18 決断
王の威光を表現したとされる絢爛豪華な謁見の間。
巧みに配置された淡い光は、趣向を凝らした装飾の陰影を際立たせていた。
琥珀に光る金の玉座に腰掛けたカロンの側にはいつも通りルシュカが控え、感情のない眼差しで人間を品定めしている。
台座の下で右からミラ、リーヴァル、マリアンヌ、ベルトロイ、ポウルと並んでカロンの言葉を待っていた。
何故隊長のミラが端に居るのか些か疑問だったが、このまま黙っているわけにもいかないと乾いた唇を舌で湿らせ、こくんと唾を飲む。
頭の中に描き、右端にあるチャット欄を盗み見ながらカロンは頭の中で何度も反芻してからようやく言葉を紡いだ。
出てきた声は、えらく枯れていた。
「さて、リフェリス王国の勇者候補諸君。初対面の者もいるようだから改めて名乗ろう。私がこのエステルドバロニアの王、カロンだ」
その名前に、ベルトロイとポウルは覚えがあった。
フィルミリアから伝えられていた人間の王の名であり、ミラとリーヴァルが過剰に反応を示した名だ。
ちらりと右へ目を向けると、リーヴァルは動揺して目を泳がせている。
ミラは、何も言わず大人しく膝をついて、普段の彼女からは考えられないほど能面のような色のない表情でじっとカロンを見つめていた。
カロンはそんなミラの様子を知ってかしらずか、口を開きかけた面々に向けて。
「名乗る必要はない」
緊張で乾いた喉から龍の唸りにも似た声が漏れる。
んっと咳払いで調子を戻してから再び口を開いた。
「諸君らが何者で、何を求めにエステルドバロニアに足を運んだのかは凡そ理解している。窮地に陥った自国への助力を申し出たいと。そうだな、ベルトロイ・バーゼス」
フルネームで呼ばれたベルトロイがぐっと喉を鳴らした。
「ふむ、答えられないことであったかな? 今の状況では公国の戦力次第で敗北することもありうるぞ。違うか? ポウル・デルフィ」
尋ねられて、ポウルの額から汗が噴き出してきた。
「勝利したとしても、各地で蜂起した貴族間の戦争までは手が回らない。公国に勝てても残された問題は悲惨だ。諸君らの勝利は、公国にだけではなく公国の従える魔物の掃討も含まれている。どうかな、マリアンヌ・フォン・フランルージュ」
「私たちの名を……」
話すことを一切許さず、一方的に千里眼とも予知とも言える知識を披露する。
懐疑の視線が再びリーヴァルに向けられるが、リーヴァルも驚愕に目を見開いており、視線に気づいた時には激しく顔を左右に振って否定した。
リーヴァルに仲間の名を教えた記憶はない。
当然だ。作戦中である以上、たとえ要人であっても行動を共にする仲間の情報を不用意に漏らす真似など断じてしない。
まさかと思いミラを見たが、彼女もゆるゆると首を振った。
「全て知っているとも。全てな」
カロンは右端に視線を動かし、僅かに目を彷徨わせてから訝しげな顔を一瞬作ったが、前へと向き直った時には尊大な笑みを口許に湛えていた。
「さて、それでは本題に入ろうか。まず諸君らは見返りに何をくれるのかね」
頬杖をつき、足を組み替えて勇者候補の一人一人に視線を投げかける。
「我が国の者を救ってくれたことは感謝している。だが、そのために軍を動かすのは等価とは言えないだろう? 一国に対し諸君らの個人的な奉仕など釣り合いもせん」
カロンの言葉はどれも正論だ。
ミラたちには王国に働きかける権限がない。勇者であるドグマやヴァレイルであれば少しは違うかもしれないが、一介の騎士の身ではできることなど多くはなかった。
神都を襲った魔物も、森で遭遇した魔物も、想像の数段上を行く強力なものだ。
あの場所で得た情報ですら王国の勝利が難しいと感じさせたのだから、主戦場ともなれば勇者ですら厳しい戦況となると考えている。
「カロン国王陛下、発言をお許しいただけますか?」
「構わん」
貴族の地位に恥じぬマリアンヌの振る舞いに、カロンは感心したように喉を鳴らしてから許可を出した。
「ありがとうございます。陛下が仰る通り、此方から貴国に提示できる利益は個人や家名の範疇を超えることができません。本来であれば一度国へと持ち帰らせていただき、検討してから返答すべきなのですが、我々には猶予がない」
「そのようだな」
「そのうえでお尋ねしたく思います。陛下は、リフェリス王国に対し何をお望みなのでしょうか?」
マリアンヌは、カロンが法外な恩赦を求めるとは思っていなかった。
詳しい事情を知っているのなら、ミラたちに大きな権限がないことも知っているはず。
自国の民を助けたくらいで王に拝謁することを許すなど普通は有り得ない。
国を動かす権力のない者をわざわざここへと招き入れたのは、彼女たちでも叶えられるような要求ではないだろうかと考えていた。
マリアンヌの問いに、カロンはまたも右端へと視線をズラしてから前に向き直った。
「エステルドバロニアが求めるのは一つ。交易だ」
「交易……ですか」
「救ってくれた娘から聞いているやもしれんが、我が国は遠い彼方よりこの世界へと飛ばされてきた。国の築いた基盤が全て失われ、様々な資源を失ってしまった」
そこには食も含まれ、時間が経てば経つほど困窮するのは目に見えている。
どうにかして生産を回復させようと様々なことを試しているが、結果が出るのはまだまだ先のことであり、決して間に合わない。
と、カロンは説明する。
「国を思えば力を以て制し、殺し奪う方が早く確実に成果が出るだろう。しかし、私は無用な争いが嫌いなのだ。できることなら話し合いで解決させたいのだが」
悲しげに眉を顰めているが、遠回しに脅迫しているようにしか聞こえなかった。
通商が既に譲歩した提案であり、これが叶わなければ資源を得るために侵略すると解釈できてしまう。
そして、それを実行に移すだけの戦力があることも分かっている。
「……つまり、確約を得られなければご助力していただけないと」
国に強く働きかけられないと知っていながら、提案された内容は到底叶わぬと言えるもの。
これも遠回しに脅迫してきているのかと思ったが、カロンはゆるゆると首を左右に振った。
「それは早計だ。この世界に於いて魔物がどう扱われ、どう思われているかは想像に難くない。いかに規律を持っていようと魔物は魔物。受け入れろと言われて頷けるものでもなかろう」
今度はマリアンヌが眉を顰めた。
つまり、何が言いたいのか。
カロンはまた視線を右へと彷徨わせ、逡巡してから口の端を持ち上げた。
「故に、諸君らが私の提案を王国に通すために尽力する。一先ずはそれで手を打とうじゃないか」
高圧的な態度は強者の余裕だ。
もしこの提案を断ってもこの国が利を得る。受けたとしても一番得をするのはこの国だ。
どちらの方がまともに生き残れるかを考えれば、エステルドバロニアの協力を得る方が間違いはない。しかしマリアンヌに限らず魔物を受け入れるのは難しい。
分かっている。彼女に選ぶ道など元よりなく、ただ無礼をせず唯々諾々と受け入れるのが役目であると。
ただ、一言だけ、決まりとは別に尋ねたいことを口にした。
「陛下、最後に一つお聞かせくださいませ。聖地は、ディエルコルテの丘は、もう二度とアーゼライ教の下へ戻ることはないのですか?」
声は平坦だが、柳眉を吊り上げて隠しきれない憤慨が見て取れた。
しんと静寂に包まれる。
口を噤んだカロンを置物のように佇立していたルシュカが覗き込もうとしたと同時に、悄々と口にした。
「聖地に関しては、申し訳なく思っている」
その場に居る全員が、驚きに目を見開いた。
先までと同じように高圧的なまま対応しても問題はなかった。
それなのに、組んだ足を解いてゆっくりと腰まで折り謝罪の意を示している。
「我々にはどうにもできない事態だったとはいえ、大切な地を失わせてしまったことは事実。新たな土地へと移ることも不可能ゆえ、私にはこうして謝るしかできない」
マリアンヌの慌てぶりは表情に表れた。
まさかこうも真摯に謝罪を受けるとは思っておらず、カロンの隣から冷たい憤怒を浴びせられてどうしていいか分からず口を開けては口籠もるを繰り返す。
百面相をするマリアンヌを見ながら隣の様子に気付いたカロンが手を上げると、ルシュカは歯まで軋ませていたがすぐさま真顔へと戻った。
「この謝罪など、私の偽善に過ぎないだろう。ちょっとした独り言だと思ってくれ」
カロンは腰を上げ、黒いコートの裾を払って背を向ける。
「答えは明日聞くとしよう。今日は休んでいくといい」
「明日……」
「是だとしても今すぐ軍は動かせぬ。仲間内でしかと話し合ってくれ。ではルシュカ、後は任せる」
「はっ」
数歩玉座の陰にある扉へと歩き、ふとミラの様子を窺ってから視線を切った。
「大切な客人だ。無礼を働かないよう厳命しておけ」
「承知いたしました」
粛と姿勢を正したルシュカを尻目に、そのままカロンは奥へと姿を消した。
薄暗く豪奢な間から扉を潜れば、そこは眩いミスリルの壁に包まれた通路。カロンが自室に向かうためだけの専用通路だった。
先までの威張り散らした態度から一転し、呑気に大きく欠伸をしてゴキゴキと首を回しながら通路をゆっくり歩いていく。
もはや威厳の欠片もない、少し草臥れた人間の姿だ。
自室の扉を開ける前にふぅと短く息を吐き出し、もう一度王としての振る舞いを自分に呼び起こしてから部屋へと入る。
中で待っていたのは、優雅に紅茶を啜るアルバートと、それを見張るハルドロギアの2人だった。
「お帰りなさいませ。お疲れでございましょう? ささ、お座りくだされ」
カロンの入室を察知してハルドロギアは小走りで駆け寄って節くれた手を握り、アルバートの指す席へと案内した。
コートの襟を正してから柔らかなソファに座ったカロンは、少し訝しげに顔を歪めながら恐る恐る口を開く。
「これで問題ないな?」
「ええ、なんの問題もございません。これで明日までは勇者候補なる一行を縛れますからな」
満足げに頷くアルバートを見て、カロンはこの謁見の前に行った小さな会議を思い起こした。
カロンの私室に備えられた広い応接間に呼び出されたルシュカとアルバートは姿勢正しくソファに座り、この状況に歓喜していた。
長いエステルドバロニアの歴史において、カロンが相談を求めたことは今日まで一度もなかった。
それが、初めて手を借りたいと望まれたのだから、気合いの入りようは半端じゃない。
勝つことへの貪欲さが篭った眼差しに若干引き気味なカロンだ。
高いINTに加えて“狡猾”で知略に長けていそうなアルバートと、長年補佐官として多くの作戦に携わってきたルシュカのコンビであれば、自分よりも良案を考えついてくれるだろうとカロンは期待していた。
但し、ネックになるのは自分が無能であることを悟られないのが条件になることだ。
今までの持ち上げられ具合からどう見られているか理解しているカロンは、当然そのイメージを崩すまいと振る舞う。
故に、あくまでもこれは意見を参考にしているだけだ、というスタンスを崩さないよう、少しだけ偉そうにふんぞり返って大仰に頷いた。
席に着いて、ハルドロギアの用意した紅茶で口を濡らした時から我先に話したがる素振りを見せていた彼らがどんな献策をしてくれるのか少し楽しみで仕方がない。
「我々の勝利は、リフェリス国を友好を盾にして動かせる駒にすることでよろしいですね」
はい、早速通じてない。
いったい何がよろしいのか微塵も分からない。
開始早々心労が祟る。
「私は王国と友好を結ぶつもりであると伝えてあったはずだが」
声の震えは怒りではなく困惑から来ている。
もしかすると、この簡易会議は想像以上に重大な意味を持っているのでは?
言い知れぬ不安に襲われるカロンを見てルシュカは不思議そうに首を傾げ、アルバートは全て知っている風な微笑みで頷きながら口火を切った。
「無論ですとも。私もですが、その言葉の真意をしかと理解しております」
「……聞かせてもらおうか」
「はい。王が人間との共存を選ばれ、以前とは違い武力によって世界を征服していくようなことは為さらないと宣言なさいました」
「ああ」
「ですが、いかに同じ人間種でもカロン様が頂点におわすのは至極当然のこと。偉大なるエステルドバロニア王がそこいらの王を名乗る塵芥と同列など有り得えぬでしょうとも」
なんでやねん! と言えればどれだけ楽なことか。
頭を抱えるのを堪えてただ静かに瞑目し、アルバートの言う摩訶不思議な理論を一先ず考えてみる。
エステルドバロニアにとって王は絶対の存在みたいな扱いである。
ゲームの頃、する事がないからと適当に理由を付けて人間の国を潰して回り、尽く併呑してきた過去がある。
魔物には同種族でもランク分けがある。
つまり、彼らの中でカロンは人間種の最上位と思われている可能性があった。
その考えに至った時、カロンはまだ自分と部下の間で大きな認識の差があるのだと改めて実感させられた。
「神都のような恐怖と恩赦による統治ではなく、友好の関係性を盾にして表から世界へと繋がる役割を担わせるのが真の目的かと」
全てが全て間違ってると言えないのでどう訂正していいのか困る回答だ。
カロンがリフェリス王国と友好を結びたい一番の理由はやはり無用な戦火をなるべく減らすためだが、次点としては確かにエステルドバロニアの存在を保証してくれる、この世界に根付くための後ろ盾を確保する狙いがあった。
今のままでは凄く豪華ででかくて堅牢な建物がある魔物の集落くらいにしか扱われないだろう。
あの元老院の老人たちの反応で分かるように、この世界でエステルドバロニアは国として認められていない。
だからこの大陸で一番勢力の大きなリフェリス王国と、友好がならずとも前向きな関係を築き、この国は敵対する理由がなく有益だと思わせたかった。
国と認知されれば、周辺国に対して極悪非道な魔物の親玉ではなく、エステルドバロニアという国の王として扱わざるを得ない。
国際社会で交渉する場につける最低ラインの立場を確保したいと思っていただけであり、決してアルバートの言う大袈裟な意思は全く介在していない。
「王は天の上に立たれる御方。人の上如きでしかない蒙昧な愚か者共と同列など反吐が出ますが……」
「実に愉快な者たちだと思うがね。まあ、猿のペットくらいに考えれば問題ありますまい」
ただ、この危険思想を正すのは難しそうだった。
建国145年の歴史はカロンの寿命が人間を軽く超えている証拠で、魔物の中にあるカロン>人間の図式の証明になる。
短い沈黙の中で大凡の答えを出し、カロンは静かに目を開けて、
「さすが、自慢の配下だ」
知らないふりをした。
「おお、カロン様の神算鬼謀に遠く及ばぬ非才の身には勿体なきお言葉でございます」
「長くお側にお仕えしてきたのです。分からぬはずがありませんよ」
蟠りがあるのはしょうがない。
対外にだけ相応に振る舞い、カロンの意に沿って行動してくれれば今は別段問題ない、はずだ。
「続けてくれ」
「はい。そのため、王はリフェリスに対し我が国の強大さを示すと同時に協力的であると認識させる必要があり、その橋渡しとしてあの勇者のなりそこないを利用するとお決めになられたのかと愚考いたしております」
「まあ、そうだな」
「しかし、初めから友好を結ぼうとしても恐らく警戒されるでしょう。我らは魔物。人とは本来相容れぬ存在でありますゆえ」
「それで?」
静まったアルバートに代わり、ルシュカが話を引き継いだ。
「まずは交易から始めます。我が国には数多くの鉱石が保管されておりますが、軍拡の予定も立たない今はただの石。これを輸出して王国から何かしらを購入すると対外的には示します。無償ほど疑わしいものはございませんから」
カロンはふむと得心する。
仲良しこよしにばかり意識を向けていたが、そもそも魔物と人間は水と油。そう簡単に交われるものではないし、今のエステルドバロニアが使える交渉の材料は武力しかない。
最終的にどう転ぶにせよ、まずは国同士の交易から始めていった方が胡散臭い友好を叫ぶよりは確かに現実的だ。
「無論カロン様がそこまでお考えであることは承知しておりますから、我々に相談なさりたいことは別ですよね?」
いや、今まさに本題だったのだが。
「……なんだと思う?」
轡を握っているのに振り回されている気分が拭えないが、これも一応聞いてみた。
ルシュカとアルバートが互いの目を見て、試されていると勘違いし真剣な顔を作った。
「今後のために、誰を、どれだけを、どうやって殺すのか。それを相談なさりたいのですよね?」
「……」
カロンが天を仰ぐ。
キリキリと胃から立ち上る痛みから逃げたくなったが、きしりと歯を噛み鳴らして続く言葉に傾聴した。
考えないようにしていた、一つの手段を突きつけられ、大きな決断を迫られた。
ともあれ、カロンの方針はある程度決定した。
そして、話す内容と流れを詰めたメモ帳を視界の右端に貼り付け、ちらりちらりとカンニングしながら話していたのである。
こういうことができるのはゲームシステムが生きている恩恵だ。
とにかく齟齬がないようにと気を使ったが、果たして正しくカロンの意図が伝わったのかは自信がなかった。
「これであの勇者候補たちは本来の目的である情報を得たので王国へと戻り、我々が強硬に出ないよう必死に根回しするかと思われます」
「こちらは武力が切り札。この戦争介入で成果を出せばそれだけ脅威と認識してくれる、か」
「ええ。交易するなら攻めないと公言しておりますから、躍起になって纏めようとするでしょうとも」
魔物は力の差を指標にする。
カロン自身はあまりにも特殊な例なので含まれることはないが、基本自分より強い者には従うか関わらないか、必要に駆られなければ生命を優先する生き物らしい。
アルバートの考えはあまりにも現実的だった。
恐らく人間は人間らしく反発したり企んだりするだろう。
それをさせないよう、あの時2人は国の手足をどれだけ引きちぎるのかを平然と提案してきたのだから。
「お父様?」
「……」
両手で口元を覆って俯いたカロンに、ハルドロギアが心配そうに声をかける。
まだ、自分の選択に悩んでいる。
すぐさま軍を出撃させて公国を根絶やしにして、エルフを救ったときのように正義のヒーローよろしく、悪を打ち倒して持て囃されるのならそうしたい。
遥かに楽で心を痛めることもさほどないだろう。
しかし——
「問題ない」
ただただ。
この決断こそが成長した証だと自分に言い聞かせるしかなかった。
「アルバート、公国には貴様が向かえ。私にさせた決断は正しかったと証明しろ」
一筋の涙の跡を隠しもせず顔を上げたカロンに、アルバートは身震いを堪えられぬまま飛び跳ねて臣下の礼をとった。
「お任せくださいませ! 天魔波旬を統べる偉大な人王陛下に、必ずや最高の成果をお持ちいたしましょう!」
「そうか……では、後は任せた。少し1人にしてくれ」
一縷の涙に何を見たのか。
喜色満面のアルバートと心配そうなハルドロギアを部屋から出し、ふっと体を後ろに預けた。
この胸にへばりついた感情は、神都の一件で捨てたつもりだった身勝手な同情の類。薄汚い偽善の心だと理解している。
過酷な世界の為政者の多くが直面してきっと乗り越えているであろう、つまらない想い。
もうただの社会人ではなくなった今、深く深くに蓋をしなければならないモノだと分かっている。
簡単に捨てられるほど修羅にはなりきれそうにないし、そんなに面の皮も厚くはない。
窓の外を見れば紫黒の空が広がっている。
夜明けには遠い。
眠れない夜はまだ続くようだった。
◆
「カロンは私に助けを求めている」
宛てがわれた客間にて、インナー姿のミラが突然口を開いた。
広い浴場を利用し、豪勢な食事に舌鼓を打ち、豪華な部屋を宛てがわれ、警戒するのも馬鹿らしいほど歓待された一行は汚れた装備の手入れをしていた。
彼らは一室に纏められているが、起きているのはこの3人だけで、ベルトロイとポウルは大きな天蓋付きのベッドで夢の中に旅立っている。
隙間のない木床の上に座って真剣な顔のミラは、どうしてそんな顔をするのかと不思議そうに紅いソファの上で防具を磨く2人の顔を窺う。
マリアンヌとリーヴァルは、胡乱な目で彼女を見ていた。
「あの、ミラ部隊長閣下。どうしてそうお思いに?」
「そんなもの決まっているだろ。あの謁見の時カロンが何度も私に視線を向けていたからだ」
「いえ、それがどうしてそうなるのかをお聞きしたいのですが……」
確かにカロンは何度もミラを――正確にはミラの位置にあったメモのウィンドウを――見ていたのだが、それが何故助けを求めていることになるのか2人には理解できない。
貴族としての格があり、問題を起こさないであろうマリアンヌがメインに据えられ、端にミラが追いやられただけなのだが、思わぬ誤解を生んでいた。
鎧の隙間に詰まった土を落としながら、ふんと鼻を鳴らして語り始める。
「あいつは本当の自由を求めているんだ。経緯は知らんが魔物の王なのは間違いない。そしてそこから解放される時を待っていたんだろう」
「そんな時我々と遭遇し、チャンスだと思っていると?」
満足げに頷くミラだが、リーヴァルには疑念ばかり浮かんでいた。
今は暢気に眠っているベルトロイたちが神官から聞いた情報は間違いなくこの国を示唆している。
カロンも関与していると思っていたが、あの場で聞くわけにもいかず曖昧な憶測しか浮かばない。
いったいどのような目的で動いているのか、ちぐはぐすぎて全く見えてこないのだ。
「ですが、どうしてあの場に独りで居たのか説明がつきません。これだけの勢力です。付き人もなく王がフラフラと出歩けるものでしょうか」
「私たちには見せていない特殊な力があるやも知れんぞ? ただの平民と変わらない奴が何も無しに魔物を従えさせるとはどう考えてもおかしいからな」
確かに一理ある。
魔力も感じなければ武力の痕跡もないが、それとは別に強力な何かを隠しているなら可能性はなくもない。
城を抜け出し、神都に逃げられる力。それが化け物たちも逆らえない根源だとすれば、一番厄介なのはあの人間の王だ。
なら何故あの時、その力で逃げなかったのだろう。
もし本当に国から逃げ出していたのだとすれば、カロンとは別に動く黒幕がいる可能性もある。
そんなことを考えれば何から何まで疑わしいと思ってしまうので、思考を切り替えようとリーヴァルはミラを見る。
「しかし面白い。実に面白いなカロンは。ああ、本当に興味が引かれる」
くつくつと剣を磨きながら笑っていた。不気味だった。
恐ろしいと感じることは多々あったが、こんなミラは見たことがない。
俯いた顔が鏡面に反射しており、マリアンヌとリーヴァルは見なかったことにする。
「ですが、不思議な方でした」
ミラの話に乗ったわけではないが、謁見を終えてからマリアンヌは自分の感じた像をとつとつと口にする。
「威厳があるようで、しかし虚構にも感じましたわ。酷くちぐはぐで掴みどころがない。なのにあの謝罪は本当に心から仰られているみたいで……」
「そうですね。私も、どう評していいのか分からなくなりました」
マリアンヌと違い、リーヴァルは一度面識を持っている。
あの時の姿は世間知らずな普通の貴族だったのに、あの薄暗い部屋で見たのは統治者の威風。
好感は持てるが、得体の知れない存在であることも確かで、ミラがいったい何を見ているのか全く理解できない。
それよりも気になるのは、
「ミラ部隊長閣下は、カロン殿をどう思っておられるのですか?」
ベルトロイに向けている以上の執着をしてみえるミラの心のうちだった。
これでも淡い恋心を抱く若い青年であり、彼女に憧れて鍛錬に励む眉目秀麗な騎士である。
ぐーすか寝ているライバルとの距離を詰めたいと思って武具の手入れに余計な時間をかけるくらいには彼女を気にしていた。
平静を保ち続けているが、内心は不安だらけだ。
ぽっと出のダークホースを気にするリーヴァルの質問に、ミラはキッパリと言い放つ。
「最初はそうでもなかったんだがな。欲しいだろ、あんな面白い奴」
どういう意味だ、と聞くよりも早くマリアンヌが身を乗り出した。
その碧眼は色恋沙汰に敏感な乙女の輝きが浮かんでいる。
「それは、まさかあのミラに恋する相手が!?」
「はあ?」
キャーキャーと、暮石嬢と呼ばれる彼女には似つかわしくない歓喜に、ミラは抑圧されていたんだなと生暖かい視線を向けた。
「勇者と魔王の恋……! 素晴らしいものですわ!」
「なんだお前急にテンション上がって。変なものでも食べたのか貴様?」
「さあ、お聞かせくださいなミラ・サイファー。あのお方との間にどのような馴れ初めが!?」
ソファから降りてぐいぐい乗り出すマリアンヌにミラは嫌そうな顔をしながら後ずさった。
さしものミラも、こういう女らしいものは苦手だったらしい。
ちなみにマリアンヌは変なものを食べてはいないが、変な本は結構な数を読破している。
「やめろ鬱陶しいぞ! 私にそんな感情はない!」
「えー本当ですのー?」
「くそ、うるさいなマリアンヌ・フォン・フランルージュ! 明日が本番なんだからさっさと寝ろ!」
「いいじゃありませんか。ほら、観念したらいかがですの? さあさあ!」
「……よぉし、この私に接近戦とはいい覚悟だな」
「えっ、あ、ちょっ」
耐えかねたミラがマリアンヌに覆いかぶさった辺りでリーヴァルは視線を逸らした。
ベルトロイに向けるそれとどれだけの差があるのかリーヴァルには分からないし、この執着心が今後どう影響していくのかは想像がつかない。
どう転んだとしても厄介な気がするのは、長く彼女を見てきた勘によるものだった。
窓の外はまだ暗い夜に包まれている。
明ければ考えている時間などなくなるだろう。
ほんのひと時の休息。
それをしっかり得るためにも、まずは腕ひしぎをされて悶絶しているマリアンヌと楽しげに笑うミラをどうにかしなければいけなかった。