19 衝突
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彼方から徐々に顔を覗かせ始めた太陽が、紫がかった空に光を滲ませていく。
露に濡れた平原に、2000人の騎士と馬に騎乗した300人の騎士が悠然と並ぶ光景は壮観だった。
コルドロン連峰の白い尾根が暁に光る頃には、リフェリス王国騎士団の陣営はほぼ用意を終えている。
ラージシールドと黒い大剣を背負い黒い愛馬に跨った勇者、“剛剣”ドグマ・ゼルディクトは眩しさに目を細ませて青と白の甲冑に身を包んだ兵達を見渡した。
先頭に立つのは熟練の騎士であり、そこに怯えは感じさせない。
だが、数列後ろとなれば体を震わせながらこれからに恐れる者も、いつ逃げてもおかしくないほどに動揺している者も窺えてしまう。
それも仕方がないと、勇者であるドグマでさえ思った。
反対側へ目を向ければ、蠢く大小様々な影が重音を鳴らして悠々と迫ってきているのが確認できた。
どれも人間とは程遠い異形の影。悪名高き公爵の従える軍勢がやってくる光景は、御伽噺で聞いたかの大戦を彷彿とさせる。
こんな戦はさしもの彼でも経験がない。
人を、魔を、国を害する全てを自慢の大剣で切り捨ててきた彼であっても、列をなして大挙する魔物の軍など見たことがなかった。
せいぜい群れで行動する魔獣を討伐したぐらいで、今直面している状況とは雲泥の差だ。
「多いな」
馬を駆りながらぼんやりと数えて、吐いた息は微かに白く色づいている。
想定よりも大型の影が多く見受けられ、厳しい顔を険しく変えた。
数の利さえ怪しいのに、巨大な魔物を相手取り、はたして彼らは戦えるのだろうか。
いくら勇者と持て囃されても結局は人であることに変わりはなく、大切な部下に死地へ赴くことを強いるのは幾つになっても辛いものがあった。
「団長」
後方から追ってきた側近の若い騎士の声に気付き、ドグマは手綱を引いて足を止めて振り返る。
「首尾はどうだ」
「魔術部隊は最後尾にて展開を終えています。治癒魔術師も後方に配備していますが、障害のない平野での戦闘なので期待はできません」
ドグマが視線を更に遠くを見通せば、青いローブを被った者たちが騎士に囲まれるようにして参列しているのが見えた。
戦いの主役はヴァレイル・オーダー率いる魔術部隊だ。
高い火力で敵主力を圧倒する彼らを騎士が守り、敵の侵攻を食い止めなければならない。
普段であればここまで心配はしないのだが、会議によって各地へ派兵し住民を救出することが決定したため、中堅の殆どがそちらに回されているのだ。
民を見捨てるなど騎士に非ずと豪語するドグマだが、それとこの不安は別物だった。
「ただ、巻き込まれなければ勝てるから上手く逃げろ、と言伝を頂いております」
伝えられた言葉にドグマはふっと笑みを零した。
「無茶を仰る。“大火”の魔術は味方でさえ逃げるのに苦労する威力だというのに」
「通信魔術で逐一連絡はくると思いますが、とにかく陣形を魔術に合わせて変えねばならないでしょう」
側近が魔法陣の描かれた小さな紙を取り出してドグマの喉に押し当てた。
魔術が使えなくても通信魔法など簡単な術を行使できるようにする魔導紙片は一瞬にして燃え尽き、喉には魔法陣が転写された。
「此度の戦はヴァレイル殿が頼みの綱だ。我らは敵の足を阻み、後方へと逸らさぬことに徹するしかない」
「しかし、この士気では……」
ドグマと同じように、側近の者も不安を拭えない様子だ。
兵士も、騎士も、長らく戦争に身を置いたことがない。魔物の討伐ですら従事経験のない者も少なくない。
「王はあまりにも弱腰過ぎました。どうやってあれだけの数を公国が揃えたのか知りませんが、もっと早く叩いておくべきだったのです」
「そう言うな。神都の元老院と繋がっていては手出しできなかったのも事実だ」
「だとしても」
「情けない話だな。さんざっぱら警戒しておいてこのざまでは諸国に笑われても仕方あるまい。はっはっは」
「笑い事ではありませんよ!」
憤る姿に「すまんすまん」となお笑いながら謝罪する。
「だが、今日を越えればそれも終わる。リフェリス王国は大国として大きく躍進できるだろう」
公国が力を失えば王国を押さえつけていた障害が全て取り払われるのだ。
神都から元老院が降りたのは朗報でもあり、全てを王国の手に収めることも可能となる。
「そのためには、なんとしても我らの正義を示さなければならない。慣れた中堅の者たちが各地へと赴かなければ民の救出も叶わんからな」
「やはり判断が正しいとは、その。この戦力ではやはり厳しいと思われます。今からでも戻ってもらうわけには」
「いかんな。先へ延ばせばそれだけ被害は増えていく。なにより、騎士が民を守らずして誰が守るのだ」
騎士道など形骸化して誰も信奉してはいない。
それでも、騎士となったからには騎士として務めを果たす義務がある。
国の命運を前にして、いつまでも弱音を吐いてはいられなかった。
『あーあー、聞こえるか剛剣ー』
鼓膜が大気を介さず声を拾う。
ドグマは喉に刻まれた魔法陣を押さえて遠く後方へと目を向けながら返事をした。
「聞こえている。調子はいかがかな大火殿」
ドグマの軽い調子にヴァレイルは鼻を鳴らした。
『アホほど魔獣の類が投入されているのを見ていると辟易とするわ。普段と違って撤退する可能性を考えられん』
「ええ。あれだけの数を相手に我々は殲滅戦と同時に大公の殺害までこなさなければなりませんからな」
『まったくこれだから魔物は嫌いなのだ』
操られている魔物となれば、被害を見て逃げることは想定できない。
そうなれば相対する騎士団も撤退は許されず、どちらかが根絶やしになるまで戦い続けなければならないのだ。
「お互い頑張りましょう」
『干枯びたら貴様ら全員に呪いの一つでもプレゼントしてやるから覚悟しておけ!』
不穏な言葉を残して音声はブツリと途切れた。
「何か仰っていましたか?」
「なに、いつもの憎まれ口だ」
仕方のない人だと笑い、ドグマは一度公国軍を見やる。
確かに辟易とするが、同時に心に湧くものがある。
それは体に流れる気高き血の声だ。
「さて、征くか」
「はっ。お供いたします」
ドグマは馬首を返して戦列の中央まで戻ると、盾と共に提げた黒い大剣を抜き放ち、片腕で高く天へと掲げた。
いよいよその時が来たのだと、兵たちに知らしめる。
「王国の盾にして剣よ!」
澄んだ夜明けの空気を震わせて、ドグマの大喝が王国軍へと響き渡った。
落ち着かない空気が一気に引き締まり、威風堂々と剣を掲げる勇者に皆が注視する。
「悪しき公国の軍勢が王都のすぐ目の前にまで進軍している。此処で我らが立ち向かわなければ明日はない。これほどの危機を迎えたことは建国以来一度としてなかっただろう」
ドグマの声が聞こえたのか、示し合わせたように公国の軍も足を止めた。
「かの英雄たちが乗り越えし多くの試練、その一端を我らは前にしている! だが臆することはない!」
人を奮い立たせる力がそこには強く篭められている。
旭日を浴びて輝くドグマの姿は最強の騎士に相応しく、高らかと吼える獅子を連想させた。
「我らは救国の英雄となる! かの九人の騎士と名を連ねる日がついに訪れた! 今ここに我ら、リフェリス王国騎士団の英雄譚を始めよう!」
その宣言に呼応して銀の光が一斉に空へと掲げられ、爆発したように雄叫びが上がった。
喉を枯らして叫ぶ勇士を自慢げに見て、ドグマは迫る化け物の大群に身を向ける。
「お見事です」
小声の称賛に子供っぽく笑ってから、顔を引き締めて大剣を眼前に振り下ろした。
「全軍、突撃いい!!」
大陸の覇権を決める戦いの火蓋が、ついに切られた。
王国軍の進撃に、公国軍もすぐさま動き出す。
足の速い四足の魔獣が躍り出て、食い殺さんと涎を撒き散らしながら押し寄せてきた。
隊列も何も無く、ただ足の速いものから我先にと突き進む無策の進軍は好都合だ。
恐怖を振り払うように叫ぶ兵も各々武器を構えて草原を駆ける。
その頭上を、鮮やかな橙に光る流星群が追い越し、着弾と同時に激しい炎が辺りに解き放たれた。
魔力から生み出された炎は獣を抉り、また燃やしていくが、それでも獣の群れは止まらない。
蛇蝎のように蛇行しながら迫る【ラフィングゴート】の目に、天に描かれた巨大な真紅の魔法陣が映りこんだ。
それは2つ、3つと大小繋がった術式を大きな円が取り囲んだ三重詠唱の妙技。ヴァレイルが“大火”と呼ばれる所以となった王国至高の高位魔法の輝き。
「遍く焔の綺羅星よ、集い猛る業火にて悪しき万物を薙ぎ払いたまえ!」
右の瞳に赤い陽炎を浮かび上がらせた王国最強の大賢者は、人の合間を縫って視界に映る一群を捉えると、勇者たる力の一端を解放した。
個体保有スキル・《勇者Ⅱ》
個体保有スキル・《フレイムブーストⅡ》
スタンススキル・《灼炎魔紋》
スタンススキル・《トライボルテージ》
マジックスキル・火《アグニライン》
「巻き込まれるなよぉ!」
遥か後方にて杖を振り回し、愉快だと言わんばかりに高笑いを上げるヴァレイルが三叉の先端に浮かんだ魔法陣に力を込めれば、天に浮かぶ巨大な円から一筋の閃光が降り注ぐ。
ギュオンと音を上げながら横薙ぎに奔った光線が魔物を大地もろとも融解し、軌跡を追って噴き上がった炎柱が一瞬にして兵たちの視界を紅蓮に染めた。
熱風がひと際大きく吹き、天へと伸びた炎が掻き消える。黒く焦げ付いた地面に幾つもの屍が転がり、風と共に灰燼と帰す。
それに唖然とする騎士たちを置き去りに、ドグマ率いる騎馬隊は臆することなく炎の轍を乗り越えて突撃を敢行した。
羽のない三腕の巨大な蟷螂がドグマの正面で頭上から伸びた腕を振り回しているが、僅かな減速と猛烈な加速だけで容易く刃の間をすり抜ける。
個体保有スキル・《勇者Ⅰ》
個体保有スキル・《英雄Ⅰ》
スタンススキル・《騎乗特性Ⅳ》
ウェポンスキル・大剣《ブリッツブレイド》
置き土産にと横に振るった大剣が硬い腹部へと食い込み、勢いを殺さぬまま通り過ぎただけでゴロリと上体が地面に転がり落ちた。
「ルベント、隊を分けて左右へ回れ! 雑魚は任せたぞ!」
殺到する魔物を躱しながら一太刀浴びせ続けるドグマは視界に映った部下へと声を張り上げる。
視線が交錯し、首肯したのを確認して愛馬の手綱を振るって更にスピードを上げて追従を許さない。
大型であればあるほど動きが鈍重だが簡単には死なないし生半可な攻撃は通用しない。なによりも戦うとなれば足を止めて邀撃しなければならないのが鉄則だ。
騎馬隊の役目は機動力を生かして小型の魔物を殲滅することにあり、ドグマはその中でも厄介なものを選び討伐することを任としていた。
ウェポンスキル・大剣《スタンバッシュ》
飛び掛かってきた赤黒い蜥蜴の頭部を大剣の腹で強打して昏倒させ、ドグマも馬と共に体を傾けて右へ向き、群れの中から離れて自軍へ目を向ける。
先頭集団が衝突し、怒声と悲鳴、咆哮と叫喚が溢れて止まない。
ひとたび駆ければ救うこともできる距離。
しかしドグマは与えられた役目を全うせねばならず、気軽に動くわけにはいかなかった。
改めて戦場を見渡す。
小賢しいゴブリンのような知恵を持つ魔物は今のところ見受けられず、どれも生物に近い本能で動く獣ばかりで、小手先の策略は見られないのは幸運だろう。
小型の魔物を騎士が請け負い、魔術部隊が大型を優先して攻撃する戦法。
しかし、かつての魔王戦役で培った戦略が効果的でも数の不利は如何ともしがたい。
それを埋めるために、勇者の2人が誰よりも奮戦する必要があった。
(どうやってラドル大公はこれだけの魔物を揃えられたのだ。監視はずっとしてきたはず。内通者がいるとすれば厄介だが、それでもこれほどの戦力を国内に潜めておくなど無理がある。
いや、しかしこれだけの魔物をどうやって操っている。テイマーの姿どころか大公すら見当たらないなど、有り得るのか……?)
王国が大公の力を見誤っていたのは決して王の日和見だけが原因ではない。
周辺地域の魔物だけであれば王国の兵力なら苦もなく勝利する自信があったが、今戦場には多種多様な魔の化身が揃い踏みしており、中にはこの大陸には生息していないものまで混じっている。
加えて、魔術で魔獣を制御するテイマーは効果範囲の関係から魔獣の側に居なければならないのに、どれだけ駆け回っても人影が見つけられない。
もし、ラドル大公の“簒奪”の力だとすると、これだけ多くの魔物を使役できるはずがないと大公を知るドグマは結論付けていた。
鋭い眼光は遠くに霞んで見える公国を見据えている。
(裏で暗躍する何者かがいる。それもこれほどの魔物を誰に知られることなく与え、従わせるほどの)
まさかとは思うが、その可能性をドグマは捨てられなかった。
思案に耽りかけた視界が白と緑の風が駆けていくのを捉える。
急いで馬の腹を蹴り兵のもとへと向かった。
タワーシールドを構えた重装騎士へ突撃していく豹は暴風を纏って鋭い爪牙を鋼に突き立てる。
分厚く頑強な盾を、歪な牙は紙切れのように切り裂いて後ろに隠れた騎士へと食らいついた。
悶える騎士を振り回しながら手遊びに周囲の者も傷つけ、メキリと柔らかな肌に牙が食い込んでいく。
「ぉぉぉおおお!!」
ウェポンスキル・大剣《オーバーバスター》
馬上から飛び、空中で縦に一回転しながら忌まわしき山頂の覇者【ニルブレ】の首めがけて大剣が振り下ろされる。
ドグマの瞳に灯った赤い光が軌道に帯を引き、地面を踏み砕きながら静止した鬼の形相に血が降りかかった。
「無事か!?」
落ちた兵士を確認するが、既に事切れていて苦悶の表情を浮かべたまま空を見つめていた。
やりきれないと思うよりも早く再び愛馬に跨って次の標的を探し、若い騎士では手に負えない魔物を率先して狙っていく。
獄風豹がいるとなれば、同じくコルドロン連峰の支配者だった他の種も存在するはずと、側へ寄ってきた愛馬の手綱を強く引き寄せ颯爽と跨って次の標的へ駆けた。
周囲には惨状が広がっているが、まだ騎士団の方が魔物を圧倒できているように見える。
日も浅い新米を編隊しながらでも過酷な訓練をこなしてきた成果を発揮してどうにか渡り合っていた。
それでも皆が無事とは言えない。転がった屍を貪る隙に、泣きながら剣を振り下ろす者も多く見られる。
果たして、魔物が全て斃れた時にどれだけの騎士が立っているだろうか。
「団長! ここは我らにお任せを!」
拘泥としたドグマの想いに応えるように、千々に襲い来る乱雑な群れを狩って回っていた副団長が長槍を脇に抱えて一気呵成に交戦する修羅場へと飛び込んでいった。
「頼むぞ!」
ドグマも目指していた標的目掛けて吶喊する。
人と魔物の間を掻き分け、凶爪を振り回し傍若無人の限りを尽くす凶悪な獣を探し、そして強靭な体躯から剛剣を繰り出す。
臆するなと、魔物如きに人間は負けないのだと、懸命に戦い続ける戦友に見せつけるように。
3体目のニルブレを討伐し終えた時、ドグマの視線の先で魔物の本隊が左右に道を開けたのを見た。
重々しい音を立てて割れた道の先から現れたのは、予想通りの厄介な魔物の姿だった。
「っ、ヴァレイル殿ぉ!」
凍気をごつごつした背甲から噴出させる蜥蜴が大口を開けている。
【ミノタウロス】や【イエティ】を相手に苦戦する王国軍はそれを察知して回避するのは不可能だ。
咄嗟に喉を押さえて叫んだ名前の主は、ドグマに向かって倍近い声量で怒鳴り返した。
『聞こえとるわアホ! 通信魔術越しに叫ぶな、気が散る!』
ヴァレイル・オーダーの目にもその姿は捉えていた。
獄凍蜴の異名を持つ魔物【ブラムリザード】の吐く冷気は一瞬にして凍りつかせる。
その威力に対抗できるのはヴァレイルだけであり、苛立ち交じりに急ぎ魔力を練り上げた。
「ええい! 烈火迸り冷寒無へと帰す、紅き加護にて守り給え! 《フレイムウォール》!」
個体保有スキル《ロングレンジキャスト》
ヴァレイルだからこそできる魔術の長距離発動によって、ブラムリザードが狙い澄ました進路上に魔紋が浮かんだ半透明な橙色の壁が展開される。
蜃気楼のように揺らぐ心許ない魔法障壁目掛けて、凍て付く蜥蜴のブレスが放たれた。
氷柱を生み出しながら直進した冷気は、炎の壁に衝突した途端春風に変わる。
突破せんと吐き出し続けるブラムリザードだったが、その冷気を物ともせずに直進してきた魔法の矢を脳天に受け、周囲の魔物に冷気を撒き散らして絶命した。
「わしが大火と呼ばれるようになった所以なんぞ知らんだろうが、貴様らへの対策は昔からしとったのよ! この大賢者を甘く見るなよ大公!」
矢継ぎ早に放たれる炎が大型の魔物へ衝突し、その度に焼けた肉の臭いが辺りに充満する。
ただの下級魔術でさえ他の魔術師とは一線を画す威力。描く魔法陣の複雑さが勇者として得たヴァレイルの強さに繋がっていた。
かの魔術大国であっても炎の魔術においてはヴァレイルの右に出るものはいない。
杖を振るえば赤き魔法陣が十重二十重に描き出し、空を舞えば異形の者を炎に包み燃やし尽くす。
飄々とした普段のヴァレイルからは想像もつかない芸術的な魔術は大賢者に相応しいものだ。
しかし、王国最強の魔術師である彼にも弱点があった。
「はぁ、ふぅ……よし、次を寄越せ」
そう告げて視線を正面に据えたまま横へ手を伸ばすと、淡い紫の小瓶が若い魔術師から渡された。
それはオドの妙薬。魔力の篭められた液体であり、体内のオドを回復してくれる高価な代物である。
ぐっと飲み干して放り捨てると、既に転がっていた二本の瓶に当たって甲高い音を立てた。
いかにヴァレイルが最強の魔術師であっても抗えないものが、魔力の量だ。
描く魔術の複雑さは効果の増幅に繋がるが、比例して魔力も多く消費してしまう。
魔力の量が多いとは言えないヴァレイルは、国の倉庫から拝借した大量の妙薬が頼みの綱だった。
加えてもう一つ。
「なんじゃいあれは」
敵陣最後尾。
乱雑に、愚直に、獰猛に進む群れの中で一際目立つ赤熱が、昇った日の光よりも強く燃えている。
北の大陸にて【ヴァルクロプス】と呼ばれる溶岩の皮膚を纏った巨大な一つ目の巨人。
炎系統の魔術しか使えないヴァレイルにとっては最大の難敵であり、同時にあれがこの戦場最大の障害と察した。
「前言撤回。舐めてなんかいないぞ大公。しかしこうも魔物が多様では他国の介入も疑わしいものだな。いや、むしろ……」
その考えはドグマと同じ答え。
だが敢えて口にはせず、体のうちが満たされた感覚を感じて再び狙いを定め、火力で押し切るか搦め手に走るか思案したところで、
「……待て」
ふと止まる。
「探査魔法はどうなっておる!」
「どう……とは、敵陣営の魔物の解析に使用されておりますが」
「そうじゃない! 周辺に反応はあるかと聞いている!」
ヴァレイルの後ろで大きな魔法陣を囲んで波紋のように揺らぐ大気中のマナを感じ取り、動く物体を改めて捜索する魔術師たち。
複数人で同時に発動させた半径10kmにも及ぶ広大な探査魔法だが、前方で繰り広げられる戦闘以外には一切引っかからなかった。
「他には何もありません」
その答えに満足いかず、ヴァレイルは爪を噛んで思考する。
この戦場には、一番厄介な魔物が存在していない。
多様性に富んだ顔ぶれだが所詮は地を這う者で、魔法の耐性を持たなければ魔術師にはいい的だ。
後方に陣を構える厄介な魔術師を確実に狙うなら、当然距離を埋める手段が必要となる。
それが魔術の応酬でも、素早い襲撃でもなければ後に残されるのは何か。そしてどこから現れるのか。
視線を上へと向けて、雲の漂う晴れやかな空を見渡した時にはもう遅い。
それは突如として姿を現した。
「総員、空を狙え! とにかく撃ち落とせ!」
何を、と問うことはなかった。
ゆったりと泳ぐ大きな雲を汚す幾つもの黒点が襲来を意味している。
人間ではなく、魔物だからこそ警戒しなければならない種族。
空を舞う、魔鳥の群れだ。
大の大人2人分はある大きな翼をはためかせて戦場へと急降下する双顔の烏の足には四角い包みが括り付けられている。
先頭を切る大烏に向けて何度も放たれる魔術を錐揉みしながら回避していたが、弾幕を躱しきれず直撃すると、そのまま騎士団の中心へ墜落した。
直後、爆発。
ヴァレイルの魔術にも引けを取らぬ爆炎は魔術ではない。
人間の智恵によって生み出された代物は、魔術以上に効率よく周辺を吹き飛ばした。
「くそが。くそったれがぁ! やりおったなクランバード・ラドル! どこからこれだけの鳥と火薬なんぞ掻き集めおったぁ!」
怒りと憎しみに吼えるヴァレイルの頭上、迫る大鷲の足から二つの包みが届けられる。
辛うじて優勢だった王国の戦力が、一気に瓦解した。