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エステルドバロニア  作者: 百黒
2章 神の都
12/93

5 悲願


 幼い少女にとって、この世界に生まれたことは最低以外の言葉にならない。

 腐った民。腐った官。腐った国。

 神を崇め奉る地において蔓延る横暴は誰の目にも余る行為。

 それを覆そうとする人間は、虐げられている者以外にはいない。

 どうしてこうなるまで誰も何も言わなかったのか。

 生まれた頃から続く悪習の経緯を詳しく知ることは、エイラにはできない。

 ただ、この神都が腐敗しているのは、他の誰でもない、誰もが原因だということだけは重々承知していた。


「教皇様。ご機嫌麗しゅう」


 そんなこと思ってもいないくせに、彼らはそんなことを言う。

 下衆な笑いを目元に浮かべて、まだ成熟してもいない体を蛞蝓の視線で這いずり回る。

 気持ち悪い。それしか思えない。

 この教皇の座に着くと決まったときから何も変わらない、色欲ばかりが向けられる最悪の毎日だった。



 エイラには大切な友達がいた。

 その頃はまだ何も分かっておらず、ただ彼女と遊べることが嬉しくて堪らなかった。

 彼女の名を、シエレと言う。

 エルフの中でもとびきり可愛らしい顔立ちをしており、微笑むと女神様のようだと常々思っていた。

 オルフェアは美人だが、同年のシエレの方がもっと若く見える。

 語って聞かせてくれたたくさんの寓話が大好きで、よく自室に連れていってはせがんだものだ。

 ずっと使用人だと思っていた。

 他のエルフと違っていつも神殿の中にいたし、書類を胸に抱えて歩いている姿ばかり見ていたからそう思ったのだろう。

 でも、実際は違った。


 4年前、大きな問題が起こった。

 どういった内容かはエイラには分からなかったが、エルフたちが任されていた案件を期日までに終わらせられなかったらしい。

 それがどれだけ大きな問題なのかは、激昂する議長の声で覚えている。

 広い謁見の間の中、多くのエルフが揃って失態を責められていた。

 玉座に座らされたエイラはその光景をただ呆然と眺めていた。

 失敗は誰にでもあり、それを怒られるのも仕方ない。それだけ大事なことだったのなら、信賞必罰は仕方ないだろう。

 ある程度の知識はシエレから教わっており、対外には示してはいなかったが知識は年齢よりも多く得ていた。

 だから、仕方ないだろうと思っていた。



 その時までは。



 叱責が止み、これで終わったかとエイラが席を立とうとした時だ。

 突然扉が開け放たれ、ぞろぞろと騎士団の人間が入ってきた。

 人払いがされていたこの場に踏み入るなど言語道断。

 即座に退室させるよう議長に視線を向けると、


「……あ」


 老人の下半身は剥き出しにされ、押さえつけるようにシエレが顔を埋めていた。

 なにをしている! そう口にしようとしたが言葉に出来ない。

 エイラのことなど置き去りに、騎士団の面々もエルフたちを強引に組み伏して性交を行いだしていたのだから。


 なんだこれは。


 唖然として、夢じゃないかと何度も考え、悲鳴と嬌声が鳴り止まない中でぽつんと一人立ち竦む。

 見開いた両の目に映し出される光景に、つい最近まで一緒に遊んでいたエルフたちの姿が重なり合い、静かに涙をこぼした。


「いやぁ、いやあああ!」

「おご、う、ぐえっ」

「痛い痛い痛い痛い! 痛いいいいい!」


 女を人と思わない所業が蔓延している。

 手慣れた様子で壊そうとして、絶叫を聞いて楽しげに笑っている。

 飢えた獣が、ただ発散するためだけに動いている。

 男と女の生殖行動。それがこれほど醜いものだと考えたことなどなかった。

 王子様とお姫様が愛し合う憧憬は、この瞬間崩れて消え去った。

 必死に抵抗するエルフはいたりするが、逃げ出そうとする者が一人もいないことから、実は望んで仕打ちを受けているのではとも考えてしまうくらいに、どちらも気持ち悪かった。


「おお、そうじゃった。今回は長であるオルフェアの失態だったな」


 突然思い出したように、元老院の老人が騎士に命じてどこかからずだ袋を引きずってこさせ、口紐をほどいて逆さまに引っ張り上げ、喘ぐエルフたちの前に曝した。


 転がり落ちる手足。風船のように膨らんだ胴体。目に魔物の腕を突き刺した顔。

 五体を切り刻まれた挙句に弄んだ痕跡のあるその死骸は蛆が湧いて皮がとろけており、喉奥から込み上げてきた嘔吐物を堪えることができない。


「嘘、嘘……ロディ……そんないや、いやああああああああああああ!!!」


 シエレの絶叫。老人の叫び。怒りの声。舞う鮮血。

 日常が崩れ去っていく。数時間前までの幸せが塗りつぶされる。

 みんな壊れてる。みんな、みんな、みんな。

 嗚呼、神様。

 幸せを願っても、貴方は救ってはくださらないのですか。


「どうですかな教皇様。貴女様の大好きな、素晴らしき神都の様子は。ねぇ?」


 エイラの甲高い悲鳴が辺りを覆い尽くす。

 星眼があっても、教皇であっても、反吐が出そうな己の弱さに、ただ叫んだ。



「……っ」


 微睡んでいた意識が明確になり、胃が軋む痛みを訴えかけてきた。

 いつものように日記を書いていた途中で眠気に襲われたらしく、机に突っ伏した姿勢から体を起こして目元を拭う。

 締め忘れたカーテンの向こうを見つめれば、銀色の月が丸を描いて世界の闇を照らしている。


 城が現れてから、今日で8日目。

 エルフたちの指定された期限まで、あと1日となっていた。



 ……嫌な夢を見た。

 時折、あの凄惨な光景がフラッシュバックして呼び起こされる悪夢の後はいつも気分が悪い。

 神都の実態を目の前に晒され、血肉の狂乱を目に刻まれたことは一生忘れることはできないだろう。

 エイラの無力さを苛むように襲いかかり、のうのうと生きることを責め立ててくる。

 ぐっしょりと汗で湿ったネグリジェの感触が煩わしく、誰もいないからとはしたなく脱ぎ捨てて下着姿になった。

 ピンクを基調とした子供らしい部屋。いつの間にか蝋が切れて消えた明かりを付け直すこともせず、ふらふらと部屋の中を歩いて壁に掛けられた姿見の前で立ち止まる。

 乳房も発達していない平坦な体。折れそうなくらい細い手足。空色の自慢の長い髪。瞳に刻まれる六芒星。

 これが神都ディルアーゼルの女教皇、エイラ・クラン・アーゼルの姿。

 人に称賛されるべきものは何もなく、年相応の少女がそこにいるだけ。

 確かに、人形だとエイラは自嘲する。


 あの日の出来事を忘れたことは一度としてない。

 今も続く下劣な行為を憎まない日など一度たりともない。

 しかし、それを覆すためのタイミングが計れずにいた。

 ただ叫んでも世迷い言と切り捨てられて終わってしまうし、誰かを味方に付けようにも手段も金も持っていない。

 エルフの皆に協力を仰いだとしても、隷属の呪で縛られているから期待はできない。

 エイラには、その時がくるまで待つしかなかった。

 内で解決するにはエイラ自身が幼すぎるし、周囲が元老院の肩ばかり持っている以上、事を為すなら外からでなければいけない。

 今回の異変で奇妙な城が聖地に現れたと聞いたときはチャンスが来たと思った。

 だが、そのチャンスだけでは誰も救われない。

 元老院が上手く事を進めて終わってしまうか、戦争になってどちらかが敗北するかの結末しか見えずにいる。

 何か、あともう一つが欲しい。それさえ手に入れば、みんなを救うことができるんだ。

 力のない自分でもできることが現れる。そう信じて今日までずっと我慢を通していた。

 鏡に映る自分を真っ直ぐと見つめる。今の顔は決意が見える。


「私は諦めない。みんなを助けるために頑張るんだから」



「おー、かっこいいー。ちっちゃいのに凄いんだねー」

「っ、何者!」


 間延びした突然の乱入者の声に、エイラは慌てて体を手で隠して部屋を見回す。

 左右へと振っていた視線が、窓際に腰掛ける人物を捉えた。

 いつから居たのか、その人物は窓から差し込む光で輪郭だけしか見えない。

 手の上で小さな短刀を弄んでいたが、すっくと立ち上がってエイラの方へ真っ直ぐ歩いてくるではないか。

 手には短刀を握り締め、迷いのない足取りで近づいてくる。

 助けを求めようと口を開くが、そこから声が恐怖でせき止められて出てこない。

 月白に染まった刃から目が離せず、みっともなく足をもつれさせて倒れ込み、吐くことを忘れ喘ぐように息を吸い込み続ける。

 死にたくないと何度も頭をリフレインしてばかりで、逃げなければと思う余裕もない。


「ひぃ、ひぃ、ひぃ、ひぃ」


 ひきつった呼吸音をBGMにして、音もなく目前までやってきた暗殺者の姿が、ようやくはっきりした。

 ぎゅっと堅く目を閉じ、身を小さくしてガクガクと震わせる。

 何一つ成し遂げられずに死ぬことを、シエレや皆に謝罪する言葉を思い浮かべて、来るべき時をじっと待った。


 が、いつまで経っても何もされない。

 何かあったのかと気になって、うっすら目を開けて腕と腕の隙間から暗殺者の姿を確認する。


 暗殺者の右手が勢い良く天井へと伸び、腰に手を当ててポーズを決めていた。

 頭の上で猫の耳がピクピクと動き、まっふりした狐の尻尾が背中からちらちらと見え隠れしている。


「エレミヤちゃん、王様の命に従って参上! 今日は帰ったら撫で撫でしてくれるご褒美付きなので元気一杯だー! うひはー!」


 うははははー、となんとも幸せそうで馬鹿っぽい笑い声を上げる暗殺者。

 上機嫌な【フクスカッツェ】のエレミヤは、目と口を大きく開いて硬直したターゲットのことをすっかりと忘れて、帰ったときのご褒美に想いを馳せて変な笑い声を上げ続けていた。








「それで、貴女はいったい何者なんですか?」

「えー、だからアタシは王様からの使いだってばー」

「ですから、その王様とはどなたかとお伺いしているんです!」

「さっきから言ってるでしょ? 王様は王様だよ?」

「なんなんですかこの人……」


 失神しそうだったエイラが、床に胡座で座り込んだ暗殺者?を前に腕組みをしてため息を吐いた。

 どうやらこの猫のような狐のような女性は暗殺者ではなく、使者だそうな。

 あの短刀はただ手持ち無沙汰だったから持っていただけらしく、危害を加えるつもりはないとのこと。

 そんな弁明をされても殺されそうだと思ったのは事実だし、そもそも誰も居ないはずの部屋に人がいれば恐れるのは当然のことだろう。

 そもそも、どこから来たのだろうか。


 落ち着いてからエイラは脱いでいたネグリジェを再び着て暗い部屋で問答をしているが、どうにも進展しない。

 頭が弱いのか何なのか分からないが、最初の時点で既に心が折れそうになってしまう。

 まぁ、十中八九頭が悪いのだが。


「では、どこから来たの? 獣人の里はこの付近にあるって聞いたことないんだけれども」


 くりくり左右に揺れたり、ぴょこぴょこと上下に跳ねる猫耳が偽物ということはないだろう。

 まふっとした尻尾もぱたぱたと床をはたいているので、これも本物だ。

 しかし周辺に獣人の集落ないし里があるなど聞いたことがなく、彼女が何者なのかさっぱり分からない。


 獣人はエルフのように森や自身に適した環境に住処を作って集団で生活しており、エルフ以上に人間と関わり合いをしない。

 寧ろ非常に険悪な仲で、獣人が暮らす土地に建てられた街や国は常に戦支度を構えて衝突に備えている。

 友好的な付き合いができている国は極僅かしかなく、魔物よりも身近な脅威なのだ。

 しかしここは聖地。魔物も獣人も寄り付かない神聖な大地で、同じ神を信仰するエルフぐらいしか近付く者はいない。

 いったいどこから来たのか。その問いにようやく思考を行ったエレミヤは、へにゃりと垂らした耳を勢い良くピンと立てて嬉しそうに笑った。


「ふふん、聞いて驚け! アタシはエステルドバロニアから来たんだぞー!」


 どうだすごいだろうと言わんばかりに胸を張り、腰に手を当てて踏ん反り返ってみせる。

 さぞかし国を愛しているのだろう。この神都には愛国心を持った人間など疾うの昔に潰えており、その心が羨ましい。

 が、今はそんなことはどうでもよくて。


「……それはどこにあるの?」


 結局答えになっていないのでもう一度尋ねてみると、首を左右に捻り、「何言ってるの?」と言いたげに目をまん丸くしてエイラを見つめた。


「知らないの? おかしいなー、騒ぎになってるはずって聞いたのに」


 フンフン鼻を鳴らしてむむむ、と唸る。

 エレミヤの中では既に城の情報は出回っているものだと思っており、てっきり色々省いても通じるものかと思っていた。

 神子以外には会うなと厳命されているのでそのような愚を犯してはいないが、肝心のところが抜けに抜けているのは仕方ない。

 エレミヤはあくまで前線要員で、パラメーターの知力は実に物悲しいことになっている以上はどうしようもないだろう。


 力なく耳と尻尾を垂らしたエレミヤは置いておくとして、エイラは思わず叫びそうになって慌てて口を塞いでいた。


(この人、あの城から来たってこと……?)


 あの城。当然ディエルコルテの丘に出現した謎の城のことである。

 話題になっているとなれば他にありはしない。

 獣人が暮らしているのか? いやでも、獣人は近付くことはないはず。ならどうして?

 いや、聞けばいいだけだ。

 顎に当てていた手を外してもう一度エレミヤを見つめるエイラ。

 ゆらゆらと船を漕いでいるのか前後に揺れている、不届き者なのに憎めない彼女に視線を合わせるようにしゃがみこむと、ぱちりと瞼が開いて灰色の猫眼と視線が交わった。


「ホッケって美味しいよね」

「ほ、ホッケ? って、何?」


 聞いたことのない、恐らく食べ物の名前を突然言われてそっちに思考が傾きかけたが、軽く頭を振って除外する。


「あの、貴女はあの城……えっと、エステル――」

「エステルドバロニア、だよ」

「そう、エステルドバロニアから来たのよね?」

「うん。お使い頼まれたのは初めてなんだよねー。えっへへー」

「ああ、うん。それでね? お城にはどんな人が住んでるのか聞いてもいいかしら?」


 自分よりずっと背も高く引き締まった体をした女性に対して諭す口調はどうなのかと思ったが、それでようやく話がまともにできているので気にしないことにする。

 ずっと話には聞いているが、今だにベールが暴かれない核心を突くと、エレミヤは城の話をした時と同じくらい嬉しそうに目を輝かせ、ずいっとエイラに顔を近づけて鼻息荒く話し始めた。

 その勢いに気圧されて尻を床に着いてしまったが、その内容にまたも驚かされることとなる。


 エステルドバロニアと呼ばれる城は実は国らしく、聳え立つ城の周囲には多くの民が暮らしているというもの。

 元は広大な土地を治めていたらしいが、奇天烈な現象に飲み込まれてこの世界に訪れたらしい。

 その話だけでも信じられないのだが、それ以上に信じられないのは、エステルドバロニアの庇護下におかれているのは全てが魔物だというものだった。


「魔物が、一緒に暮らしているの……?」

「うん! 王様がね、一生懸命みんなを集めて便利なことたくさん教えて、いっぱい大変なことあったけど、でもみんなも王様のこと大好きで仲良くしてるよ?」


 何がおかしいの、とでも言いたげに小首を傾げてぱふっと尻尾を一つはためかせる。

 おかしい以外に何を言えというのだろうか。

 エイラの頭の中は混乱の極みにあった。

 大した自我もなく、人間の都合などお構いなしの存在が仲良く暮らしている? あまつさえ様々な種族が集まって? 同族同士でも平気で殺し合えるようなのが?

 どんな誇大妄想だと、そう言い切れたらどれだけいいだろうか。

 だが、エレミヤの言葉を信じるしかなかった。

 それ以上に新しい情報は聞いたことがない以上は、ひとまず信じておくしかない。


「あの、貴女の国はいったい何をするつもりなの? 城に行こうにも呪法で進めなくて、全然動きがないから不思議に思ってて」

「別に、いつも通りのことをするんじゃないかな」

「いつも通り?」

「そ、いつも通り。困ってる魔物を助けに行くのだー」


 魔物、と呼べる存在はこの神都には、この周辺には一種族しかいない。

 彼女たちの目的。それはエルフの解放にある。


「ん? 何か面白いことあった?」


 尻もちを着いたままのエイラの目を見て、可愛らしく首を傾げるエレミヤ。

 知らぬ間に、エイラは驚愕混じりの顔で引き攣ったように口許を釣り上げていた。


 来た。

 この時が。


 ずっとずっと思い悩んできた全てを解決するべき手が現れた。

 誰にも頼むことができず、誰も動こうとせず、次第に笑顔が消えていくのを黙って見ていることしか出来なかった日々が、ついに報われる日が訪れたのだ。

 体が意思に反して震え始める。

 心を満たしているのは歓喜であることは間違いじゃない。だが同時に恐怖もあった。

 本当にそう上手くいくのかどうかよりも、自分がその為に行動ができるかどうかを恐れているのだ。

 今までエイラはただ黙って従うことで自分を押し殺してきた。

 服を剥ぎ取られても、皺だらけの手に触れられても、固く唇を結んで耐えてきたことが裏目に出て、いざという時に動けないのではないのかと急に不安になってしまったのだ。

 もし何もできなければ、そう思うだけで涙が溢れる。


 月の雫がエイラの瞳から伝い落ちる姿を見て、エレミヤは目を少しだけ細め、ほわほわした顔を消して真面目な様子を取り繕った。


「王様からの伝言を教えてあげる。「気があるなら動け。決意を見せてもらう」ってさ。君のことはリ、リール? から聞いてるから、王様も君の優しさに期待しているんだよ」


 多分だが、リーレのことだ。

 何故彼女の名前を知っているのかはエイラは知らないが、何かしらの交流があったのだろうと察する。

 エイラのことをどう告げたのかエイラは知らない。だがこうして忠告をしてくるということは、きっと腐敗した神都の教皇であっても期待すると思うことを言ってくれたのだろう。

 期待。その言葉が胸に落ちると、雫とともに弾けた。

 こんな私のことを彼女たちは期待してくれている。ずっと何もできずにいた私に優しくしてくれる人たちが、期待しているんだ。

 そう思うと、胸に落ちた言葉は波紋となって溶けていき、手足の先に仄かな温もりを与えた。


「……ん、大丈夫そうだねー」


 エレミヤは満足気に頷いて立ち上がる。

 そこにいるのは臆病な少女ではなく、決意を胸に秘めた、自分たちの知る王にも似た意思を瞳に宿らせる教皇の姿があったから。

 王にはちっとも敵わないけどね、と内心で付け加えて、尻尾をふりふりしながら部屋の窓へと歩いていく。


「あ、アタシたちのことは絶対に内緒にするようにって言われたから、誰にも言っちゃ駄目だからね?」


 もう伝えることは伝えた以上、この場に用はない。

 と言うか、さっさと帰ってご褒美を貰いたくて仕方がないだけだが、それは態度に出さず優雅な足取りで外の方へ歩いていった。


 エイラはぐっと拳を作って、体を満たす感覚を確かめる。

 やってみせる。その言葉を胸の中で反芻させて、帰ろうとするエレミヤに感謝を告げようとした。

 だが、そこでふと気付く。

 この部屋はずっと騎士によって監視がされているはずだ。

 お飾りの教皇でも逃げられたら困ると警備を配置されているはずなのに、あれだけエレミヤが大騒ぎしたのに誰一人として現れない。

 不審に思い、何かしているとすれば目の前で帰路につこうとしている人物しか思い当たらず、慌てて声をかける。


「あ、あの! エレミヤさん。部屋の周りにいた兵士の人たちに何か、しましたか?」


 ぴくんと尻尾を上にピンと伸ばして立ち止まると、力なくまた下へと垂らして彼女は振り向いた。

 気怠げに怠慢とした動作でエイラに顔を向けたエレミヤ。

 月に照らされるその顔には、満面の笑顔が張り付いている。


「あの人たち眠そうだったからゆっくり寝かせてあげたよ? ぜーんぜん真面目じゃないから通っていいかと思ったらいきなり武器向けられて、いや驚いちゃった。だから眠らせたんだ。眠そうなの邪魔したのはアタシが悪いしねー。まぁ、また起きるかは知らないけど(・・・・・・)


 出会った時に感じたものとは比較にならない恐怖が、エイラの体を縛り付ける。

 美しい笑顔だ。それは誰が見てもそう思うだろう。

 だが、月光の下で笑うその顔に好意的な意味など欠片もなく、


 獣らしい、威嚇を意味する獰猛な顔に映った。


「ふふ、あはははは、楽しみだよ本当に。君も気を付けたほうがいいよ? だってアタシたちって人間のことよく分からないからさー」


 ――みんな眠たそうに見えちゃうかもね?


 愛嬌のある仕草でウインクをして、窓が開いた瞬間にはエレミヤの姿は消えていた。

 突風の音を置き去りにして、嵐のように消えていった最後の顔が脳裏に焼き付いている。

 エイラは一つ、思い違いをしている。

 彼女の望む未来を引き起こそうとしている相手が、人間ではないということを、あの愛嬌で忘れていた。

 その存在の悍ましさに体が竦んで動けず、交代に来た兵士の絶叫が響くまで、神都の夜は平穏なままだった。


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