16 戦況
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ミラ一行がエステルドバロニアとの邂逅を果たした同時刻。
レスティア大陸のリフェリス王国領各地にて、大規模な戦闘が示し合わせたように起きた。
王国に忠誠を誓う貴族と、公国に与した貴族による戦争。
それは現時点で10箇所にも及んでおり、まだ増える気配すらある。
唐突に起きた戦争は国民に動揺を生み、どころか無用な犠牲まで生む始末。
深夜未明に突如として戦端が開かれ、何が起きているのか理解できない民は声高々に住まう地の領主を責めるも、当の貴族たちはどうにもできない故にその言葉を黙して受け取るしかない。
今この大陸のどこにも、安全な場所はないのだ。
人間同士の醜い争いで済めば良かった。それなら他に手立てがあり、安全の確保しようがあった。
だが、彼ら王国貴族の前に突き付けられたのは、公国が各地に用意したイレギュラー投入による混乱と悲劇だった。
「領主様! 早くお逃げを! ここはもう持ちませぬ!」
「馬鹿を言うな! どこへにげろというのだ! 最早安全など勝利以外には得られぬ状況だぞ!」
土と血に汚れたままに、膝を突いて進言してくれた部下に対し、馬に跨った白銀の騎士は憤る。
この地を任命された貴族は、清廉潔白で名の知れた伯爵だ。
王国直属の密偵から此度の戦を示唆する文を貰っていたが、大切な民を逃がしたくとも敵味方の区別が付かない中で不用意に他の領地へ送ることが叶わず、唐突に開かれた戦端から逃げ惑う者たちを後退させるだけで精一杯だった。
何よりも彼らを苦しめているのは――
『グォォォォォ……ン』
「くそっ! こちらに向かってきます!」
「伯爵! 早急に避難を!」
「ぁぁああぁぁああぉぁぁああ!!」
「来るなちくしょう! 来るに゛ぇ゛っ」
「障壁魔術を維持し続けろ! 崩れた穴から一気に来るぞ!」
人ではなかった。
月光の下を我が物顔で駆け巡る巨躯。下顎から屈折しながら伸びた長い牙に、鮮やかな白と緑の体毛が特徴的な豹が、悠々と戦場を走り回っている。
腕を振るえば鎌鼬が巻き起こり、四足で駆ければ突風が吹き荒れる。
死の山脈の頂に住むと言われる伝承の存在。
禁域に立ち入りし愚か者に誅を下す最後の獣。
「【ニルブレ】だっ! なんだよ、何だってあんなのがいるんだよ! 御伽噺じゃねえのかっ!」
泣き叫ぶような罵倒を、豹の暴風が容易く飲み込み、排泄された時には裁断された肉の泥と成り果てた。
獄風豹【ニルブレ】。この大陸に住めば一度は耳にする躾話の定番。
コルドロン連峰に捨てられると、ニルブレが食べに来る話を、大人になれば子供に言い聞かせる。
それが、大人になって身を以て知ることになると誰が考えただろうか。
それは、遠巻きに戦場を眺める叛逆した領主にも言えることだった。
「こんなことが……あってよいのか……」
口髭を蓄えた領主の目的は、堕落した王国に嘗ての輝きを齎すことだ。
平和に浸かり腑抜けた王国では、いつまでも諸国と渡り合うことができない。公国の傀儡にされている時点で目に見えている。
だから、彼は反旗を翻した。
ただ一介の貴族が謀叛を起こしたとしても啓蒙になりはしない。国が目覚めるほどの規模にならなければ誰も危機感を覚えないと。
公国から持ち掛けられた話は渡りに船だった。
どのような公算があろうと、あの“剛剣”と“大火”を相手にして無事ではいられぬだろうと。目的に繋がるためなら噛ませ犬にでもなり果てようと。
そんな覚悟は、秘密裏に持ち込まれたあれによって瓦解する。
最早戦の体をなしていない。気ままに食いちぎる魔物のお零れを兵が仕留める、無残な光景だ。
見上げた空から、黒い影が迫る。
「あまりにも愚かなことよ。何も見ておらんかった。奴らは……公国は――」
朧雲の切れ目から翼竜が城壁に佇む領主を喰らおうと急降下した時、皮肉にも逃げ遅れた伯爵が豹の牙に引き裂かれる直前だった。
リフェリス王国の王城内。煌々と燭台に照らされた白と蒼で統一された広い部屋の中では会議が行われていた。
長いテーブルの上座に座る王冠を被った壮年の深い溜息に、壁の左右に立ち並ぶ四十人近い文官たちの背に緊張が走る。
重苦しい空気に誰一人として身動ぎせず、誰かが切っ掛けを作ることを他力本願だが願わずにはいられない。
どれだけ静止していただろうか。厚い扉が押し開かれてやってきた賢者の姿に、皆の顔が強ばる。
「ヴァレイル、どうであった」
くすんだ灰色のローブを肩に掛けた客人は、この国の統治者から投げ掛けられた問いに、ニタニタと笑いながら脇に抱えた書類を机の上に放り投げる。
誰かが思わず手を伸ばそうとしたが、鋭い咳払いに慌てて元の姿勢へと戻った。
「最悪だ。それ以外の何者でもない。相も変わらず神都内の状況が分からん。遠見の者が公国に使役された魔物達が挙って押し寄せていく光景を見たのが最後でそっから先はさっぱりお手上げ!」
それは、公国が神都と協力体制に無い可能性が高くなった程度の、やはり確証を得られない情報だった。
果たして安堵しても良いものかとざわついた議場にて、再び王の言葉がはっきりと通る。
「……では、あの遊撃部隊は。ミラ・サイファーは」
「音沙汰無し! はぁぁ……一世一代の発明品になると思ったのに成功したかも分からんとはなあ。他に使い道が無いのが難点だが」
「つまり、何も成果を挙げられていないのだな。送り出した騎士たちの生死も、遊撃隊の所在も」
「そうとも言える」
あっけらかんと口にされ、またも空気が重くなった。
既に王城には各地で開戦された旨の報が鷹によって届けられている。加えて公国は白昼堂々と決戦の地となるスラド領を越えて王国領土の境界線にまで軍を進めており、平野に異形を従えて待機しているらしい。
現地にて待機する王国軍の兵から届けられた報告書には、あまりに異様な光景を前に戦意が下がり続けており、どのように対処すべきか判断が付かないと送られてきていた。
前線の兵士から参戦している魔物の特徴が随時送られてきており、正体を掴むために調べていけば中には一個中隊で当たらねばならない強さを誇るとされる魔物まで混じっていると知る。
それがヴァレイルが放り投げた紙束の正体。泣き言ばかりだと喘ぐ声の書かれた紙を鼻で笑う“大火”の軽薄な態度に王はこめかみを揉みほぐした。
嘗ての人魔戦争は途方も無く先の見えない戦だったと先々代の王から伝え聞いている。
大空を舞い、地底を進み進軍する魔物の群れに対応するには探知魔術が必要不可欠であった。
あの大戦で多くを学んだはずなのに、いざその時が訪れても何一つ活かされていない。
かの英雄や勇者の存在が辛く苦しい逆境を切り開いたが、それは大局の要を、局所での勝利を続けたことで打開しただけであり、決して人類が魔軍に優勢となっていたわけじゃない。
今この時で言えば公国の本拠を襲撃してラドル大公
を止めるのが最短の勝利に繋がるが、それを行う間に果たして自軍が保てるのか。
忘失した教訓を呼び起こすには、あまりにも遅すぎた。
リフェリス王国第23代王位継承者、アルドウィン・リフェリには、決断する思考力が無かった。
公国の増長を許し続け、戦場のいろはも培わずに座した王には最善が思い付かない。
ここまで事が大きくなる前に対処するべきだった。そのための材料はいくらでもあった。
それをしなかったのは、偏にアルドウィンが戦から逃げたからだ。
多くの民を守るために多くの臣を束ねる存在が、この国の王の役割なのだから。無用な争いとして避けるのも一面で見れば正しいと言える。
しかし、その結果がこの事態を招いた。所詮魔物を魅了できる勇者候補だと、周囲の進言を退けてきたツケが回っている。
視線の中に非難が篭っていると自覚しても、アルドウィンは自分の積み上げてきた王の姿を崩せない。
だから、燦然と輝く勇者の姿に憧憬を抱き、その勇敢な決断を下すように憎悪を抱かせた。
「諸君の意見はどうかね」
内心を押し殺しながら、ヴァレイルによって壊された空気がようやく彼らに改めて水を投げる。
「全軍を公国に向けるべきです。あれを落とせば勝利が決まりましょう」
「だが、離反した貴族が止まるとは思えぬ。たとえ公国に勝ったとしても処罰の決まった奴らが大人しく引き下がるわけが」
「この状況では目先の脅威が最大の障害であろう!」
「損害が多ければ勝利したとていずれ潰れるぞ!」
「魔術部隊をすべて投入すべきだ!」
「神都から兵を差し向けられた場合に無防備な横合いを――」
「持久戦に持ち込んで諸侯との連携を――」
「いいや、今からでもグリオンやカランドラに要請を――」
発言の許可を受け、堰を切ったように喧々囂々と意見が飛び交う。
どれも一理あるが、決定打には届かない。繰り返すうちにどれだけ洗練されることか。
怒声にも聞こえるやり取りを疲れた顔で見ていた王だが、すぐ側にヴァレイルが寄っていたことに気付き、ちらりと目を向けた。
「おぬしならどうする」
「決まっておる。吾輩とドグマで悪逆を弑すればいいだけだ!」
ふははは! とよく通る声で笑ったおかげで文官たちの目が自然と二人に惹き付けられてしまった。
内緒話のつもりが一切無いヴァレイルに、また王はこめかみを揉みほぐす。
ひと通り笑ってスッキリしたのか、小さく息を吐くと珍しく真剣な顔つきとなった。
「とは言え、それでも確かな勝利には及ばぬだろう」
「ほう。何故だ」
「単純な話で言えば、向こうの戦力が見えぬ点だ。どれだけ密偵を送っても詳細な情報を持ち帰った者がいない。不気味なくらい沈黙を保ったまま戦端を開いたのだから、我らの存在を知っていてなお勝算があるのだと推測しておる。ま、既に報告にある何体かでも充分に手間がかかるしな」
勇者は、個で群を押し返すだけの力がある。
その勇者をして、手間がかかると言わせる魔物を従えている。平然と禁忌に手を染めた挙句、その外法を極めたなど考えたくはない話だ。
「色々気になる点はあるがなあ。どこで調達したのか、とか。しかしそんなものどんな戦場であっても付き纏うものなので考えることをやめた我輩は天才だな! さておき、ややこしい問題もある。仮に勝利したとて、この内紛をどう諌めるのかだ。テイムが解ければ魔物共は区別なく人を襲うだろうし、各地で反乱した貴族たちは……おお、これは先程話していたな」
で、どうする?
そう問われて、王も文官も押し黙る。
仮にヴァレイルとドグマがラドル公を討てたとして、その後に残された魔物が人と同じく降伏をするわけが無い。枷を外された獣が唯々諾々と従うなぞタチの悪い妄想だ。
勝利条件の厳しさが、白熱した議論に水を差し、またも重い沈黙が議場に降りる。
「議論は済んだか? では我輩は支度をしてさっさと前線に加わるとしよう。何か新しい手段が思い付いたら伝令を送ってくれたまえ」
言いたいことは言い終えたと、やにわに手を振りながら始末も付けずヴァレイルは軽い足取りで部屋を後にした。
残された面々には、ただ伸し掛る困難に言葉を失うほかない。
「……住民の避難経路を優先しましょう」
王の側に侍る大臣が、重い体を立ち上がらせる。
「しかし、それでは」
「うむ。だが守る場所があまりにも多い現状、民を一所に纏めなければ悩みの種は膨らんだままだ。無謀かも知れんが一人でも多くこの王都に辿り着かせねばなるまい」
「では、戦線は彼らにお任せなさるのですか?」
「今配備されている者たちは公国に当たらせ、他の者は救助に回す。彼らに託すしかなかろう」
この難局に、個として立ち向かう強さを一切持っていない弱き者は、強き者に頼るしかない。
頼る以上は、彼らの取り零す物を拾い上げなければ申し訳が立たないだろうと、大臣は言う。
「かの大戦でも道を作り切り開いたのは九人の騎士だったが、それを支えたのは無力な我らのような存在よ」
勇者とて人の子。取り零すことなど幾らでもある。
「とにかく情報を集める。何が起きているのか正確に。そのうえですべきことをしようではないか」
そう言って顎肉を揺らす姿に、気持ちを振り払った者から順にヴァレイルが捨てた資料を手に取り、内容を吟味して発言していく。
弱き者が強きに立ち向かうには、群れるほかない。その智恵と武力を集めてようやく立ち向かえるのだ。
勇者には勇者の戦い方がある。それを支えるのが、守られる者たちの役目なのだと。
動き出した国の姿を、王は黙って眺め続ける。
九人の勇者の切り開いた絶望には劣るだろうが、今ここに第2の人魔戦争が起きようとしている。
これを乗り切れたのなら、その時はこうして陰から支える皆を英雄とよんでやろう。
嘗て見たことのない熱意に溢れる姿に、気付かれぬよう添えた手の下で、口の端を持ち上げた。
「あのぉ、よろしかったのですか?」
「ふふふ、構うものか。我輩に軍略の才などない。研究だけは一丁前だがそれ以外に関してはからっきしだからな! 適当に引っ掻き回して逃げるのが得策よ!」
議場を後にしたヴァレイルは、外で待機させていたセーヴィルを連れ立って自身の研究室へ足早に向かう。
途中で誰とすれ違おうとも、丁寧にお辞儀を返しているうちに遠のく背を追い掛けるセーヴィルは、ニヤケ顔の上司を訝しげな顔で見上げた。
「なんか、気味悪いです。悪いものでも食べてきました?」
「貴様良くこのタイミングで言えたな。いやなに、久々にやり甲斐のある仕事だと思ってな。この天才が天才たる所以を暫く披露しておらなんだ。今日こそ我輩が“大火”と呼ばれる所以を知らしめてみせよう!」
「それで大臣にやり過ぎだって怒られるんですね。僕この流れもう何回も見たんですけど」
「ふははは! そう言うなチェルミー!」
「セーヴィルです」
恐らく死んでも直す気はないんだろうと、ジト目で溜息を吐く音に咎められるのではとヴァレイルの肩がビクつくが、いつもの罰は何も無かった。
「勝てるんですか?」
研究室へ繋がる階段を降りながら問われ、ヴァレイルは扉を押し開きながら口の端を吊り上げた。
「無論だ」
研究器具がそこかしこに置かれた薄暗く広い部屋の中をスルスルと進んでいく。
「議場ではちょっと怪しいかも? なんて言ったが本当は今把握している奴だけなら余裕のヨレーヌだ。あんまり楽勝だと思われるとこっちが負担だからなぁ。勇者だけで勝てるなどと安易に考えられては困る」
「はぁ……」
「ま、高い戦闘力がある奴を前線に放り込むのは当然だからな。それ以外のことは弱い奴に任せるしかない」
「意外ですね。「勇者ヴァレイル・オーダーがいれば万事解決よ!」くらい言うかと思っていましたが」
魔力灯を起動させながら、ヴァレイルらしからぬ発言が気になったセーヴィルの何気ない言葉に、巨大な鉄箱を弄っていたヴァレイルの手が止まった。
「……チェルミー、貴様は勇者適性を持っていたか?」
「いえ、ありませんが」
「そうか。それは良いことだ。無いに越したことは無いからな」
「なんだかややこしい言い回しですね」
「我輩はな。勇者も魔物も大した違いがないと思っている」
顔を向けず、再び手を動かしながら一方的に語るヴァレイルは、その背を見て目を剥いている部下のことなど気にも留めず言葉を続ける。
「いつ人魔戦争が勃発するか分からぬのを理由に世界は受け入れたが、一歩間違えば強大な力を持つ存在として排除されかねないのが勇者だ。国一つ消し炭にできる暴力が堂々と闊歩していれば怖くて当然。正しい反応だろう」
過去にはそういった流れが生まれかけたが、人魔戦争の植え付けたトラウマが辛うじて抑制したお陰で今日がある。
目に見えて敵と呼べる魔物。同じ姿をした兵器の勇者。
敵に回れば、どうなるかなど考えるまでもない。
ただただ、圧倒的な暴力に弱者が飲み込まれるだけだ。
「悪に身を落とした末裔はどいつもこいつも超強い。誰が止められる? 魔物でも勇者でも、味方だと心強くて敵だと困る点は変わらん」
「でも、同じ人間じゃないですか」
「その人間同士が戦争をしているから今大変なんだぞ。これでドグマのような奴が敵に居たらどうするのだ。あ奴が本気で暴れた時にどれだけ被害を生んでいると思う。同じ人間だから、人間に牙を剥く機会が多いのだよ。故に畏怖されるのだ」
「なるほど」
「勇者は勇者になることを強制される。実に生きづらいとは思わんか? その点この国は良い。煩わしいのは仕事だけで後は気兼ねしなくて良いからな!」
「やっぱりそこでしたか。真面目に聞いて損しました」
「それだけの力があろうと、我ら勇者は大多数の弱者に生かされ、支えられているのだ。魔術に関しては我輩で万事解決だが、戦はそうもいかん。数え切れぬ血が流れ命が潰える。だからこそ、我輩は我輩のまま生かしてくれる命を一つでも多く守り、守る命にまた別の命を守ってもらう。それが勇者の正しい役割よ」
ガキンと、解錠にしては激しい音を聞いて満足そうに頷いたヴァレイルは、半開きになった蓋の隙間に手を入れて目当てのものを取り出す。
彼が大賢者と呼ばれたのは魔術の知識から来ているが、勇者として与えられた二つ名とは全く関係ない。
彼の本質は広範囲を高火力で薙ぎ払うシンプルな魔術にある。これで駄目ならその上でを地で行くが故の“大火”。
その力を十全に発揮するための媒体となるのが、箱に納められていた三叉の杖。
「だから、我輩は恩を返さずにはいられん!」
名を“ゲヘルソーン”。
先代リフェリス王より賜った、赤く煌めく魔導鋼の錫杖。
彼の全盛期を共に彩った相棒である。
確かめるように振れば、三叉が風の振動に共鳴して甲高い音を立てる。久方振りの解放に歓喜しているようにすら聞こえた。
自慢げに振り回す、ニタニタ意地の悪い顔で胸を張るお調子乗りの年寄りを見直して損をした気分だった。
「ふっ、どうだ? どうだ? 我輩今超格好良くないか?」
「明日の昼食はリンキャロットのソテーにしますからね」
「あああああんなの人間の食べるものじゃないから二度と吾輩の食卓に出すなと言ったではないか!!」
「じゃあしっかり働いて帰ってきてくださいね。大臣にお小言言われるのは疲れるので」
「貴様本当にマイペースだな……まあ、それが……」
色々と言ったのが全て台無しにされた気がしたが、それが彼なりの応援なんだろうとヴァレイルは気恥ずかしげに頬を掻く。
久方振りの戦場に浮き立っていたかと若干自分を諌め、その期待に応えねばと心の中で感謝を呟く。直接言うのはなんだか気恥ずかしく、そんないじらしい自分を気味悪く思った。
「我輩の希望としては神都に認識阻害を撒いた輩と戯れてみたかったが、仕方ない。公国の勇者がどれほどの実力を備えているのか皆目見当が付かんからなあ」
「えっ? 公国は勇者の養成をしていませんよね? 居るんですか?」
「なんだ、知らなかったのか? そもそも、今回の魔物大騒動の発端はその勇者から始まっておるのだぞ?」
白い顎鬚を擦りながら、その二つ名を記憶から探る。
ある意味有名な話で、今更口にすることもないと思っているのは上層の認識だったし、あれを勇者と認めるのを誰もが憚っていた。
リフェリス王国の勇者制度から弾き出された異端児。
「クランバード・ラドル。魔物に魅せられて外法に手を染めた“簒奪”の大公よ」
◆
国に必要なものは幾つかある。
人、衣、食、住、法、職、金。
何よりも外部から一つの国として認められなければそれはただの街や集落と変わりはない。
その点、ラドル公国は聖地に集まる大量の金を以て認められた国だった。
王国が主権を主張したが、その尽くを突き放してアーゼライ教の信仰が落とす金銭を集め力を付けた、少々成り立ちの特殊な国である。
現在ではディルアーゼルを独立させてはいるが、実態は両者がっちりと連携して動いてきたため、お零れに与る王国に威厳など何一つなかった。
長らく公国は他国からの来訪を断り続けている。
魔物を服従させる魔術の研究が動き出してからなので、凡そ10年以上は経過するだろう。
公国の抱える軍が動いていたが為に、誰もが公国は国として機能していると思い込んでいた。
国は、人が居て、衣食住が整い、法が機能し、職を賄えて、金が回る、他国に国と認められたものを指すならば。
今、この国にはその半分も備わっていなかった。
前線の配備が完了したことを報告しに、若い兵士が公国の城壁内を進む。
なるべく周囲に目を向けぬよう、正面すら胡乱な眼差しで見つめて公爵家を目指す。
見るな、聞くな、話すな。軍に徴兵されてからただそれだけを守れば長生きができるのだ。下手な正義感や反抗心など何一つ価値が無い。そんなもの、とうの昔に捨てている。
突然脇道から飛び込んできた民にも驚かない。足に縋り付かれても気にしない。
たとえそれが、実の親だったとしても。
「か、カインズ! 助けてくれ! わしは何もしておらんのだ! 盗みも嘘も何も無い! お前からも助命してくれ!」
心が痛んでも、助けてはいけないと今は亡き先輩に教わった。
先輩は妹に薬を与えるために金を盗み、妹諸共殺された。
日常茶飯事になったこの暴政の中で生きるには、何もかもと別離を告げて目と耳を覆い隠すしかない。
軍人となったことは多少命を永らえさせてくれるだけで、生きられる保証などどこにもありはしないのだ。
「ひぃっ!!」
民の後を追ってきた、蛇の尾を持つ雄鶏が兵士をじっと見つめる。お前も仲間かと問うように。
震える足で、兵士が民を蹴り飛ばしたのを合図に、雄鶏は鋭い爪で民を押さえ付けて嘴でつつきながら食事を始める。
それを彼は素通りする。
聞こえない。聞いてはならない。
見えない。見てはならない。
少しでも意識を傾けると見えてしまう。
薄闇の街中で横たわる死骸を貪る、公爵の下僕が。
「っ……!」
四手の猿が、落ちている骸を割いている。
紫色の芋虫が、子供に餌を与えている。
頭のない猪が、悠々と踏み潰しながら歩いている。
隅に丸まって震える民は醜く痩せている。
乾いた血の跡が、街のいたる所に放置されている。
ラドル公国の面影は、もはや街を囲む石積みの防壁にしか残されていない。
誰からも秘匿され、伸びる魔の手が恐怖で縛る。
言葉も行動も起きないくらいに、どこへ行こうと纏わり付く蜘蛛の巣が、いつでも誰かを狙っている。
誰かが言った。神都のエルフと俺たちと、どっちが幸せなのかと。
誰かが答えた。どっちだろうと変わらない。神都も元は公国だと。
そのどちらも、翌朝には城壁のシミになっていた。
生きるためには、何もかもを捨てなければならない。
辿り着いた屋敷の奥、彼の寝室に行けば嫌でも分かるだろう、
悪しき者を従えてこの世に這い上がった男は、うぞうぞと蠢く触手の繭に包まれ、阿鼻叫喚を子守唄に寝息を立てている。
この公爵は、きっと地獄からやってきた。
「閣下、ご報告に上がりました」
捻れた綱を解くように絡み付いた繭の腕から起き上がる男は、歪な骨に皮を被せたような姿で粘液を滴らせながら歩み出る。
深く窪んだ眼窩に見える血走った眼が、面白そうに裏返った。
クランバード・ラドル。
この世界に再び破滅を望む者、その尖兵なり。