。
「カロン様が部屋から姿をお出しにならないのだ」
「え? なんでまた」
「分からんよ。お疲れなのか思うところがおありなのか……」
「それで皆心配しているのさ。軍に向けた命令がそれ以降途絶えているしねっ」
「ねっ、じゃねえでしょうよ。お付きのキメラは何も言ってないんですかい?」
「ああ。奴らも入室を禁じられているらしい」
何一つ問題はなかった。そのはずだ。
では何故。
魔物では理解することのできない感情がそこにはあるのか。
異世界に転移してから、知らなかった王の姿を見る機会が増えた。
それは喜びでもあり、同時に多くの不安と疑問を生むことになった。
「同じ人間なら……」
同じように悩み、支え合うのだろうか。
自分が人間なら、打ち明けてくれるのだろうか。
見上げた王城の中腹で灯る部屋の明かりを見上げて思いを馳せても、ルシュカには何一つ知ることはできなかった。
◆
夜通し宴が繰り広げられるエステルドバロニアに、夜闇に紛れて人影が迫る。
お祭り騒ぎとなれば小さな諍いもよくあるからと兵士は皆街の中に配備されており、外壁周辺には誰も見当たらない。
それは決して怠慢ではない。
いつでも戦闘を行える軍の自負もあるが、それ以上に優秀なプログラムと優秀な魔物がいるからこそ安心して任せているだけだ。
「来たか」
高い外壁の上で仁王立ちする晦冥白狐が、期待どおりとほくそ笑んだ。
風を置き去りにして走る人影は外壁の真下で跳躍すると、何度か壁を蹴って登りきった。
濃緑のマントで頭まで覆った侵入者は、梔子姫の前に降り立つと静かに剣を抜き放つ。
月明かりの下で白銀に煌めく双剣。その切っ先が喉元目掛けて構えられた。
「君ならそうしてくれると思ったよ。ボクの目に狂いはなかったね」
「黙れ。その薄汚い口をすぐに閉じろ」
「ふふ、いいね。アルバートには悪いけどこっちに賭けたボクの方が楽しめそうだよ」
異形の腕が待ちきれないように爪を鳴らす。
「せっかくなら顔を見せてくれないか。あの時はちゃんと見てないんだ。この世界で最初に殺す人間の顔くらい覚えておきたくってさ」
侵入者は腕を突き出したまま、もう片方の手に握った剣を逆手に握り変えて留め金を外す。
一瞬吹き抜けた夜風をはらませてマントは空高く飛んでいった。
「ぶち殺してやる」
「やってみろよ。二度目の敗北は死だ」
銀月の髪を束ねた、氷の眼差しに殺意を込めた勇者――ミラ・サイファーは、清らかな騎士の鎧には似つかわしくない復讐心に燃えている。
予期されなかった戦い。
この戦の第二幕が始まった。