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エステルドバロニア  作者: 百黒
閑話 リーレの冒険
22/93

3 リーレ、考える

 私の日常は、劇的に変化を起こした。

 それは、今までが今までだったからというわけじゃない。

 もっともっと、私の考えることまでも、全部全部変えちゃうくらいの大きな変化だった。


「やー、お疲れー。もう暫くは働きたくないよ」

「もう。そう言っていつもきちんと仕事に来るじゃないですか」


 ぐっと大きく伸びをした【キャットウーマン】の友達が、怠そうにしながらも明るく笑う。


「そりゃ、お給料いいし、なにより賄い美味しいからね!」


 びしっと音がしそうな勢いで親指を立てられても、私困るんですけど。

 ちょっと引きつった笑い方をしたら、頭をわしゃわしゃ撫でられた。


「リーレちゃんのくせに生意気だぞー。そんな子はこうしてやるっ」

「わあ! やめてくだ、あー髪の毛がー!」


 日が王城の彼方へと沈んでいく時間に、フルブルゾンは閉店する。

 本当は夜遅くまでやってるんだけど、国から食材を買い取って店を開いているので、あんまり国に迷惑かけたくないって店長さんが言っていた。

 ただ、私と友達はまだ若いから酔っ払いの相手はさせられないとも言われたけど。


「人多いねー」

「そうですねー」


 お友達と言っても、私よりずっと長生きしているこの人。お名前をマルタと言って、従軍経験のある人だ。

 昔はエレミヤさんの部隊で働いてたらしいけど、結婚したのをきっかけに退役し、今は【オーク】の旦那さんと暮らしているらしい。

 最初オークと聞いて悪いイメージばっかり浮かんだけど、よくよく話を聞くと案外普通だってことを知った。

 オークって、意外にも人間にさほど興味ないらしい。鼻の穴がよく見えるほど美人らしくて、マルタさんが「私はそんなに豚面か!」って言ってたのを覚えている。

 顔も手足も猫のそれで、バランスだけ人間ぽいマルタさんが豚さんに似てるとは到底思えないので、純粋に相性がよかったんだと思う。

 あと、オークは人間の女を襲うって聞くけどそれはちょっと誤解で、発情期の周期が短いせいで手近の女性で済ませようとしちゃうからそういう風に言われてしまうらしい。

 相手が居ないからと「そこに穴があるから」の名言を残して地面と致した猛者が居るくらい大変なんだそうだ。すごい聞きたくなかった。

 そういった性欲が強い人たちのために各地区には必ず娼館があって、男性はよく通うってことも教えられた。既婚者でも相手の負担が大きすぎる場合はそこでお世話になるんだとか。

 不健全だと最初は思ったけど、魔物には必要不可欠で、れっきとした職業だって怒られてからは大変な仕事なんだと考えを改めるようになった。

 貞操観念はしっかりしているらしいけど、抗えないものもあるからその辺は容認しているとマルタさんは言う。自分も発情期に入らないとさすがに辛いらしい。


 って、なんでこんなこと考えてるの私。

 少し話が逸れちゃったけど、要するにマルタさんは獣人だけど私の住んでいる亜人の多い地区と同じだってことが言いたかった。

 家が近所なのでとてもお世話になっていて、この街で暮らすために必要なことはたくさん教えてもらった。

 特に為になったのは国の情勢の話。元軍人ということもあってかなり詳しい。


「人間との共存は良いんだけど、この国に招かれるのだけはちょっと嫌なんだよねぇ」


 ぶらぶらと、出店を見て回りながらマルタさんが呟いた。

 虎縞の毛が生えた手を頭の後ろで組みながら、視線はどこか遠くへと投げている。


「私って偵察部隊にいたから人間の国に潜入した経験があるんだけど、凄い印象悪かったのよ」

「そうなんですか?」

「ん。なんて言うのかな、民を王が見ていないように感じちゃうんだよね。国の実情を理解してないのか知らないけど、こっちは贅沢なのにこっちは飢え死に寸前とか、色々酷すぎるんだよ」


 この国の魔物にとって金銭はさしたる価値がない。お金を必要としないんじゃなくて、贅沢に関心がないって意味で。

 エステルドバロニアに存在する家屋のほとんどは国が資金と材料を提供して建てているとマルタさんは言った。そうしなければ体格差で大きな金額の差が出てしまうからと。

 なので、借金がほとんどの国民には存在していないのだそうだ。もし何らかの理由でお金が必要になると国から借りることができる。もし返済が不可能であれば従軍して給金で支払う形になる。

 私からすればそっちの方が異常だ。だってそれは全て国を運営するだけの資金が潤沢にあるから可能なことで、普通じゃ考えられない。

 そんな無茶なことをしていても黒字が続く。それも国内供給だけで。


「この国が色々おかしいと思うんですけど……」

「かもね。でもエステルドバロニアだって昔は散々だったよ? 50年くらい前にようやく落ち着いてきたって感じなんだって。人間以上に手荒に扱っても大丈夫な魔物だからだろうってお母さんが言ってた。昔区画整理のために数ヶ月城の外に全国民が放り出されたこともあったみたいだからね」


 それは、凄すぎる。

 でも、私たちエルフも人間に頼らなくたって生活できていたことを考えると、確かにちょっとやそっと無茶に扱われても平気な気がする。


「で、そこに弱っちい人間が入ってきたら、なんか扱いづらい気がするんだよね。私たちは胸を張ってカロン様を敬愛していて信頼しているって言えるけど、人間って変な欲を出すでしょ。それが合わないんじゃないかなあと思うわけ」

「カロン様も人間ですよ? 人間だからこそこれだけ発展したってこの間褒めてたじゃないですか」

「それはカロン様が従えるバロニアの十七柱とか、天空円環とか地下伽藍とかいるからだよ。忠実な僕だし、私たちなんかが束になっても絶対勝てない相手だって嫌でも分かるもん。だから国に刃向かおうって気持ちがまず起きないの」

「だけど人間は違う」

「そうそう。なんであんなに力量差見極められないのか謎。相手見てるのに変な自信もって攻撃してくるでしょ。だから馬鹿みたいな反抗とかしそうだなーって。あ、おじさん焼き鳥6つちょーだい」


 マルタさんの考えは、この国で生活するようになってからはっきりと理解できるようになった。

 ディストピアの面を持つユートピア。御母堂はそう表現していた。

 意志の統制を徹底して図り、国の概念を持たない魔物に思想を植え付けることで、この国は丸ごと一つの集合体として機能している。

 人間の国と違うのは、貧富の差や階級の差が目立たず、民が気に留めていないことだろう。

 民より上の存在は軍に当たるが、民以上に徹底して規律を守るよう指導されているから疚しさがない。

 50年前がどれだけ壮絶だったかは私には想像できないけど、この情勢を整えるまでに至ったことはやっぱり凄い。

 民が魔物であること。カロン様の軍が圧倒的なこと。他国に介入を決して許さないこと。

 幾つもの条件をクリアして、この理想を体現したんだ。

 やり方が正しいのかどうかは私には分からない。邪道かも知れない。非常識かも知れない。

 でも、この街の人々の笑顔を見ていたら、私はここで暮らせることに素直に感謝できる。

 この街に来て良かったと、素直にそう思えた。



 マルタさんから焼き鳥を受け取って、食べ歩きしながらまだまだ話をする。

 私はこういう話が好きだし、マルタさんも嫌いじゃないみたいだからついつい話し込んでしまう。

 あと少しで家が見えるところまで来たときも、まだ話し続けていた。


「国に反感を持ってる人って、いないんじゃない? だって嫌なら出ていっても何も言われないもん」

「え。出ていけるんですか」

「そりゃあね。居られても迷惑でしょ。前にカロン様のやり方が気に食わないって【トロール】の一部が出ていってさ、そこら辺の魔物集めて8万だったかな? その人数で国を奪おうとしたことあるの」

「……それは、どうなったんですか」

「半日かけずに根絶やしになってた。ルシュカ様が珍しく本気になって第16団全軍投入してたからもう半端じゃなかったよ。肉片すら見つけられなかったね!」


 どうしよう。私の常識が通用しない。

 8万の敵との戦争が半日で終わるものなの? そんなに早く勝敗って付くんだっけ?

 苦笑いしか出てこない私を後目にマルタさんは色々な戦争の話を聞かせてくれるけど、どれも結果が想定外でもう笑うしかない。


「楽しそうな話してるじゃねえか」


 そんな空気を壊したのは、ドスの利いた声。

 私はこの声を知っているし、マルタさんも知っている。でもマルタさんが苦手としている人らしくて、楽しそうにしていた表情も動きも一瞬で凍ってしまった。

 道の真ん中から、その人がいる方に目を向ける。

 お洒落なアンティーク調の喫茶店【ティーパーティ】。そのカフェテラスに座る美少女が、綺麗なティーカップに口を付けて静かに瞑目した。

 綺麗な水色のドレスに白いエプロン。金色の髪をリボンを結んだその少女は、紅茶の香りを堪能してから私たちに視線を向ける。人混みの中でも存在感を示す力強い(アンバー)の目が、マルタさんと私を交互に見つめた。

 薄桃色の唇が開くと、


「おい、少し付き合えやクソガキ共。どうせ暇なんだろ? まさか断るとは言わねえよなぁ? ん?」


 お伽話に出てきそうな可愛らしさと裏腹に、喧嘩腰の口調が飛び出す。

 ほんとに、魔物って色々だよ。

 性格の捩れた(マルタさん曰く)この人は、とても有名人だ。色んな意味で。

 元第16団副団長“ぶつ斬り”【アリス】。ちぇえんそうという機械の鋸でばったばったと敵を真っ二つにしたことから付いた渾名。

 この人も希望して軍から身を引いた人だ。理由はこの喫茶店をやりたくなったからとのこと。自由すぎないだろうか。


「うあ、アリスさんじゃないですか。あの、私旦那が家で待ってるから早く帰らないと」

「豚のことなんかどうでもいいだろうが」

「一応猪混じりって言ってたんですけど」

「ゴミみてえな見栄だ。あれが豚じゃねえなら何が豚なんだよ。まあいいからさっさと座れ切り株女」

「ひどい!」


 言葉遣いは悪いし強引だけど、でもとっても優しい人。よく紅茶をご馳走してくれますし、何かと便宜を図ってくれたりしてくれているから感謝してもしたりない。

 項垂れながら渋々アリスさんの側に歩くマルタさんを見て、本当に苦手なんだなとつい笑ってしまった。


「なに突っ立ってんだ小娘。早く座れっつってんだろ。ったく、暇でしょうがねえんだよ。祭りだってのに誰も寄ってきやしねえ」


 言えないけど、貴女が居たら誰も近寄れないと思う。

 料理も美味しいし店の雰囲気も良いけど、それをアリスさんが台無しにしているような……


「今失礼なこと考えなかったか?」

「いえ、そんなことないですよ」


 はは、と乾いた笑いが口から出た。

 アリスさんの対面に座ったマルタさんの隣に腰を下ろすと、何も注文していないのに店の中からシルクハットを深々と被った人が紅茶を持ってきた。


「ありがとうございますハッターさん」

「いえいえ、お嬢様の相手をしてくださるお礼ですので。リーレ様とマルタ様がお見えになってお嬢様も大変喜んでおられます」


 口元しか見えない【マッドハッター】さんがにこりと微笑む。

 帽子屋さんなのになんで喫茶店をと前に聞いたら、「お嬢様の命令で」と苦笑していた。


「誰が喜んでるってよ。おいホモ野郎、いいからさっさと店に戻れや」

「私はお嬢様一筋ですから」

「きめえ」


 舌打ちまで鳴らして不愉快ですという顔をするアリスさんだけど、ちょっと口元がニヤついているのが見える。テーブルに肘をついてハッターさんから顔を背けているけど、私の位置からはちゃんと見えた。


「では、失礼します」


 深々とお辞儀をして、トレーを胸に抱えてハッターさんが中へ戻った途端、ぐっと体を机の上まで乗り出してアリスさんが不気味な顔で笑う。

 片目だけ見開いて、口元が半月を作り上げる。怖いからやめてほしいです。


「で? 昔の戦争の話してたよな。それも能なしのゴミクズが挙って食い散らかされに来たくっだらねえ時の話をよぉ」

「気のせいです。きっと」

「嘘だったらてめえの飼ってる豚のイチモツぶつ斬りにするぞ」

「はい話してましたごめんなさいそれだけはやめてください死んでしまいます」


 帰りたいからと嘘を吐いたけど、脅されてすぐ謝罪に変わる。そうやって変に誤魔化したりするからいっつもアリスさんが怖いんだと思うんだけどなぁ。

 乗り出した体を元に戻して、一口紅茶を含んでからアリスさんは少し遠い目をした。


「あん時はまあ楽勝過ぎてつまんなかったけどよ、やっぱ戦争やってっと癖になっちまうんだよなあ。こうしてだらけてんのもいいけど、こう、血湧き肉躍る感じがたまーに欲しくなっちまう」

「それはなんか分かるかも。偵察部隊だったけど、あの緊張感がゾクゾクっと来るの思い出したりしちゃいますねー」

「退役の軍人さんって皆そうなんでしょうか」

「さあな。他の奴の話なんて聞いたことねえから知らねえ。けど大体そう思ってんじゃねえの? 望んで辞めたけど、ふとした拍子に後悔しちまう。『ああ、好きだったんだな』ってな」


 なにより兵卒でも待遇いいしな、とカラカラ笑う。

 大人のほとんどは従軍経験があるそうだ。徴兵などはしてないけど、若い頃に憧れて入軍するらしい。

 今は募集をかけていないから軍に入る若者も減っているけど、昔は男は軍、女は家庭が当たり前だった時期もあったと聞く。

 但し、一度軍から抜けた場合復帰は難しいそうだ。次から次へと新しい人員が入ってくるから、その席を残しておくことができないのだろう。


「こないだの戦争は面白そうだったよな。まじで行きたかったわ」

「あ、やっぱりそう思います? やー、異世界での初戦は羨ましいですよね。でも守善様が全部持ってったらしいですよ?」

「それはしゃあねえだろ。大して準備もしねえで戦になってんだ。時間かけねえで(くび)り殺すべきよ。我らが王にしては珍しく性急だったよなぁ。その原因はこいつだろうけど」


 う……。

 思わず体に這う刺青を隠すように体を抱きしめた。


「……その痕、消えねえのか?」

「あ、その、呪いは既に解けてるんですけど。これは一生残るってリュミエールさんに言われました」

「ふん。あいつが言うならそうなんだろうな。ああ、気にすんな。嫌味言ってるわけじゃねえからよ。それに外見なんてこの国で気にするのは馬鹿くせえぞ? そこの切り株女の飼ってる奴ぁ豚のくせにアルビノだからな。まじでキモいぜ」

「もう! うちの旦那のこと悪く言わないでくださいよ。凄い気が小さいんですから」

「ガキ作んねえのかよ」

「んー、なかなかできなくて」

「だろうな。異種族同士の掛け合わせなんて当たり前のようにできんのは我らが王くらいなもんだ。気長にヤるしかねえよ」

「あの、リーレちゃんいるからそういう話は……」


 異種族同士でも子供は作れることは神都で嫌というほど理解させられた。

 人間と同じ仕組みだけど、影響を与えるのが魔力らしい。だから異種族でも子供を作れる。でも人間との間では上手く結ばれないので、障害を持った子供が多く生まれる。

 ふと神都に残っている子供たちを思い出したが、きっと皆で頑張って育てているだろう。もう憂いはなくなったから、今まで以上に伸び伸びと。


「なんにせよ、さっさとガキ作れ」

「そう言うアリスさんはどうなんです?」

「相手がいねえ」

「ハッターさん居るじゃないですか。他にもウサギさんとかチェシャさんとかジャバさんとか、選り取り見取りでしょう?」

「てめえはペットと交尾すんのか?」


 わー、と棒読みでマルタさんがどこか遠くを見つめる。恋人とかどうとか以前の問題らしい。ハッターさん、頑張って。


「で、小娘。お前まだ我らが王に仕えたいと思ってんのか?」


 突然話を振られて、持っていたカップを落としそうになった。


「え、そうなのリーレちゃん?」

「あの、はい。色々と恩がありますから、きちんとお返ししたいなと」

「律儀だねー。でも難しいでしょ」

「はい。軍に加えてほしいってお願いもしてみたんですけど、紅廉さんに追い返されました」

「門番相手じゃ無理だな。しかも石頭の方が相手なら余計に。リュミエールには言ったのか?」

「はい。でも王城待機の軍団に入れるのは難しいそうです。今でも多すぎるらしくて」

「だろうねー。四方守護もヴェイオス様のとこも特殊すぎるから入れないだろうし」

「図書館の骨んとこあるだろ。あそこ万年空きだらけだぞ」

「あそこ行くくらいなら私グラドラ様に潰される方選びます」

「そんなに図書館って危ないんですか?」

「危ねえな。何がやべえって管理してる奴がやべえ」

「あそこで働いてた人、みんな死んだ目をして辞めますよね」

「戦場だとどいつもトチ狂ってるようなもんだけど、平常運転でぶっ飛んでんのはアイツくらいなもんだ」

「言いたくないですけど、他の団長方も平常運転でぶっ飛んでると思うんです。人外魔境って言葉ありますけど、魔物の私が素直にそう思ったくらい色々とアレじゃないですか」

「てめえが軍に長居してねえから言える台詞だろそれ。あれでもマシだぜ。つか今遠巻きに私のことも馬鹿にしなかったか? おお?」


 話をころころ変えながら、夕暮れに染まる街の中で賑やかに時間を過ごす。

 こめかみをひくつかせて睨むアリスさん。両手と顔をぶんぶんと振るマルタさん。おかわりを持って苦笑いするハッターさん。

 その賑やかな輪の中に、私も混ざっている。

 黄昏を浴びて黄金に輝く王城を見つめながら、愛おしいこの日常に小さく感謝をした。



◆ 



 あまり暗くなると街の皆にお酒が入るからと言われ、途中でアリスさんに追い払われ、みしみしと肩を掴まれて半泣きになっているマルタさんには申し訳ないけど先に帰らせてもらった。

 路地裏を進んでいくと、白い2階建ての大きな家が姿を現した。

 これが今私の住んでいる家。リュミエールさんの補佐をしているアーガルムさんが元は住んでいたのだけれど、東方守護になってから帰ることがなくなったそうで、家のない私に貸し与えてくれている。

 広いし、必要な物は全て揃っているしと大変有り難く、しかしいつかアーガルムさんにも何かしらお返しをしなければと悩む羽目になった。


 あと少し。あと10mも歩けば家に辿り着く。

 そんな、ほんの僅かな距離を前に、ぴくりと体が僅かに竦んで足を止めた。

 その香りは、鼻ではなく肌が感じ取る。香りと形容しているけど、そう表現するのが適切なだけで実際は違う。

 刺すような感覚。ゾクゾクと背筋に走る悪寒。むっと立ち込める、力の気配。

 体を自然と半身にして、その発生源がどこにあるのかを探る。しかし、相手はそんなものを無意味だと言いたいのか、路地の陰から姿を見せた。


「やあお嬢さん。今お帰りかな?」


 すらりと伸びた影が、私の正面に立ち塞がる。

 ダークエルフだ。私たちエルフとは正反対の邪教を信仰する、闇に堕ちたエルフのことをそう呼ぶ。

 この国でもその定義で正しいのかは分からないが、リュミエールさんの部隊を見ている限りそんな確執はなさそうだった。

 ヘラヘラと、ズボンのポケットに手を入れて笑うダークエルフの男性。その人の行動に釣られるようにして、背後からも人が現れるのを感じ取る。

 6人。正面の人も入れれば7人。ちらりと見やった背中越しの光景で、その数と、手に握りしめた酒瓶を確認した。

 恐らく祭りの雰囲気に浮かされての行動なんだろうと思ったけど、だとしたら計画的に私を狙う理由が分からない。

 酔って襲うように見せているけど、その狙いが私に絞られているのが否が応でも理解できる。


「何の御用でしょうか。どこかでお会いしましたか?」


 唇が震えるのを抑えながら、意を決して声をかける。武器は持っていないようだけど、私よりも遥かに強い相手なのはすぐに気付いていた。

 でも怖気づくわけにはいかない。ただ虐げられることを享受していたあの頃とは、もう違うんだ。


「俺が一方的に知ってるだけさ。前々から可愛いと思ってたんだよね。ねえ、一緒に俺たちと遊ぼうぜ?」

「お断り、します」

「そう言うなって。飽きさせない自信はあるからさ」

「それでも、いやです」

「つれないなあ。でもそういうことをやってきてたんでしょ?」

「っ――」


 その目が、私の体を舐めるように見つめている。

 私がどういう扱いをされてきたのか、どうやら知られているらしい。

 経験はまだないが、ソレに等しいだけの陵辱を味わってきた。でもそれは望んだことじゃない。悦んでもいない。

 あの凄惨無惨な日々を、下衆な目で見られるのは、我慢ができなかった。


「若いのにしっかり出来上がった体してんなら、持て余しちゃってるんじゃない? だからさあ、それを発散させるついでに俺たちにも分けてほしいんだけど」


 そう。この目が私は何よりも嫌いだ。


 相変わらずヘラヘラしているダークエルフの男に合わせて、背後の男も近付いてくる。

 力任せでどうにかできると思っているのかもしれないけど、エルフの最高位呪術を会得した私が、容易く触らせるなんてこと、


「【這いずる泥】」


 させはしない。


「うおっ、なんだこれ!」


 がくんと、ダークエルフの頭の位置が下がった。

 足元には黒い淀みが生まれており、そこに足を飲み込まれている。後ろの男たちも同じように捕らわれ、何が起きたのかと身を捩りながら騒いでいた。

 捕縛呪術、【這いずる泥】は私の周囲の足場を魔力で変換し、踏み込んだ者を飲み込む底なし沼へと変える。

 何もしていない風を装いながらも、準備は気付かれないよう注意を払いながら行なっていた。このくらいの呪法であれば詠唱をしなくても行使できる。

 このまま永続的に発動させていれば抜け出すことは難しいはずだ。後ろに振り返って男たちの手の届かない位置から大通りに逃げて助けを呼べばいい。

 だから思ったとおりに何も言わず体を動かしたが、


「おい、待てよガキ」


 何故か突然肩を誰かに掴まれた。


「え……?」


 ゴツっと鈍い音が頬骨で鳴り、体が左へと吹き飛ぶ。

 壁に強く体と頭を打ち付けて、目眩と痛みで何をされたのかが判断できない。

 呻きながら立ち上がろうと崩れ落ちた体に力を入れるよりも早く、頭をがっちりと掴まれて持ち上げられた。

 目の前に居たのは、埋まっていたはずのダークエルフの男。


「な、んで……」

「おいおい、こんな簡単な術式で捕まえられると思ってんのか? まじでむかつくわ」


 額に血管を浮き立たせながら、髪を掴んで引っ張る男の言葉をどうにか整理する。

 思い出したのは、フィレンツの森に張られていた術式。複雑怪奇で、結局解呪の手段を見つけることができなかったあの呪法。

 てっきりリュミエールさんの構築する式が特殊なんだと思っていたけど、それは違う。

 この国の主流となっている魔術の形態が、私たちの知っているものと比べて遥かに進んでいるんだ。

 だから私のでは簡単に抜けられる。普通なら数分は持ち堪えられるはずの術式でも、この国ではお子様レベルのものなのだろう。

 つまり、逃げる見込みがないってこと。


「いたっ……」

「こっちが優しくしてやろうとしてんのに、そんなふざけたことすんなら相応の罰ってのを与えねえといけねえよなあ」


 仲間の人も次々と泥から抜け出すのが見えた。魔術に精通していなさそうなオーガでも、簡単に解呪できてしまっている。

 気を付けろと言われていた。安全な国だけど、犯罪がないわけじゃないんだからと。それに納得していたし、注意もしていたけど、心のどこかでそんなことはないと思っていたのかもしれない。

 余所者がやってくれば目につく。少し考えれば分かることなのに、変な理想を抱いて疎かにしていた。

 これは、私の責任だ。


「おい、どうしちまう?」

「連れてっちまおうぜ。ここ人通り少ねえけど誰か来てもまずいっしょ」

「んだな。じゃ、そうすっか」


 膝立ちの状態で、頭だけで支えられている私。

 なんだか、こんなことを前にもされたことがあったなと、体から力を抜いてそう思った。

 強引に路地の奥の方へと連れていかれながら、抵抗する意思を失くしてしまった私は、虚ろに大通りの方角を見つめているだけ。

 遠のいていく自分の家。安息。それが遠ざかっている気がして、静かに涙が零れ落ちる。



「感心せぬなぁ。大の男が、幼子相手に粋がるなど」


 誰かの、声がした。

 

 


 

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― 新着の感想 ―
[一言] 久々に読み返してみたけど、やっぱり面白いです。 リーレとマルタ、アリスらの会話で語られる国の過去の出来事やオークの旦那のこと等。 単なる説明にならず、国で生きてきた民としての実感を伴った言…
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