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エステルドバロニア  作者: 百黒
閑話 リーレの冒険
24/93

5 リーレ、冒険する


 セルミアの眠り病、と呼ばれる病気がある。

 冬から春にかけて流行る病気で、風邪と似た症状を引き起こすが風邪より悪質なものだ。

 最初は風邪と似た諸症状から始まるが、数日すると睡眠時間が長くなり、目を覚ますことが少なくなっていく。

 次第に呼吸器が閉塞していき、眠るように死ぬ。故に眠り病と呼ばれている。

 危険な病気だが、治療は比較的簡単だ。

 高地に生息しているセルミアの花。その花弁をすり潰して飲ませるだけで治ってしまう。

 どういう原理なのかなんて分かる者は居ない。そんな詳しい知識があるわけではなく、先人の知恵として知れ渡っているだけだ。

 不思議なことに、眠り病とセルミアの花の咲く時期はほぼ同じで、時期になると街中でセルミアの花が売られることになる。

 放っておくと危険だが、対処法が確立しているので恐れることはない。


 はずの、病だ。



 エステルドバロニアより西にあるコルドロン連峰。

 魔物が跋扈しており、連峰の向こう側に存在するサルタンから山を越えてディルアーゼルへ到達する“コルドロン越境”は冒険者の間で実力を示す儀式とされてきた。

 冷気を吐く蜥蜴【ブラムリザード】、岩に擬態する肉食の亀【ベタンドルム】、その他多くの大型魔獣が蔓延り、用意も無しに踏み込めば帰ってくることは不可能とされている。

 いや、以前は、と言い換えるべきだろうか。

 今や中央の大陸に点在する国家のどれもが占領することを諦めた連峰は、猫の楽園と化しているのだ。


「きりきり働け貴様らぁ! 草木一つ残さず刈り取って選別するんだぞ!」


 山嵐が吹き抜ける連峰の頂上で叱責が飛んだ。腕組みをした軍服姿の魔物が、眼下で動く無数の魔物たちに向けて苛立ち混じりの怒号を何度も浴びせかけていると、それに呼応して息の揃った返答が返る。

 人間に恐れられていた魔物の山には、規律が生まれていた。

 一糸乱れぬ動作で地面に生える草を根こそぎ毟っているのはどう見ても魔物で、それを指揮しているのは人間に見える魔物。

 一歩進んでは草を毟り、二歩進んでは花を摘む作業を飽きもせず延々と繰り返す光景は、正直何かの罰ゲームでも受けているようにしか見えないが、れっきとした仕事である。

 それも可及的速やかに遂行せねばならない仕事なのだ。



 ――花を、探さないと。


 そう、安らかに眠るカロンの側でリーレが口にした。


「早く、花を見つけないと! セルミアの花を、早くっ」


 まだ事態が飲み込めていない団長達をよそに1人大慌てで部屋を飛び出そうとしたところでロイエンターレがその首根っこを捕まえると、急に制動をかけられて足が宙に浮いたリーレはそのまま床の上に尻を落として悶絶した。


「事情を説明してくださいますか?」


 平たい声に促され、早口ながらもリーレはセルミアの眠り病について説明をした。

 風邪と同じ症状から眠るように死んでいくという内容に皆の顔が強張ったが、まだ冷静さを欠かずにいたルシュカが質問を重ねていく。


「その花はどこに?」

「私が知る限り、周辺には生息していません。高地に自生するらしいので、神都にはベルトール領から送られてきているんです」

「では、そこはどこだ?」

「えっと、ラドル公国よりもずっと東に……」

「……さすがに、王のご命令なくそこまで侵攻するわけにはいかないな。ならお前は何処に行くつもりだった?」

「あの、神都にまだ売っているか調べようと思って。でも今はもう花が咲く時期を過ぎているから、ない可能性の方が高くて」


 話を進めるごとに、自分が軽率な行動を取ろうとしていたことに気付いてリーレの顔が俯きがちになっていく。

 時期を外した今、この病にかかることはほとんど無いはずで、加えて言うならこんなに進行の早いものでもない。

 カロンが外界から訪れた存在だからという可能性は浮かぶも、重要なのはそこではないとリーレは花の入手法を必死に探った。

 カロンを助けたいと思っているのはルシュカたちも同じなのだ。皆リーレが王の顔を引っ叩いたことに対して言及するでもなく、無言で2人の会話に耳を傾けている。


「もし、もしあるとするなら、西に見えるコルドロン連峰に。でもあそこは強力な魔物が生息していて、そんなところに行くのは――」

「……いや、大したことではない。おい馬鹿共、前線部隊全部投入して西の山に向かえ。あと神都からエルフを連れてこい。拒否権はないぞ」


 ルシュカの指示を聞くやいなや、エレミヤやグラドラ達がぞろぞろと部屋を出ていく光景に、リーレは目を丸くする。

 いくらなんでも抵抗がなさすぎるのでは。自分の言ったことを聞いていたのだろうか。

 そんな考えも露知らず、ルシュカはほくそ笑みながら呟いた。


「あそこは既に、野良猫共が占領してる」




 そして、今に至る。

 咲いているかどうかも分からない花をひたすら毟り、花ですらないものも毟る。2~7の軍が三列に並んで斜面に存在する草花を根絶やしにする光景は、どれか分からないから全部抜けと言うルシュカの命令のもとでの行動だった。

 ただ、引き抜いて馬鹿みたいな量になったものを当然選り分けなければならず、その仕事は――


「さすがに我らであっても、これは過労で倒れそうだな」

「しかしやるしかあるまい。手を抜けば王が死ぬやもしれぬ。そうなったら大陸丸ごと滅ぼされるぞ」

「真っ先に私たちでしょうね」

「あ、頭痛い……」


 一箇所に集められた雑草の山を徐々に崩しながら選別する、神都のエルフたち。

 セルミアの花を知るのが彼女達しかいない以上、その役目は全て彼女達が担うほかになかった。

 試しに神殿の倉庫を漁ってはみたが見つけること叶わず、リュミエールの部下のエルフたちが神都を隅々まで同時進行で捜索してもいるが、恐らく望みは薄いだろう。

 一つ一つ花と草を選り分け、そこからセルミアの花かどうか判断しなければならない。気の遠くなる作業だが、背後に控える【タイラントオーク】の手前休憩もできない。

 肩を並べて花を探すオルフェア、御母堂、リーレ、そしてシエレの4人は、疲れきった顔で作業を続けていた。

 既に日は傾き、もうすぐ夜の帳が落ちそうでもおかまいなく、作業は進む。

 分けても分けても、その数十倍の量が加算される光景を見ていると死んでもいいから止めたいと思っても無理は無い。

【ドリアード】なども植物系の魔物の能力を活かして選別を手伝ってくれているが、どれがセルミアの花かを知るのはやはりエルフだけなので、彼女たちの負担は大きい。


「しかし、まさかコルドロン連峰までも占領されていたとは……」


 コルドロン連峰と言えばオルフェアたちでも伝え聞く難関だ。

 伝承の魔物、獄風豹【ニルブレ】が頂に住むとか、【ワイバーン】の住処になっているとかあったはずが、エステルドバロニアの兵士以外に魔物の姿は見当たらない。

 シエレが何気なく周囲の魔物に聞いてみると、やにわに微笑むだけ。つまり、そういうことなんだろう。


「……って、どうしてシエレさんがここにいるんでしょう」


 ちまちまと選別をしながら、リーレはふと問いかける。

 今はエステルドバロニアの城下街で暮らしている彼女は神都があれからどうなっているのかを全く知らず、事の顛末だけは聞いていたのでシエレが普通にこの場にいることに疑問を持った。

 足は変わらず動かないようで、崩した姿勢で座ったまま昔と変わらぬ顔でシエレは微笑む。


「監視役を仰せつかったの。魔物の王様にね」

「監視役、ですか?」

「正確には諜報員だ。罪を許し足を治す代わりとして、神都内部の情報を魔物の国に伝えるのさ」

「それは、オルフェア様が知っていては意味がないのでは」


 諜報になっていないように思えたが、よく考えると諜報員を国の者とは別に用意する必要がカロンにはない。言われなければ気付けなかった猫の魔物がネズミ一匹逃さず監視しているのだから。

 なら何故シエレを抜擢したのか。それは単純に駒を増やしたに過ぎない。


「別に私である必要はないと思うの。魔物の国の人間ではできないことをさせようとしているだけでしょうね。人を相手にして」

「なるほど」


 神都以外の人間から情報を引き出したりする際に、手勢を割かず小間使いを用意しておけば、これから外へと手を伸ばす時に有効に活用できる。

 諜報員など名前だけで、恐らく他国が関与したときに動くことになるとシエレは考えていた。


(……ううん、それもカロン様は必要ないような。なんか、口実なんじゃないのかな)


 リーレの考えは正しかったりする。

 たんにシエレを処断しないために適当な理由を付けていただけだが、それを彼女たちが知る由もない。



「しかし……本当に自生しているのか?」


 作業も大分進んでいる。既に手分けした山はエルフ全体で9つにまで上るが、目的の花はその片鱗すら見当たらない。

 3の月は過ぎており、あるかどうかは分からないというのは覚悟していたものの、それでもここまで徒労のままでは疲労ばかりが溜まっていく。


「王国にも人間型の魔物を数体送り込んだとさっきエレミヤ様が口にしていたが、どうなったことか……」

「エステルドバロニアは他国と干渉はしないようにしているって言ってましたけど」

「それは無理というものではないか。なにせ王の危機だ。あの者らが規律を重視して失うような事態を黙って待っているとは思えぬなぁ」


 御母堂が顔を上げ、イラついた様子で踵を何度も地面に叩きつける姿を見る。

 ルシュカはカロンのためにならないことは決してしない。だがカロンのためとあらば国すら犠牲にする覚悟がある。

 カロンには許可無く動くなと言われていたが、さすがにそのカロンが危機に瀕しているとなれば話は別だ。場合によっては処刑されるのも覚悟したうえでルシュカは王国に兵を侵入させて花を探すよう命じていた。

 侵攻はしていない。元々ミャルコの配下は送り込んでいるし、同じ名目で送り込んだことに書類上はしている。ただ、カロンが目を覚ませば正直に報告を行うだろうが。


 エステルドバロニアにとって王の存在は絶対だ。もしそれが損なわれれば、この世界で過去に起きた人魔戦争の再来になる。

 それはエルフにとっても避けるべき事態だ。


「だが、このままでは見つけられないんじゃないかな……」

「シエレ、それは」

「分かってる。でも花よりも草ばかりあるのを見ていると」


 視線を目の前の草の山に向ければ、緑の方が圧倒的に多い。これから花の時期が入れ替わる今は咲いているものが少なく、セルミアの花は咲いていなければ意味が無い。

 オルフェアたちの作業のほとんどは草を除外することばかりで、花を選り分けるのは100回中5回程度。

 時間ばかりが無為に流れていくのを、分かっていても口にせずにいたが、焦燥と疲労からつい零れた言葉だった。


「っ!」

「あ、リーレ!」


 耐えきれなくなったのか、ぐっと唇を噛みしめたリーレは山奥に向かって走り去っていった。

 追いかけようとするも、オルフェアたちまで与えられた仕事から離れては魔物に何をされるか分からない。睨みを利かせるタイラントオークの目つきが鋭くなったのを感じ取って姿勢をゆっくりと戻し、作業を続ける。


「いったいどこに行く気だ。他の者に探させようにも皆動けぬだろうし……」

「大丈夫ですよ御母堂。魔物の国の管轄だからきっとリーレの動きも把握してると思います。それにしてもあの子、あんなに人にご執心だったかしら? 魔術一筋な子だったと思うのだけど」

「リーレにとって、カロン様は特別なんだろう。救ってくれた恩義がある。勇者みたいに見えてるんじゃないか」

「勇者、ねえ……」


 リーレの走り去った方角を見つめながら、シエレも、オルフェアも、頭に浮かぶ王の姿に背筋を粟立てる。

 リーレ以外のエルフにとって、カロンはエステルドバロニアの王というだけではない。唯一無二の力の象徴だ。

 大軍を従える光景。元老院に行った仕打ち。跪く異形の上に立つ姿。それを羨望の眼差しで見ることも畏敬の念を込めることもない。


 ただただ畏怖しかないというのに。


「本当に、変わった子だよ」

「私たちも出会いが違ったら、リーレみたいになれるのかな」

「さあ、どうだろう」


 純粋にカロンを想う姿を、少しばかり羨ましいと感じつつ、3人は静かに作業を続けた。





 夢を見ている。

 それを夢と言っていいのかは分からないが、きっと夢なのだろう。

 ただ、広大なアスファルトの地面の中心に立たされている。

 遠くには暗闇しかない。上を見ても真っ暗で、でも何故か地面だけははっきりと目にすることができていた。

 どこに向かうべきか。少し考えてみる。瞑目した後に顔を上げると、左右に大きな扉が現れた。

 扉は両方とも開いており、その向こうの景色が見えている。

 右はビルや車。左は草原と魔物。

 考える。これを潜ればその世界に帰れるのだろうかと。

 自然と足が右に進む。

 ここを抜ければ、あの日々に戻れるんじゃないか。


 ――カロン様


 あと一歩で扉を抜ける。その直前に背後から声がした。

 振り返ると、小さな少女が必死に走っている。

 映像が切り替わると、黒髪の美女が泣きそうな顔をしていたり、心配そうに覗き込む顔も見える。


「……」


 考える。

 本当に帰れるのか。

 帰れたとして、それでいいのか。

 胡乱な気持ちが徐々に起きていくと共に、短い日々で感じ取った気持ちを。

 足は、自分の意志で左に向かった。

 心に決めたはずだ。この世界で生きると。

 確証もないのに踏み込んで、あの景色から落ちたらどうする。死ぬぞ。


 自由がある。力がある。為すべきことが、まだある。戻るのはそれからだって、遅くはないんじゃないか。


 扉を潜るのに躊躇はなく、足を踏み入れた瞬間に眩い光と、微かに見えた文字の波に包まれた。




 そして、目を覚まし、


「……失敗した」


 嘆いた。

 目覚めると、そこは天蓋付きのベッドの上だった。

 つまり、右の扉を選んだら普通に帰れたかもしれないというわけで。

 変に格好付けた自分を憎む。でも一度決めたことをころころ変えるのは良くないので、非常に憂鬱な気分での目覚めに至った。

 随分眠っていた気がするので配下の者たちが騒いでいないかと気になり、カロンは慣れた手つきでコンソールウィンドウを開く。


「ぶっ」


 マップを開き、そこで動く緑の点に思わず吹き出した。

 命令がない状態では必ず所定の位置に待機するはずの魔物が、何故か西の山と東の国に分布しているのだ。

 なにこれ。謀反? 謀反なの? いやでも、自国カラーのままだから敵対ではないし。けど東の国にまで入り込んでるのはなんなわけ? いやいやいや、訳が分かんないんだけど。

 当人、ぶっ倒れた記憶しかない。


 意味が分からないまま、誰から話を聞くべきかと考えて、一つ気になることを思い出す。

 夢で見た、走る少女の姿。

 あの夢の光景が今に繋がっているとすると、エルフの少女はどこに走っていたのか。

 マップでのNPC検索機能を使って「リーレ」と入力し、ズームアップをかける。

 その点は西の山脈にあり、何をしているかズームで確認すると、崖にへばりついていた。


「っ、何してんだこいつ!」


 どう見ても慣れた動きではなく、覚束ない動作で崖を下っている。

 この世界では割と面識のある子だ。それが危ないとなれば黙ってなどいられない。

 最も近い位置にいる団長に指示を出しながら、カロンは即座に転送機能を使用して山へと飛んだ。



「お父様、お体を拭きましょう。団長はしなくていいと言っていましたが、やっぱりベタベタして気持ち悪いでしょうから。大丈夫です、変なところを触ったりしません。間違って触れることはあるかも知れませんが。ふへ、ふへへへへへ――っていなくなってるうううううう!!」


 その後、城はタルフィマスの絶叫によって混乱へと陥ったが、これは余談なので置いておくことにする。





「はぁ、っはぁ……いっ、つ……」


 荒い呼吸で、吹き荒む風を必死に堪えながら、小さな体が断崖絶壁を下っていた。

 足を岩の裂け目に差し込み、掴めそうな突起に手をかける。小さな石が音を立てて底の見えない闇へ吸い込まれるのを見ないようにしながら、恐怖で竦みそうな手足に力を入れて、徐々に降りていく。


 何故リーレがこんな所にいるのか。

 シエレの発言によってカロンの死を連想してしまい、それを振り払おうと闇雲に走っているときだった。

 木々の切れ間を駆け抜け、視界が突然開けた瞬間。彼女の体が浮遊する。


「えっ……」


 広い空が、突然離れていく感覚に驚き、視界が急激に流れるのを察知して急いで落下制御の魔術を発動させた。

 得手ではないながらも咄嗟の行動は功を奏し、人一人が乗れる場所に狙って着地をする。

 魔術だけは人一倍努力していたお陰か、不慮の事態に対応できたのは良かった。

 止まりかけた肺と心臓を落ち着かせようと深呼吸をしつつ状況を確認する。


「こんなところがあるんだ……」


 少し遠くなった空。その下に広がるのは、一文字に裂けた山の姿だった。

 ほぼ頂上付近から割れており、深さは目視では解らない。

 噂では耳にしていたコルドロン越えの苦難が魔物だけではなく、自然の地形も含まれたものだということをぼんやりした頭で理解した。

 しかし、そんなことをしている場合ではない。リーレの中では使命とも言えるセルミアの花の捜索をしなければならず、早く上へと戻らなければならない。

 馬鹿なことをしたと自分に呆れながら少し遠い上へどうやって戻ろうかと思案しながら俯き、その視界に、淡い紫の光を見つける。

 視認した途端、岩場に張り付くようにして顔を覗かせ、ゆらゆら揺れる一輪の花をまじまじと見つめた。


「あった……」


 それは、見紛う事なき、セルミアの花だった。


「おーい! おおーい! ありましたー! ありましたー!」


 空に向かって何度も大声を放つ。同時に目立つ攻撃魔術を空に向けて放ってみるが、何一つ反応はない。

 ヒューと甲高く鳴る風の音が遮るのか、崖の中にばかり声が反響する。


 リーレの魔術の才は抜きん出たものがある。しかしやはり不得意なものもあり、姿勢制御や浮遊の魔術はそれに含まれた。

 魔術の得手不得手は使えるか否かでも分けられるが、使えたとしても不得手な場合もある。

 魔術を使用するには術式に魔力を込めて手順を踏んで起動させなければならない。得意であればその過程を迅速に行えたり省略できるが、不得手だと発動に時間がかかったり消費魔力が大きかったりしてしまう。

 リーレの場合は後者で、簡単な姿勢制御の魔術でも、ほんの数分でガス欠を起こしてしまうのだ。

 今使っただけで、体内の魔力の3分の1程度を消費しており、登るにはあまりにも少なすぎる。だが花があるのは僅か4mほどの距離。花を採取するだけなら問題ない。

 登れるまで回復するには時間がかかるし、声を上げても誰かがやってくる気配は感じない。

 いてもたってもいられないリーレが下した決断は、花の採取だった。



「う、うぅぅ……」


 必死に体に力を入れて岩肌にしがみつく彼女は、魔術を一切使用せずにいる。

 断崖を吹き抜ける風が強すぎるため、浮遊の魔術を使っても流されてしまう危険性があった。

 打ち付ける砂に肌を傷めながらも、擦れて赤くなった指が次の岩に手をかける。強風はリーレだけではなくセルミアの花にも襲いかかっており、今にも折れてしまいそうになっている。

 もし風の強さで花が散ってしまえば元も子もない。無理を承知で動いたのはそういった理由も含まれていた。

 少しずつ、少しずつ花へと近づいていく。自分が馬鹿なことをしていると分かっていても、腕に刻まれた黒い呪いを見るだけで考えを振り払えた。

 救われた命。その恩に報いるのは今をおいて他にはない。忌まわしい日々から救ってくれた優しい王様に恩返しが出来るのは今この時しかないと。

 自分が落ちる危険性は当然ある。だが誰かを待ち続けていられるほどじっとしていられない。今にもカロンは息絶えてしまう危険性の方が高いのだから。


「もう、少し……少し……」


 あとほんの数十cm。手を伸ばせば花に届く。

 不安定な体勢で上体を花へと伸ばし、ずり落ちそうな足に力を入れる。

 指先が揺れる花弁に何度か触れた。


「う、うううううっ」


 僅かな力を振り絞って小さな手に花を収めようとし、風によって花がリーレの方へと強く靡いた。


 手に、茎が触れ、力一杯握り締める。


「取れっ――」


 ぷちんと、根本から手折る感覚を感じ、リーレの体が吹き飛んだ。

 今までで一番強い突風。堪えられる姿勢を取っていなかった彼女では抗うことができずに宙を舞う。

 握り締めたセルミアの花と共に空が遠のいていくのを見つめ、自分の行動は最低だったんじゃないかと後悔した。

 あのまま声を上げていたら。崖の上に向かっていれば。カロンを救おうと思うばかりで行動に実力が伴っていない。

 王城でもそれを実感させられたはずなのに。握り締める花がなんの価値も生み出さなくなることが、自分の死以上に恐怖だった。


 カロン様。カロン様。


「ごめんなさい……」


 溢れる涙が風によって彼方に消える。くるりくるりと天地をかき回す風に乗って、暗い闇へと吸い込まれていく。

 ポロポロと涙を零して懺悔する少女。空に贖罪するリーレの目に、大きな雲が見えた。

 その雲は次第に大きくなっていく。膨張しているわけではない。近づいているのだ。

 なんだろう。リーレが疑問に思うよりも早く、白い雲はリーレの脇を猛スピードで通過していき、唖然とする彼女の真下で急停止した。

 ポヨンと、胸の前で花を抱き締めたままリーレの体が落下とは逆の方向に浮かんだ。

 マフマフと数度のバウンドを繰り返して雲の上に落ち着くと、何が起きたのかよく分からないリーレは恐る恐る背後の雲を見上げた。


「危なかったニャ。お前は馬鹿か何かかと思ったけど、気持ちが分からないわけじゃないからあんまり言わないでおくニャ」


 その雲は、雲と言うより綿飴と言う方が的確な表現だろう。リーレの体が半分以上毛の中に埋まり、浮かぶ綿飴の四方に辛うじて手と思わしきピンクの肉球が見える。

 ふかふかの綿飴の上には三角の白い耳があり、その下には虹色の大きなビー玉が付いていた。


「あ、あの……」

「黙るニャ。あーもう、ニャんだってミャーがこんなことをしなくちゃならないのニャ。ルシュカの監督不行き届きだと思うのにミャーが怒られるし……それもこれもお前のせいニャ!」


 むすっと栗みたいな口を更に栗みたいにして怒る巨大な毛玉。【アダンダラ】のミャルコはゆっくりと浮上しながら崖の上へと向かう。


「ともかく、王様に感謝することニャ。あの人じゃなきゃきっと気付かなかったニャ」


 崖の上。そこに見える人の姿を知り、先程以上にリーレの涙は止め処なく溢れる。

 背後に多くの魔物を従えて、腕を組んで見下ろす王の姿。

 それはさながら、ピンチになると現れる勇者のようで――。





 カロンが突如コルドロン連峰に姿を現し、奇跡の復活だなどと兵たちは騒ぐ。

 しかしそれはルシュカが大仰に話したからであり、軍の上層部の者たちはまた別の捉え方をしていた。


「つまり、なんですか。カロン様は寝てただけだと」


 青筋の浮いたこめかみをひくつかせるルシュカとロイエンターレが、ベッドに横になったカロンに背を向けた姿勢で正座するリーレを見下ろしていた。

 カロンの私室で叱責を行うのは宜しくないが、まだ本調子じゃないかも知れないカロンを玉座の間や謁見の間に連れていくことはしたくない2人。

 だが自分の知らないところで責任の所在を問うことはしてほしくないカロンは、自室にて行うよう指示するほかなかった。

 がっくりと肩を落として申し訳なさそうにするリーレは、か細い声で鳴く。


「聞いた症状はセルミアの眠り病に酷似していたんです……」

「それで、その似ていたという理由で我々の不安を煽り立て、我がエステルドバロニアの軍勢を率いて大規模な採取作業をさせたというのか!」

「あぅぅ、ごめんなさい」


 深々と土下座するリーレの頭を踏みそうな勢いのルシュカ。独断であれこれ動かした自分のことは完全に棚の上に置いていた。


「ルシュカ、ロイエンターレもその辺にしておけ。私の危機を懸念してのことだ、そこまで責めることもないだろう」

「ですがお父様。この者の発言が無駄なことをさせたのですよ? 確かに我々にも荷担した責任がございますが、それでも混乱を招いたことに変わりはありません」


 つまりロイエンターレは、相応の責任を取ってもらうべきだと言いたいらしい。

 リーレは明確な判断材料を持っていなかった。顔を叩いて起きないだけで難病だと判断したのは軽率だと言える。

 無論それに荷担した自分たちにも罰をもらうつもりだが、配下ではないリーレにも責任があると言いたいのだろう。

 ではと、カロンはこう返す。


「ならもし私が本当にその病に陥っていたとして、リーレの言葉を信じていなかった場合私はどうなっていた?」

「それは……」


 2人は即答できなかった。

 それこそ大問題になっていただろう。リーレの言を正しいと信じず、悠長に事を構えて王を死なせるなど、冗談でも笑えない事態になる。


「それよりも良い結果だ。私を案じて皆が動いたことの何を責めろというのか。ルシュカ、他国に無断で魔物を送り込んでいたな」

「は、はい。申し訳――」

「それも私を思ってのことなら叱責などできはしない。確かにお前たちには独断を許さぬと告げていたが、それを優先するより私の命を優先した。真の忠義と呼んでも過言ではないだろう」


 いつの間にかルシュカとロイエンターレはカロンに向かって跪いており、その言葉をひしひしと身に刻み込んでいる。

 厳しく罰することもできるのに、上手く言い換えて褒美に変えているのだ。その優しい言葉を棒立ちで聞くなどできるわけがない。

 感無量で泣きそうな2人を無視して、カロンはリーレに目を向ける。


「どうやら、二度も救われたようだな。感謝するぞリーレよ」

「そ、そんな……私は何も……」

「いや、私の方が何も褒美を与えておらん。後でルシュカにでも願いを聞かせるとしよう。よくやった」


 よくやった。

 その言葉だけで全てが報われた気がした。ついに報いることができた気がした。

 ぐすぐすと鼻を鳴らし出したせいで、部屋の中は涙声ばかりになっている。


「あー、そろそろ休ませてほしい。明日の朝、また来てくれないか」


 居たたまれなくなって指示を出すと、ルシュカとロイエンターレが挨拶もそこそこにリーレを抱えて部屋を飛び出していった。

 みっともない姿を見られたくなかったのか、気遣いなのか。

 どちらであってもカロンには関係なく、むしろ都合が良かった。


 ベッドの上で横たわったままウィンドウを操作し、緊急クエスト欄を開く。

 そこには一つのクエストが完了になっており、報酬の受け取りを押すと空いた手に数枚のコインが現れた。


「言えねえよなぁ」


 安い報酬を手の中で弄びながら、枕元にある棚の上を見つめる。

 白い小さな花瓶には、たった一輪。淡く紫に光る美しい花だけ。


「自力で治したとはさ」


 ――緊急・プレイヤーの危機

   クリア済


 初めて見た緊急クエストの内容に疑問はあるが、それは気にしないでおこう。

 あの夢がなんだったのかも気にしない。どうせ自分は選んだのだ。

 今更あれこれ不思議がっても解りはしないのだと。ただこうしてまだ生きていられることを素直に喜ぶことにしよう。





「うっす、お疲れー」

「守善、てめえ何してやがったんだよこんな時に!」

「いやいや、神都によってから帰ってきただけだけど」

「遅すぎるでしょー!」

「足遅いの知ってんだろ。丸一日かかってんだからむしろ褒めろよ。つか何回も魔物が神都の方に行き来してたけど何かあったわけ?」

「ああ、それは――む。守善、その手に持っている花は何かね?」

「これ? 綺麗な花だから王に持ってこうと思って」

「……貴様か。神都で一輪見つけたと思ったら誰かが買っていったと報告があったせいで、それが誰か突き止めるために他国にまで軍を派遣することになった原因は」

「え、なんだよ皆して。え、その武器何? ちょ、ちょっと待って。俺なんにも話聞いてないんだけど」

「だろうなぁ。貴様は端から当てにしてなかったから話すらしてなかった。すまんなぁ。そして死ね」

「だから、話が見えな、ちょ、まっ」




 ――ぬわあああああああああああ!!




「……」



 そう。気になどしないのだ。




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[良い点] 守善のオチ。
[気になる点] 閑話なので細かく書かなくても良いとは思ったのですが、気になったので。 リーレがカロンを診る際に引っ叩いたとありますが、前話やこの話ではそのような描写もなく、突然引っ叩いたところを誰も言…
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