9 脅威
数名の騎士団を護衛にして、議長がエルフたちを言霊で操って神殿へと向かっている。
阿鼻叫喚の民の様子は三通り。逃げ惑う者。暴れる者。そして身動きのとれない者。
逃げる者はそこから二通り。町の外に繋がる裏門へと逃げるか、神殿へと逃げるかだ。
狂気を孕んだ獣の声に怯えているのは分かるが、ほとんどの者が裏門から引き返すようにして神殿へと逃げていた。
美しく、神聖で、穏やかだった神都の面影は見当たらない。今まで隠してきた裏の姿が曝け出されたのか、神を崇める教徒の見苦しい人間性が露呈している。
白い街が土で汚れていき、街の景観を作っていた緑は構わず土足で踏み潰されていた。
人の波を押し退けながら走る騎士の後を追従するオルフェアと同胞たちは、起きている事態も分からず議長に従いながらも、困惑を隠せずにいた。
唐突に現れた男性。それは紛れもなく、ほんの少し前まで話をしていたはずの、魔物の王だった。
何故現れたのか。何故攻めてきたのか。
友好的に接していた面影はどこにもなく、ただ冷たい殺意を迸らせた王は騎士を惨殺し、魔術を降り注いだ。
議長の態度に怒りを抱いたのは間違いない。ただ、それでも登場した意味が分からない。
黙れと命じられたせいで言葉を発することができないオルフェアは、この議長と騎士たちがエルフを捕らえた理由も考えねばならず、無言のまま頭の中を仮定だけが駆け巡る。
「くそっ、なんだあれは! ここは聖地だぞ! 何故こんなところに……!」
思考を重ねていたのは、オルフェアだけではない。議長も同じように突如訪れた理不尽な暴虐に荒れていた。
聖地に魔物は決して現れることはない。エルフたちが例外とされているのは、アーゼライ教を修めているからだと言われている。
どんな魔物であろうと、神代の獣と呼ばれる魔物でさえも決して足を踏み入れることがなかった場所。
世界で最も安全な国だったのは、今日をもって過去へと変わってしまった。
「それにしても、何故街の者たちは神殿に向かっているのでしょうか……」
「わしが知るか! 大方、裏も既に魔物が来ておるのだろう。まったく、団長はいつまで遊んでいるつもりなのだ。なんのための神聖騎士だと思って――」
その言葉の応酬を、爆撃のような強烈な破砕音が遮った。
鼓膜を劈く音の衝撃は、騒々しく動いていた人間の時間を全て止める。
尋常ではなかった。異常でしかなかった。
神都を丸ごと揺るがす大地の震動が駆け抜け、門の向こうから聞こえてくるけたたましい笑い声だけが聞こえてくる。
人間の声量ではない。誰の耳にもはっきりと届く狂気の哄笑が、鈍い人間の本能に働きかけた。
一気に騒動が膨れ上がる。悲鳴も罵声も怒声も泣き声も一際大きく騒ぎ出し、通り過ぎる人波が更に荒れ始めた。
「ええい、鬱陶しい!」
乱雑に動く民の合間を押しのけて進む騎士の後ろで議長は舌を鳴らす。
神殿までは後少しのところまで来ていたが、その距離が長く感じる。
外がどうなっているのかが分からないのも不機嫌の原因ではあるし、思い通りに事が進まなかったことが拍車をかけている。
神聖騎士であれば大抵の魔物であれば負けることはない。魔を祓うことに特化した職業なのだから、そう簡単に負けることなど考えてすらいなかった。
あと一息で神殿へと辿り着く。
しかし、近付けば近付くほど不思議と人の数が減っていき、神殿の敷地にまで来るとあれほど騒がしかった町とはがらりと変わって誰一人も存在していない。
神殿に逃げている民は間違いなくいた。上を目指して辿り着くのは神殿以外になく、それ以外の施設は景観を考えてほとんど建てられていない。
では、あの民は何処にいるのか。
エルフや議長を追い抜いて先頭を走っていた民もいたのに、いつの間にか姿が消えている。
それどころか、音が何もしない。
外界と遮断されたように、あの哄笑も狂乱も切り離された、ここだけは神殿としての機能を保っている。
それが、不気味でしかない。
「……オルフェアよ、何か魔術がかけられているかどうか分かるか?」
議長の低い声で命令が下り、ようやく声を発することが許されたオルフェアは、小さく解析するための術式を唱えて起動させて問いに答える。
「限定的な迷いの呪法が張られています。恐らく元老院、騎士、エルフのみが通過できるようにされているのではないかと」
「これを解除できるのか?」
「できません」
「っ、使えぬ奴らだな貴様らは」
間髪容れず不可能だと言われたことで、議長が後ろに立つオルフェアを睨むが、できないものはできないとそれ以上オルフェアは何も言わなかった。
このような魔術を使えるものがいるとすれば、神都に残っていたエルフたちしか思い浮かばず、反逆が実行されたのだと議長は推測した。
だが、オルフェアには当然そのような心当たりはない。実行に移すかどうかはオルフェアが指示をしなければ決定はされない。
どれだけ腐っても規律は守ってきたエルフが、この機に乗じて独断で動くとは考えられず、もしそうだったとすればこの呪法を解く術をオルフェア自身が分かる。
誰が首謀者か。
その答えは向こうからやってきた。
神殿の庭から神殿へと続く石畳の先。いつもと変わらぬ様子の中から、3つの影が近付いてくる。
一つは背の高い女性の影。下げた左手には鋭いナイフの照り返しが見え、気怠そうに三角が2つ付いた頭を押さえながらやってくる。
一つは女性よりも背の高い男性の影。額に一角を生やし、暗くとも東の島国の民族衣装のようなものを身に着けているのが分かる。
そして最後の一つは、小柄な影。白いヴェールが光を透過し、美しい無垢なドレスを輝かせていた。
何者なのかを議長が悟ると同時に、忌々しげに顔を歪めていく。
「貴様の仕業か……この小娘がァ!」
計画を全て崩した人間。
間違いなくこの出来事に加担していたであろう少女。
ただの人形だったはずの、この神都の最高権力者。
「ご機嫌麗しゅう、議長」
表情一つ浮かべずにその少女――エイラは2人の魔物を従えて現れた。
「どうして、と言いたげですね。皆、何がどうなっているのか分からないと言いたいのでしょう? ええ、そうですね。そうでしょうとも。そうでなくてはおかしいんですから」
雰囲気が今までの怯える少女ではなく、毅然とした態度で議長と向き合ってみせる。
両隣に強力な助っ人を従えているから気が大きくなっているのではない。幼い頃から抑え付けられていた、エイラの持つ素質が取り戻されただけのこと。
だが、その姿は想像できぬものだったらしく、議長もエルフも、騎士までも唖然としてしまっている。
「きょ、教皇様。いったい何を言っておられるのですか。それに、何故貴女様の側に……兵衛殿が……」
「ああ、面識があるんでしたね」
どうにか言葉を発したオルフェアに普段と変わらない微笑みを浮かべると、退屈そうな助っ人2人に顔を向けた。
「紹介します。私の協力者となってくださったエレミヤさんと兵衛さんです」
「ハロハロー、エレミヤだよー。なんて、そんなのどうでもいいじゃんか。もう早く終わらせて帰らせてほしいんだけどー」
「全くだ。主の晴れ姿を見たいというのに時間を取られるなど、全くもって許しがたいな。これが主の命でなければ早々に引き上げたものを。ああ、きっと今頃戦の中で悠然と立ち不敵に笑いながら事を運んでいるのだろうなぁ。見たいなぁ。ああ、主ぃ……ハァハァ……」
「……黙ってろよホモ野郎。いっつも思うけどなんでゴロベエが王様のこと口にすると王様が汚されるわけ? もっと素晴らしく表現できないの? あとイカ臭いよ」
「き、きっさまぁ、言うに事欠いて主を侮辱するか! それが団長を任される者の態度か! と言うか、拙者はそんな匂いなどさせておらん!」
「侮辱してないし。あんたの場合陵辱だし。あと誰がおっさんの臭いなんか確認するかー。存在がイカ臭いの!」
「どうやら死にたいようだなエレミヤよ。それを口にしたのは貴様で7人目だぞ……!」
「多すぎるよ! それだけ言われてるなら自覚してよ!」
「……あまり私も仲が良いわけではないようですが、腕は確かです」
一気に緊張感の削がれるやり取りを繰り広げ始めた2人に困った顔を作ったエイラだったが、議長に再び視線を戻すと無表情へと顔を変える。
余談だが、城で謹慎を言い渡されていたはずの兵衛がここにいるのは、直接命令して動かせる、面識があって暇な団長が兵衛しかいなかったからである。
グラドラやアルバートは戦闘に参加していなくても軍を率いているし、ルシュカは雑務があるので仕方なく動かした。
功績を上げれば不問にする、という条件をつけて。
「さて議長様。貴方の行いも今日までとなりました。お気持ちはいかがですか? ああ、外の騎士たちをお待ちになられているのであれば、諦めた方がよろしいですよ? 今頃、為す術もなく死に絶えているでしょうから」
これほど純粋な少女が、悪意一つ感じさせぬ物言いで冷たい言葉を吐くものなのか。
エイラの言葉が事実かどうかを確かめることは議長にはできない。だから、その言葉を信じる気もさらさらなかった。
「小娘が調子に乗るとは、わしの躾が足りなかったようだな。なら今まで以上にきつくお灸を据えてやろうか?」
威厳を持ったとしても、過去の姿は変わらない。
怯えながら嬲られていた記憶が掘り起こされ、微笑み以外浮かべなかったエイラの顔に僅かでも恐怖が滲む。
小さく肩を震わせながらも、気丈な態度は崩すまいと必死に立っているのが見て取れた。
たった一言で虚勢が瓦解するような飼い犬にこうまでされたことを悔いながらも、議長はこのまま恐怖で縛れば自分に従うように戻ると、そう考えていた。
「あー、ゴロベエ。この爺さんがそうだよ。うん、間違いないね」
言い合いをしていたはずのエレミヤが、突然議長に目を向けた。
大きな猫の耳に狐の尻尾。獣人のハーフだと分かる。
「そのようだな。ひーふー……これで最後か」
兵衛の額には立派な一本の角が生えているので、鬼とまでは分からなくとも魔物とは分かる。
議長も当然それくらい気付いている。だが外で騎士が圧倒していると盲信している人間が、たった2人の魔物に連れていた8人の騎士が負けると思うはずがない。
カロンを殺すよう命じた直後に起きた惨劇は油断していたからだと本気で考えており、今の今まで全てを成功させて手中に収めてきた故の慢心。
成功者ではある。しかし、未知の恐怖、その深淵を見たことのない、安穏な老人とも言えた。
「おい、あの魔物を殺せ。エルフも加わってな」
エイラから従う様子を感じられぬので、今持つ手駒に指示をする。
議長が言えば騎士は動くし、エルフも呪いによって動かなければならない。
曖昧な命令であれば多少の融通は利かせられるが、はっきりとした命令にはエルフたちは逆らうことはできない。
たとえ相手が族長を一蹴で死の淵に追いやった化け物だったとしても、彼女たちは抗えなかった。
武器を構えて身構える騎士とエルフを見ながら、エイラは慌てたようにエレミヤを見上げる。
この2人がいれば議長も降伏するだろうと考えていたのに、それが意図を外れた行動を始めたことに焦ったのだろう。
魔物を知らず、騎士の強さも知らずに育ったエイラには、神聖騎士が魔物にどれだけ強いのか想像ができなかった。
脅威と呼ばれている魔物がいれば諦めるはずだと思い、少し無理を言って頼んだというのにこの結果。
どうしましょうと言いたげに瞳をうるませるエイラを見下ろすエレミヤは、対照的に緊張感がさらさらない。
「教皇様はどうやらお勉強が足りなかったようで。でもまあ、協力してくれたし? 王様の命令もあるし? 一応言うことは聞いてあげるよ。じゃあ――」
カロンから、エイラの願いをある程度聞くようにと言われていたエレミヤは一歩前に出てエイラの前に立ち、右手で白いキャスケット帽を深くかぶり直しながら、議長を守るように展開した騎士とエルフを見つめて嗤った。
「――とりあえず黙らせればいいよね?」
誰かが攻撃を仕掛ける。
それよりも早く。
エレミヤの持つスキルが発動される。
ウェポンスキル・格闘《震天地》
WSと呼ばれる、魔物達が戦闘を重ねて武器の熟練度を上げるごとに得ていく技能。
その中の『格闘』によって覚えるスキルの一つ。
高く振り上げた足を地面に叩きつけることで、魔物のサイズに応じた範囲に地震を起こす技。
きつく歯を食いしばり、鉄槌を思わせる強烈な震脚は、余すところ無くその破壊力を地面へと伝え、激しい縦揺れを発生させた。
クモの巣状に地面を砕き、石畳を砕け散らせ、花壇も噴水も崩す。
損なわずにいた神殿の風景は、たった一歩で見るも無残な姿へと変わり果てた。
地面から殴られたと錯覚しそうな衝撃は脚にダメージを与えて暫くの間行動不能にする効果があり、軽く浮遊した人間とエルフは地面に這い蹲る形で墜ちた。
「おいおい、やりすぎではないのか?」
蹲って呻き声を上げる面々を見下しながら、背中の部分を掴んでエイラを持ち上げた兵衛が呆れた声をかける。
振り返ったエレミヤの顔には愛らしい笑顔が浮かんでいた。大地を砕く豪槌を振るった張本人とは思えないほどに可憐な顔で。
「まぁまぁ、大丈夫でしょ。エルフに怪我させるなって言われてないし、目的も達成できるしねー。なにより手加減したし!」
「これだから筋肉の塊というのは嫌なのだ……」
ぐっと胸の前でガッツポーズを作った腕の筋肉の隆起を見ながら、兵衛は深い溜め息を吐き出す。
もし本気でやっていればこの場にいる兵衛以外は死んだかもしれない。
加減をしたと言っているが、エレミヤの起こした局所地震によって砕けた大地の欠片が身体に刺さっている者もおり、とてもではないが“加減”の基準が理解できていない惨状である。
“攻撃力の低い”エレミヤでもここまでの被害を生み出せるのだ。前の世界の方が歯応えがあったと、少しばかりの失望を抱いた。
そうかなーと首を傾げるエレミヤを無視して、兵衛はエイラを掴んだまま転がる騎士の側に近付き、蟻を踏みつけるような自然な動きで頭を一つ一つ踏み砕いて歩く。
エイラがどんな顔をしているのかなど関係ない。ただ命ぜられるままに、役割を果たしているだけだった。
「そろそろ主も到着なさるだろう」
「町も大人しくなりだしたっぽいねー。リューさん必殺の捕獲魔術はさすがだよー」
「捕らえて神殿に押し込んでいるんだったか。あの寿司詰めの中を撫切りしながら歩くのは実に楽しそうだ」
「そのうち聞いてみようよ。んじゃ、ゴミ掃除してこいつら中まで連れてっちゃいましょー」
一連の出来事を当然と言わんばかりに、感慨一つ抱かずに魔物は動く。
苦痛に喘ぐ議長が見たのは、神殿の奥から現れる巨大なイソギンチャクのような魔物の姿だった。
赤黒く醜い触手がずるずると伸び、ねっとりとした液体を先端からこぼしながら身動きのとれない騎士たちに絡みつき、もがこうとどうしようとお構いなしに締め付けてへし折っていく。
声にならない濁った音が騎士の口から零れ、絶命したのも気にせずにギチギチと捻り、次第に上下が違うしなだれ方をして、ついには落ちた。
「は……は……」
ここに来て、ようやく議長は“魔物”を理解し始める。
魔物とは、あくまでも基本として人間よりも遙かに上位の存在である。
魔物とは、魔力から生み出された地獄の使者である。
それを打ち倒せるのは知略か、数か、稀有な存在か。
知略でも数でも大敗し、英雄や勇者といった存在もいない時点で、勝利できるという幻想は払うべきだった。
分割された死骸に二度触手が絡みつくと、イソギンチャクの本体の方へ引き込まれ、血の筋が作られていく。
ずらりと隙間なく並んだ歯が見える大きな円形の口に飲み込まれて消えていく光景に自分を重ね、激しく震える議長を見下してエレミヤは嘲笑を漏らした。
「あらら、こっちのお爺さんも勉強不足だったらしいねー。もしかしてこの世界の同族たちってこの程度の連中にも勝てないの?」
「おいおい、何馬鹿なことを言っているのだ。有象無象が、我らがエステルドバロニアより強いわけあるまい」
「あー、そうだよねー。アタシらくらい強い奴らなんているわけないっか」
兵衛に訂正されて納得を示すエレミヤ。
しかし、それに他の者が素直に納得ができるわけがない。
ただでさえ脅威とされている魔物。それに勝ちうる力を持っていた騎士。
その全てを塵のように扱える連中がいるなど、素直に受け止めたくないだろう。
そんな処刑台が、すぐ側にあるなどと。
「あ、これからお隣同士になるんだっけ? 良かったねー、最強の国が側にいて!」
考えなしのエレミヤの発言に現実を突きつけられ、エイラの笑顔も凍り付く。
現実は非情である。
◆
神都をほぼ全域制圧し終えた魔物たちには、既に戦勝ムードが漂っていた。
大きなレベル差があり、団長一人で主力を粉砕したという味気ないものだったが、それでも勝利は勝利。
強いことが正義の魔物社会で、国が勝つことを誇る軍人たちだから、いかに楽勝ではあっても嬉しいものは嬉しい。
種族柄仲の悪い魔物同士でもこの時ばかりは勝利の美酒に酔っていた。
その浮ついた空気が町に流れているのを他所に、神殿内部では張り詰めた空気が渦巻いている。
教皇が座るべき場所にはエイラではなくカロンが立ち、その下にて本来の教皇と神都のエルフたちが傅いていた。
左右にズラリと並んだカロンの部下。その上座には団長たちが並び、第1団はカロンの側にて膝を突いている。
お互いの地位を明確にするように、高みから見下ろすカロンは小さな少女を見て気付かれぬくらいの小さな喜びを口許に湛えた。
「まず、我が軍の皆に感謝を告げよう。よくやった」
直後、歓喜の雄叫びが白い壁を割りそうな勢いで響く。
今まで一度として、王直々に評価を与えられたことがなく、それどころか同じ戦場に立つこともなかったのだ。
今回の戦はただの手遊びのようなものだったとしても、この価値は非常に大きい。その喜びが雄叫びとなって溢れ出し、歓喜の涙を零す者までいる始末。
割と評価されているとは思っていたカロンだったが、ここまで露骨に持ち上げられると逆に不安になる。
静まる様子のない魔物たちをどうしようかと視線を横に向ける。
「静まれ」
その側に控えていたキメラ……ではなく、ハルドロギア……でもなく。
どこからともなく、今の今までカロンを戦場に引っ張りだして姿を消していたルシュカが静かに号令を口にした。
途端に静まり返り、カロンの心臓は反比例して激しく鼓動を打つ。
「……い、いつから居た?」
「は、たった今駆けつけました。少々この神殿内部の把握に手間取りまして、報告に伺った次第でございます」
「そう、か」
いなかったはずの人物がいれば当然驚く。それが普通なのだが、どうやら理解していないらしいルシュカに苦言を呈しても駄目そうだと諦め、気を取り直してカロンは咳払いをした。
王が正面を向き直したのを確認してルシュカが「どやぁ」と言いたげな、憎たらしい優越感剥き出しの顔を作る。
王の側近として側に控え、傅くことなく右隣で助言をする立場と、声を不用意にかけることもなく王に顔を向けることもできない他の連中との差を見せつけているのだ。
当然、カロンをチラ見していた団長たちの目に留まり、カロンの咳払いに紛れて複数の舌打ちが所々から聞こえた。
「教皇。確かエイラ、と言ったか」
「は、い。ご尊顔を拝謁賜り、恐悦至極にございます」
「そう堅苦しくならなくてもいい。緊張しているのか? それとも、怯えているのか?」
魔物たちに。
「す、少し圧倒されております……」
それを従える貴方様に。
「なに、同じ目的を持って動いていたのだから、手出しはせんさ」
魔物たちが。
「今後も、そうであってくださればと、思います」
貴方が。
微妙に噛み合っていない2人だが、会話は成立しているので良しとしよう。
「さて、エルフの諸君も事情は説明を受けていると思うが、我々の目的は諸君らの解放だ。我が国の性質上、見過ごせない事態だったのでな。本来ならもう少し穏便に事を進めるつもりだったのだが、成り行きでこうなってしまった。許せ」
カロンが到着する前に説明を受けていたオルフェアたちだったが、たかがエルフの一部族を救うのに成り行きで一国を潰すなど正気の沙汰とは思えない。
攻め込む決断を下した当の本人も色々とぶっ飛んでいると後になって思い始めたが、そうなった以上仕方ないよねと思うことにしている。
こうして勝利を収めた今となって自分や周囲を思い起こしてみると、どれも他人事のように感じていた。
人を殺した感覚もなく、その決定に良心も痛まず、ゲームの頃と変わらない傍観者でありながら主催者という奇妙な立ち位置を現実として味わっているようだった。
とは言え、それはむしろ好都合とも言える。
人を殺すことに一々呵責の念を抱いてうだうだするよりは遥かにマシだろう。人間としては落第点であっても、それをエステルドバロニアは求めているのだから。
故に、今回のことを悔いることはしない。国の一歩と同じく、カロンもまた統治者としての一歩を踏んだのだ。
「まぁ、鬱陶しいというのも理由ではあるか。国民以外がどうなろうとある程度不干渉でいるつもりだが、今回ばかりは度が過ぎていたのでな」
「そう、ですか」
魔物を保護することをアピールし、オルフェアたちに国の方針を印象づける。
私利私欲を表には見せず、同族のためという名分を口にしておけば外聞がいい。
「では、差し出がましい申し出ですが、他の同胞たちはどこに……」
「既に全員救出している――と言いたいところが、まだだ」
期待を瞳に浮かべたオルフェアたちだったが、すぐに曇る。
「付け加えると、害は与えていないし全員無事なのも確認している。ただ、これに関してはそちらに任せようかと思っているのでな」
「それはどういう意味でしょうか……?」
当然の疑問。
それにカロンは言葉で答えず、上段から降りて神殿の奥へルシュカとキメラを連れて動いたことで示した。
「来い。この巫山戯た茶番を作り上げた張本人に会わせてやる」
エルフたちとエイラが連れてこられたのは、神殿の最奥。
大広間から裏の通路を進み、元老院が使用していた部屋から扉を潜って階段を降りた先にある鉄の扉の前。
そこから先は、トラウマに触れる悍ましい肉欲の牢獄だ。
「ここは……」
小さくエルフの誰かが声を漏らした。
無言で先導するルシュカに追随していたカロンが顎をしゃくると、長身のキメラであるロイエンターレが扉を開け放った。
中から咽るような淫靡な香りと汚らわしい臭いが漂ってくる。
「カロン様」
ルシュカがそれを察知してカロンを下がらせようとしたが、なおも口を開かず手だけでルシュカを制すと中へと躊躇なく踏み込んだ。
そこにいるのは、オルフェアたちよりも早く捕らわれたであろう御母堂と子供たちが倒れ込んでいる。
「みんな! どうしてこんなところに……」
「大丈夫!? しっかりして!」
エルフたちが視認すると、キメラたちを押し退けて中へと入って駆け寄っていく。
裸に剥かれて倒れる御母堂は体中に浅い傷を作っており、その背中側に子供たちが固まっていた。
恐らく騎士達の責め苦から庇うために身を挺していたのだろう。倒れているが、子供には怪我一つない。
エルフが子供たちに、オルフェアが御母堂に駆け寄る中、エイラは見回していた室内の壁際に見覚えのある姿を見つける。
薄汚い白い装束を身につけ、捲れたスカート部分から覗く病的なまでに白い足には木で作られた歩行具が付いていた。
不自由な足をどうにか動かすために、彼女が使っていたものだ。誰かなど、考えずとも分かる。
身体を反転させて倒れたエルフとは逆方向にいるシエレの下へと駆け寄っていくエイラ。
側にしゃがんでその顔を確認しようと頭を抱える――その瞬間。
エイラの首筋に、冷たい一本の感触が走る。
「……え?」
目を見開き、動きを止めたエイラの呟きが他の助け起こす声に掻き消える。
ゆっくりと首に絡むように滑る感触は、徐々に首の後ろへと回され、上体を起こしたその犯人に抱きしめるような形で拘束された。
「動かないでくださいね教皇様。死にたくないのであれば」
聞いたことのない冷たい声。
豊満な胸に押し付けられた頭を上へ動かすと、いつも優しく笑ってくれた女性の、冷めた視線が向けられていた。
「何をしている……」
御母堂も子供も無事だと分かり、カロンへ感謝を述べようと振り返る途中でオルフェアの見た光景は、今日一番理解ができない光景だった。
「何をしているんだ……シエレ!」
鬼気迫る形相で声を荒らげたオルフェアを、冷たい目で見つめるエルフ――シエレは、何も言わない。
終幕は、あと少し。
誰得触手シーン。