8 王
エルフたちが神聖騎士団に捕らえられていく直前に現れた、奇妙な人間。
黒いコートを靡かせて、軍服の女と奇妙な格好の女たちを側に侍らせながら現れたその男に、元老院の議長は訝しげな顔を作る。
「エステルドバロニア、とは。どちらの国かな?」
エルフを門の方へと押し込みながら騎士達が乱入者を囲むように展開していくが、警戒を示す素振りもなくニヒルに笑っているだけ。
その余裕な姿に、警戒を高めるのは神都側だった。
「どちら、か。言わずとも分かるものではないのかな? 聞き慣れない国なら、見慣れない国の名前に決まっている。目と鼻の先にあるではないか」
「ほほう。あの城か。なるほど。それで、その国の使者がディルアーゼルになんの用かね? 貴君らが城を構えるあの場所はアーゼライ教の聖地だ。それを汚す者たちとなれば、神の意志に従って即刻立ち退いてもらう必要があるのだが」
白銀の城からやってきたと聞いて議長は目を鋭くしたが、たった8人の人間の集まり。その中心の男はひ弱に見える。
馬鹿なのか愚かなのか、余裕は何かに自信があるからだろうが、騎士が勢揃いしているこの場を無事に帰れるなど不可能だろう。
故に、自然と議長の態度は見下すようになる。
それを理解していながら、男は態度を崩そうとしない。真面目に相手をしようと思えば可能だが、そうしないのは思惑があるからだ。
「……それは失礼した。こちらも突然の事態でそんなことを考えている余裕がなくてな。しかし、聖地云々と言う割には随分と面白いことをしているようだな」
ポケットに手を差し込んだまま、情欲の見える目で側に控える女たちを舐め回すように見ているのが分かる。
薄汚い視線に曝されて今にも暴れ出しそうな眼帯をした少女をアイコンタクトでどうにか落ち着かせつつ、議長の顔を観察しながら男は言葉を紡ぐ。
「宗教国家であるなら、幾ら魔物と言えど迫害するのはどうかと思うぞ? なんでもエルフたちも同じ神を信仰しているそうだな。信じる心に優劣はないものじゃないのか?」
「魔物とは混沌から生まれた邪悪の権化。その血が流れているならばエルフもまた邪悪よ。だから我らが慈悲によって穢れを祓っておるのだ」
「まあそう言うならそれでもいい。こちらはエルフさえ手に入ればそれ以上関与する気がないのでな。どうだ、金なら望むだけ支払っても構わんが?」
なめた態度なのは男も同じだが、金の一文字で明らかに議長や周囲の目の色が変わった。
それを感じ取り、更に追撃するため男が顎で隣に立つ長身の女に指図をすると、後ろへと回りこんで風呂敷に包んだ何かを持って前に移動し、おもむろに地面に放り投げた。
ずん、と鈍い音を立てて軽く地面に沈んだそれは、冷えた風によって風呂敷が捲られる。
そこから顔を覗かせたのは、銀の月明かりすら眩む黄金の輝き。
ごろごろと広がった金塊の量は、公国から送られる“お布施”の一年分以上はある。
誰かが、ごくりと息を呑んだ。
「これで足りないと言うならまだ用意してやってもいいが、どうする?」
紛れもなく金の塊。それが目の前に転がっている。求めればまだまだ手に入る。
神に仕えていても、所詮は人間だ。それも欲に塗〈まみ〉れた者では抗えるわけがない。
おもむろに前に出て触れようとした騎士団長だったが、体の前に議長の手が割って入ったことで静止する。
自然と、沈黙が降りた。
(こ、こえー……)
手をポケットに入れた姿勢の状態で騎士団の様子を眺める男――カロンは、何故こんなことになったのかと非常に後悔していた。
本来ならこの場にいるのはアルバートの予定だったはずが、「王の代わりなど私程度が行なってよいことではありません」と丁重にお断りされ、なら他に誰か代わりをと思っていたところでルシュカに進言された。
「王自ら赴くのもよろしいのではありませんか? 我々は確かに自ら牙を剥くような愚かな侵略者ではありません。ですが力を誇示する必要はあり、それを率いる者の姿を認識させることも大事です。そして、この見知らぬ世界に降り立ったことで皆いまだに不安を持っております。そこで王がこの記念すべき第一戦の場で陣頭指揮をお執りになれば、きっと不安など取り除かれることでしょう」
とのこと。
(大丈夫だ、笑って誤魔化せ。暗くて見えないはずだから、顔だけは繕え俺……!)
本気で拒絶しようとは考えた。当然カロンは考えた。
しかし、ルシュカの言葉はいつだって正しく、誤魔化すための言葉がどうしても思いつかない。
結局カロンは丸め込まれた感を感じながら引き籠もり親衛隊である第1団を率いる羽目になったのだった。
500近い数の騎士団がいる場所に少数で乗り込むなど正気の沙汰とは思えなかったが、期待の目が向けば断れるわけがない。
なにせ全てが「逃げたら殺す」と囁いている風に脳内変換されるのだ。魔物の好奇な視線の輝きが捕食のぎらつきに見えるのは仕方ないだろう。
(帰りたい……帰りたい……帰りたいからさっさと受け取るって言えよクソジジイ!)
手先の震えと汗の湿りを気付かせないためにポケットに手を入れていたが、代わりに焦りからつま先が地面を叩き出す。
カロンの意志は宴の席から変わっていない。
腐敗した国が近くにあるのは目障りだと言ったことは本心だ。ただ、それとは別に穏便に事を済ませたいとも思っている。
自分が手に掛けるわけではなくとも、カロンの命令で軍は人を殺す。その責任は全てカロンが負う。
いまだ現実とは曖昧で、胡蝶の夢のように感じていても、人殺しとなるとやはり躊躇う部分がある。
だから、これは最後通告と言ってもいい。これに乗るなら別の方法でアプローチをして交渉したって構わなかった。
魔物たちの内心を思えば攻めるべきとも分かってはいるが、その甘さだけは抜けてはくれない。
どうにかこうにか怯えだけは隠し通しているが、返答を出し渋る議長にイライラしていることは態度に現れている。
それに目敏く気付いたのはハルドロギアだった。
視線を下にふと向けて、カロンが何度も地面をノックしているのを見た彼女は一歩前に踏み出すと石突を地面に突き立てて仁王立ちをした。
少女の姿をしたハルドロギアが腰に手を当てて槍を立てた姿は少し微笑ましく見えるが、見かけに反して吹き上がる力の匂いは微笑めるほど柔らかくない。
視線はなくとも刃のような鋭さを持った意識が張り巡らされ、俯いて思案に耽っていた議長も、金塊に目を奪われていた騎士団長も、キメラ達に見蕩れていた騎士団の面々も、反射的にハルドロギアを注視する。
「我らが王は無駄な時間を嫌いますので、そろそろ返答を頂きたいのですが」
そんなことカロンは一言も口にしていないのだが、そういうことにされた。
まだ強く出ることに不慣れなカロンの代わりに動いてくれたことは正しかっただろう。
ただの小娘の集まりだと思っていた騎士団も気迫を感じて警戒を高めたのは失敗だと思わなくもないが。
ハルドロギアを見ていた議長は、また少しばかり地面を見つめてから、静かに口を開く。
「それはできんな。何故アーゼライ教の神都を侵す者たちに従わなければならんのだ。こちらの言い分は、即刻あの場所を返すこと。無論城ごと移動などできんだろうから、そのまま全て残して国民ごと退去してもらいたいのだが、どうかね」
その答えが、意に添うものであるようにと願うカロンの気持ちとは関わりなく、ただの傲慢が形となった言葉が紡がれた。
「……何を言っているのか、理解できないのですが」
カロンの気持ちを代弁してハルドロギアが口を開く。
手を後ろに組んだ議長は口許にいやらしく吊り上げてキメラたちを見つめる。挑発めいた気迫は、どうやらその外見が仇となってまともに受け取っていないらしい。
「何とは、そのままの意味だよお嬢さん。知らないだろうが、神都はこの大陸で唯一の宗教国家であり、世界最大の宗教の聖地だ。そこを占拠するとは即ち世界を敵に回すということ。聖戦の名の下に攻めないことを感謝してほしいくらいだ」
神都はどこにも属さぬ国であり、宗教で全世界の中心に立つ国でもある。
聖地奪還を謳えばたちまち信者が集まって怒涛のように攻めこむだろう。それは間違いではない。
議長の言葉は正しい。ただそこに宗教には無縁でなければならない欲があるだけだ。
いくらでも金塊を出せる財力があると思わせたのが仇となった。
「……」
カロンは何度も議長の言葉を頭で反芻する。
金で解決しようとしたら国ごと毟り取る気だった。何を言っているか分からない。
想像はしていた。目の前の金塊で満足はしないんじゃないかとは。
しかし、あまりにも横暴だ。事情など考慮せず、圧力をかけて強引に事を進めようとしてきている。
何度も意味を噛み砕いて理解しようとしているが、騎士団の笑い声が耳障りでなかなか纏まらない。
「おお、もしくはアーゼライ教に入信するのも良いかもしれませんな。そうすればそちらにも得でしょう。
なにせ色々と貢ぐだけで安全が手に入るのだから安いものだ」
わざとらしい騎士団長の進言に笑い声が一層強まった。
途端、脳が一気に冷え込んだ。
「……なるほど。そうかそうか、それは魅力的な提案だ」
カロンの口から零れた言葉にキメラたちは反射的にカロンを見つめる。
嘘だと目を見開いてその真偽を確かめるために顔を向け、そして凍りついた。
「しかし、その案は飲むわけにはいかないのだよロートル」
普段の、少し頼りない優しさを溢れさせる顔は、身体を引き裂く絶対零度を思わせる冷たさがある。
表情は何もなく、視線だけが灼熱を帯びて目前の敵を見据えていた。
キメラたちの肌が粟立つ。背筋を走り抜ける電流が脳を痺れさせ、甘美な陶酔を生み出した。
最後の温情を与える優しさを見せ、しかし敵となるなら容赦はしない。
これこそ魔物が愛してやまぬ王の姿であり、そして、強力な魔物ですら頭を垂れる人間の顔だった。
「小僧、身を弁えたらどうだ」
年寄り呼ばわりされてこめかみをひくつかせる議長など、既にカロンの目には映っていない。
ただ、その頭上に表示されるステータスバーだけを見ていた。
「身の程か。確かにそうだな。誰が上なのかをもっとはっきり教えこんでおけばよかったと後悔しているよ。
低俗な屑共が偉そうにこの俺に向かって条件を出すなんてクソみたいなことをされる前に、さっさとぶちのめしておけばよかったとなぁ!」
「貴様ぁ……生きて帰れると思うな!」
議長の言葉に数人の騎士が反応した。
見目麗しいキメラたちではなく、全員がカロンに向かって剣を向けて走る。
彼女達より上の立場の人間を切り捨てて、残った女は捕らえようという魂胆が見え見えだ。
迫る騎士。だがカロンたちに、カロン自身に動揺は微塵もない。
「やれ」
ただ一言。
それだけで、襲いかかった騎士は全て細断されて散らばった。
何が起きたのか理解できた者はいない。
突然騎士が、鎧ごと斬り刻まれて地面に落ちた光景だけが目に焼き付く。
自然と動きが止まる。
だが、それを納得する時間などなかった。
突如轟音が響き渡り、騎士団目掛けて森の中から天へ昇った魔術が降り注いだ。
夜空を照らす虹の帯はそれぞれの凶悪な威力を以て地へと下り、カロンたちに被害が出ぬよう綺麗に躱して着弾する。
辺りが業火に染まり、雷鎚に彩られ、凍土へと変わり、暴風が巻き起こる。
対魔術の術式が隅々まで刻み込まれた甲冑など紙切れ同然に吹き飛び、天災に等しい地獄がたった一度の強襲で生み出された。
「な、何が起きた!」
「何が? 見れば分かるだろう」
カロンの側に近かった議長が変わり果てた周囲の光景に慌てる様を、冷ややかな目で見つめるカロンが補足する。
その目はもはや、目の前にいる人間を人間などと思ってはいない。
視界に時折走るノイズと同じ、目障りな虫としか見えていなかった。
「蹂躙だ」
土煙が吹き荒れる中、黒の王衣をはためかせるカロンはゆっくりとした動きで手を抜いて宙へと指を伸ばす。
阿鼻叫喚の響き渡る世界から脱兎の如く逃げ出す議長と騎士団を眺めながら、指先が空間を踊る。
全体マップから神都ディルアーゼルを選択し、そこからひとつの項目を選び、タッチする。
《宣戦布告しますか?》
その文面が正面に大きく表示され、嗤いながら、躊躇いなくYESを選択する。
その瞬間、神都上空に巨大な文字が幾つも浮かび上がった。
それはカロンだけではなく、誰にでも目にできる光の文字。
死刑執行を意味する、絶望の合図。
state of war の文字が天上で真紅に輝く。
「元老院は生かして捕らえろ。民に手出しはするな。騎士団は纏めて縊り殺せ」
森の中からぞろぞろと姿を現す大小外見様々な魔物たちがカロンの背後に整列をする。
騎士団など目ではない5つの軍を全て動員した大規模な虐殺劇の開幕。
前傾姿勢で今にも襲いかかろうとする獰猛な配下たちを流し目で見つめ、迎撃に動く虫を冷ややかな目で見据えながら、静かに手を前へと伸ばした。
「この世界での価値ある一歩だ。世界を震撼させるほど力強く刻め」
化け物の咆哮が夜空を劈いて木霊する。
史上最悪な夜が幕を開けた。
◆
神都に迫る未曾有の危機。
それは瞬く間に伝染し、恐慌へと導いた。
天に浮かぶ奇妙な文字に加えて生命の根幹から恐怖を与える咆哮。以前のような遠くで耳にしたものとは違い、明らかな敵意を持って轟いた。
民は逃げ惑い、神官は右往左往し、頼りの元老院は姿を見せない。
どうすればいいのか誰も分からない中、唯一目的を明確に理解していたのは騎士たちだけだった。
「全軍、神聖魔術用意!」
馬に跨がって兵士の頭上から敵を視認した神聖騎士団団長ゴルド・オーヴィルの一声は、部隊長たちを通じて伝達されていく。命令が騎士団の隅々まで行き渡ると、困惑しながらも門の前に展開した騎士は魔術の詠唱を開始する。
魔物が来る前に神都へと逃げ込んだゴルドはエルフを神殿に押し込んですぐさま全軍を迎撃に投入した。
白く輝く魔法陣が千単位で現れ、猪突猛進してくる魔物の群れに狙いを定めて合図をじっと待つ。
一度も魔物との戦闘を土地柄経験したことがない騎士たちだが、自分たちが会得している神聖魔法が魔物にとても有効だということは知っていた。
戦すら知らずとも負ける要素はない。どれだけ相手が多くとも、神の加護を授かる浄化の魔術は邪悪を滅する強力な武器なのだ。
それに騎士の武器は全てが聖水によって祝福された銀の剣や槍。これも魔物にはよく効き、特に先頭を走る人狼や悪魔、吸血鬼などに絶大な威力を誇る。
対人であっても対魔であっても、高い性能を発揮するのが神聖騎士という職業だ。
神聖の魔術はその種類が豊富で回復や弱体もこなせる。騎士として剣技を修めているので接近戦も強い。
前衛後衛どちらを担っても遺憾なくその多種多様な戦闘を繰り広げることができる騎士の上位職。それが2000も集まっていれば魔物の群れなど恐るるに足らない。
圧倒的な数の差さえなければ、それくらいは楽観視できた。
人間は魔物に劣る。しかし小手先の技術で、高い知略で、絆の連携で、勝利を収めることができる。
だからこそ英雄譚は人々に愛され、御伽噺は誰もが憧れる。
人の身でありながら悪に立ち向かい勝利する彼らの姿は、人間の可能性の行き着く先として羨望を向けられるのだ。
無限の可能性の第一歩。それが騎士たちの踏み込む道だろう。
「いいか! 我ら神聖騎士団は魔物になど負けることはない! どれだけの軍勢で攻めてこようと、この神聖な地にて敗北などはせん! 神が見ておられる! しっかりとこの聖地を守り抜け!」
何故魔物が現れたのかは誰にも分からない。ディエルコルテの丘方面から来た理由も。
だが現に魔物は神都目掛けて迫っており、騎士団が応戦しなければどうなるかは想像に易い。
まだ困惑している者も多いが、それでも言われたとおり自分の持てる力を振り絞って魔術を展開し、その時を待っていた。
轟音と粉塵をあげて怪物の波がやってくる。心も体も恐怖で震わせる処刑人の雄叫びを耐え続け、滴る汗も拭わずに触媒のタリスマンを強く握る。
近付く戦の足音が、決めていた一つのラインを踏んだ瞬間!
「放てええ!」
ゴルドが魔物にも負けぬ声量で叫んだ。
先陣切って解き放たれた純白の光が山なりに魔物へと飛びかかり、それを合図にして堰を切ったように神聖な煌めきを纏う魔術が夜空を照らあげ、僅かな暁を生み出す。
彼我の距離が300mというところで、大量の神聖魔術が様々な動きをしながら魔物へと容赦なく差し迫っていくのを見送りながら、ゴルドは次の指示を考えた。
全てが上級魔術ではないが、それでも中級以上のものがほとんど。範囲を巻き込むものが多く、一撃でもかなりのダメージを与えられるものが着弾すれば、その威力は計り知れない。
それに聖地の側ということもあり、フィールドの聖地特性でボーナスが加算されているため、通常よりも高い威力を生みだす。
高い攻撃力が予想される人狼を優先して解き放たれた魔術が着弾するのを待たず、ゴルドは馬上にて再び叫んだ。
「全軍剣を抜け! 近接用意! 盾や鎧に対物理防御の魔術をかけておけ! 同時に探査魔法を展開しろ!」
どれだけ強力だったとしても、必ず残った魔物と戦闘はしなければならない。
心の準備をさせる意味合いも込めて全員に剣を握らせ、魔術がその強大な浄化の力を発揮する光景を今か今かと待ちかまえた。
先手を心掛けて指揮する団長は優秀だ。この異常事態の中で冷静に対処し、兵を纏め上げることなどそうできるものではない。
それが旨い汁を吸いたいがために学んだことだとしても、戦場では実力が全て。それを遺憾なく発揮する騎士団長は間違いなく優秀と言える。
ただそれが、魔物を相手にしているという認識じゃなければ結果は変わっていたかもしれない。
ただ優秀なだけでは、鷹の目を持つ王より先に手を打つことなど、
「第3団魔術大隊、対神聖魔術防護を第2軍全面に展開。速度を落とさずそのまま予定通り進め」
できはしない。
それはまさに一瞬の出来事だった。
強力な神聖魔術が直撃する寸前、蒼い魔法陣が魔物の正面に現れて防ぎきった。
全軍が解き放った魔術が蒼い魔法陣にぶつかって白い光の残滓を残して霧散する。
考えるまでもない。魔物の中にも魔術を使う者がいただけだ。
「全軍、物理耐性を強化してファランクスの陣形を取れ! 突破されるなよ!」
二度目の物理耐性の魔術をかけるように叫ぶと、ゴルドを中心に騎士たちが半円状に集結し、上体を覆うように隙間なく盾を構えて切っ先を正面に向ける様子を見つめる。
防御魔術は5回まで重複することが可能で、重ねればそれだけ強度も増す。
魔物が魔術を使ってきたのは想定外だったが、攻撃の要となるのは人狼と見て取れる。
敵後方に控えているであろう魔術部隊は中級以上の魔術をいとも容易く凌いだことから警戒しておく必要はあるが、自軍が突撃している場所に魔術を放り込むことはないと判断する。
神都が造る聖銀の対魔能力の高さは世界屈指と言われている。一太刀入れれば並の魔物なら致命傷へと至る威力だ。
正面からぶつかり合えば、確実に勝てると確信していた。
「探査に反応あり! 数、凡そ40! かなりの速度で接近してきます!」
迫る獣に備えていた騎士団だが、そこで探査魔術に反応が現れたことで動揺が走った。
「落ち着け! あとどれくらいでやってくるのだ!」
探査魔術の範囲はこの騎士達ではせいぜい半径400mが限界だが、それだけあれば何かしらの対策を取る時間はある。
どう対処するべきかを考える時間を知るのは敵が何かを想定することにも繋がる。
だから尋ねたつもりだったが、その答えが返ってくる前に事態は動いた。
「うわあああああああ!」
「ひいい! ゾンビだああああああ!」
両翼から湧き起こる恐慌。騎士団に迫っていたのは、腐臭と腐肉をまき散らして駆けずり回る、ランク3の犬の死骸【アンデッドドッグ】だった。
人間や獣人よりも移動速度が速く、体が小さいせいで夜の闇の中を目視で発見するのは困難だ。
おまけにその外観の醜悪さも相俟って、奇襲には非常に適している。
正面から迫る魔物が獣人だったことで、ゾンビなどもいるとは全く想定していなかった。
魔物は別種族同士で行動を共にすることはない。ましてや死屍の魔物に知性などあるわけがなく、死霊魔術師でもいなければ従うことはない。
そうなると、人狼の中に死霊魔術師が存在していることを意味する。それが普通の考え方だ。
普通の魔物よりも神聖に弱く攻撃力も低いアンデッドドッグは、鎧に噛みついただけで相当なダメージを負っているし、手や足を噛まれる者はいたが怪我人は出ていない。
奇襲の効果は薄いし、2000を相手にたった40しかいないのは少なすぎる。奇をてらうにはそれなりの成果を上げてはいるが、単発の脅しなどさしたる意味を持ちはしない。
ただ、これが狼の魔物じゃないことは、騎士団に大きな疑問を抱かせることになる。
騎士団長は一番最初から大きな間違いを犯している。
攻めてくる敵が、獣人だけだと思っていることだ。
迫る人狼たち。
だがその動きが直進から変化し、左右へと分かれて騎士団の両サイドへと駆けていく。
神都へ入るには騎士団を突破しなければならない。他に入り口はエルフが暮らすゴミ溜めに一つあるが、魔物にそんな知能があるとは思っておらず、全戦力はこの正門へと集められていた。
まさか素通りする気なのか! 騎士団長が動揺を示すが、その考えは徒労に終わる。
両サイドへと移動した人狼、総数500は3列に並んで左右を塞ぐように剣や槍を騎士団に突きつけて動きを止めた。
開かれた道は正面のみ。近づいてさえくれれば確実に殺せるというのに、先程までの猪突猛進は鳴りを潜めて牙を見せたまま静止していた。
「なんだ、これは」
魔物の知能は人型に近ければ近いほど高いと言われている。
いくつも例外は存在するが、その例外はどれもが規格外の力を誇る伝承の魔物であり、人間の軍と同じような統率力などないはずだった。
だが現に人狼の群れは一糸乱れぬ動きで隊列を組み、本能を抑え込んで誰かの命令に従っている。
人狼の長がどこかにいるのかと森の方へ目を凝らしてみても、奇襲で生まれた火災や稲光は既に消えてしまっているため、ただ暗い闇が広がっている。
何が起こるのか。
考える時間も与えられない。
「守善。潰せ」
地を揺るがす強烈な足踏みが地面から感じ取り、ゴルドが正面から迫る何かの気配を感じ取った。
徐々に響く音が大きくなるにつれて、暗闇から影が膨らんでいた。
月の届かぬ地から上へと伸びる影は膨張し続け、見上げても足りぬほどに成長している。
足音は既に音ではなく衝撃と化している。踏み出される一歩に合わせて足が地面から離れる。
ざわざわとざわめきだした人間へ狙いを定めた影は、大きく一つ、 擘く雄叫びをあげて駆けだした。
振動の津波が襲いかかり、満足に立っていることができない。
馬が恐慌に陥り、前足を高く上げてゴルドを振り落とすと、そのまま一目散にどこかへと走り去ってしまった。
両手両足で草を捕らえて地震を堪える姿は、まるで災いに畏怖し神へと祈る信者の姿。
その祈りが届くことはない。
影から抜けだして月光の下に晒されたのは、人間の上半身に牛の下半身を併せ持つ魔物。
筋肉の固まりのような山を思わせる巨体が、四本の翡翠の角を生やした巨影が、退路を持たぬ騎士団目掛けて身の丈以上の長さの右腕を高く振り上げ、叩き落とした。
逃げようにも、左右は人狼で塞がれている。
天災を彷彿とされる地響きのせいで動ける姿勢じゃない。
デザインされた戦略。魔物を最大限に生かした戦術。
命を乞う無様な人間は、振り下ろされる鉄拳に自らの罪を垣間見た。
断罪。
大地が深く抉れて周囲へと四散する。
「ああああああっはっはっはっはっはははっはっははっはははは!!」
壊れた歓喜をあげて吼える守善が、不自然な炎を灯し始めた神都を見下して嘲笑う。
圧倒的な差。労する小細工の如何に関わらず無へと帰す絶対強者の一撃。
神などいないこの世界にやってきたのは、神すら殺す地獄の軍勢。
巻き上がる噴煙が晴れた、騎士団がいたと“思わしき”場所には巨大なクレーターがあるだけで、人影は一つもなかった。
状況報告のログがカロンの視界で一斉に流れていく。大隊規模を巻き込む守善の攻撃スキルであれほどいた騎士が一人残らず死滅したことが書き連ねられていた。
国同士の全面戦争になったはずが、呆気なく終幕を迎え、残されたのは煮え切らない魔物たちの熱気と夜風の涼しさだけ。
あれほど渋っていたことを一時の感情で押し進めたカロンだったが、一つ深呼吸をすると静かに神都を見つめる。
後悔も罪悪感もなかった。ただ、「こんなものなのか」としか感じなかった。
ゲームの世界は子供に影響をなどと口にしていた専門家が頭に浮かび、数日で魔物に感化されたのかと考える。
ちらつく記号が煩わしい。払うように頭を振って再び神都を見つめ、動く必要すらなくカロンの背後で控える魔物に見せつけるように高く手を挙げ、
「仕上げだ。国を落とせ」
真っ直ぐ正面へと振り下ろして静止させる。
二度獰猛な咆哮が夜空を貫いて、恐怖の体言者共が我先にと神都へ向かっていった。
「……お父様、大丈夫ですか?」
ふと、手に何かが触れる感触を覚えてカロンが視線を落とすと、ハルドロギアの小さな手が優しく握りしめていた。
カロンの様子の変化に気付いたのか。自分の立場を表すために、不敵に笑った王はその手からすり抜けて前へと進みだす。
「なんでもない。なんでも」
たこも傷もない、さしたる苦労も知らない手は、小さく震えていた。