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睡蓮の糸  作者: 日室千種
7/13

7 火の国 王城(4)

「今後はすべての決にターナハースの印が要る。言い換えれば、ターナハースの印があれば私の許可は不要だ」

「殿下!

 ……いえ、ジーク、様」

 ターナハースはたまらず、口を挟んだ。

 だがあまりの衝撃に、言葉が続かない。その様を面白そうに眺めるのを見れば、口を挟ませるよう、隙を作ったのではないかと勘繰ってしまう。

 誰もがターナハースの発言を待ったので、苦し紛れに絞り出した。

「お戯れはやめてください。私が院長なんて、悪い冗談です。……この国の政に通じてもおらず、経営に詳しいわけでもない。役に立ちません」

 言ってみれば、まったくの正論になった。だがこの王太子には、逆効果のようだった。

 茶色い目が、すっと細められた。愉快げな色はたちどころに消え去り、こころなしか、周囲の気温が下がったように感じられた。

「ならば、何もせずば良い。決がなければあらゆる手続きが滞り、施設は金を使えないが」

 本心から言っているようだった。ネイのことすら、気にかけていない。

 ターナハースは、胃が凍るようだった。

 施設を王から譲り受けたのは、政治絡みでも、ネイのためでも、まして落とし子たちのためでもなく、ターナハースを責任ある立場に据え、容易に逃亡できないようにするためではないだろうか。

(まさか。そこまでしないはずよ。会ったばかりの市井の娘に)

 非常識な想像を、直後に自ら否定する。

 だが、自分の態度次第で、この王太子はあっさりとこの施設を見捨てるのではないか。そんな消し去れない不安が、ターナハースの反論を封じた。

「一人、執務補佐をつける。書類の作り方くらい、すぐに覚えてしまえよ」

 ターナハースの沈黙で諦めを察したか、追い込むように告げる王太子に、背後の男達も、ネイすらも何も言わなかった。不安や不満を抱いていないはずがないのに。

「夕刻迎えに来る。それまで、ここを見ておけ」

 周囲の思惑を関知せず、王太子は男達を引き連れて施設を辞した。

 ネイも見送りに出て、ターナハースは一人、部屋に立ち尽くした。

 王太子から離れ、人の目の少ない王城の外れで、部屋に一人。大きく開け放たれた窓は、玄関からは死角に向いている。

 足を踏み出して窓に歩み寄り、腰までの高さの窓枠を乗り越えれば。

 それだけ。それだけで、やけに懐かしい、穏やかなあの村に帰れるような気がした。自分を待っている不安そうな若い娘が、ほっと安心の息をついて大きな腹を撫でる様が見えるような気がした。

 だが、窓の反対、細く空いた扉の向こうから、暗く湿った廊下の空気が手を伸ばし、ターナハースの足首をがっちりと掴んでいた。

(これでは、流されていってしまう)

 わかっていても、すでに見事に質をとられてしまったようだ。手遅れだった。これが王太子の策だとしたら、見事に功を奏したわけだ。

 かといって、村に帰ることを諦めることも、若い妊婦を見捨てることもできない。

 苦悶に顔色を失っていたターナハースに、戻ったネイは椅子を勧めてくれた。

「いったい、貴方は何者ですか。……どうして、こんなことに」

 尋ねられても、答えを持たないから、首を振るしかない。

 ネイは疑わしげにその様を見つめていたが、ま、いいです、と早々に見切りをつけた。

「理由や目的がなんであれ、あれほど執着している殿下はどうにもなりません。誰が何を言っても無駄でしょう。お気の済むのを待つしかありません。この施療院の命運まで貴方に握られるのは、心穏やかではないけれどね」

「……こういうことは、よくあるのですか? 皆さん、困ってはいるけれど驚かないのですね」

 本当に、不思議だった。

 その問い掛けに、ネイはやや虚を突かれたようだった。

「貴方は殿下のことをあまり知らないのですね。

 私は十分に驚いています。ただ、殿下は一度決めたことは滅多に覆さないことを、私も、皆さんも知っているのです。……語られなくともそこに深いお考えがあることも。だから、皆、従います」

 ただ、とネイは続けた。

「女性に関する噂は数多聞きましたが、仕事を与えてまで留めようとした方は初めてではないかしら」

 ターナハースは、口を真一文字に引き結び、自分が封じた疑念を不意打ちのように叩きつけられた衝撃に耐えようとした。

 他者からもそう見えるなら、今の自分は致命的な罠に向かって追いつめられている獲物なのではないか。

「留める、ための院長代理の座、ですか……?」

 少しでも否定が欲しくて呟いたのだが。

「他にどんな意図があり得ますか? 貴方は気が向かなければ、何も、院の行く末も煩雑な手続きも気にかける必要はない。飾りの仕事でしょう?」

 ネイという女性の話しぶりは率直で、傍で聞いていれば小気味いいが、正面で受け止めるには切れ味が良すぎた。

 あり得ない、と言い募ることもできず、ターナハースは黙り込んだ。

 いったいどうやってこの状況から逃げたらいいのか、途方に暮れる。このまま流されて王太子の側に仕えることになるのは、どうしても避けたいところだった。

 考えあぐねるのに、ネイは事務的に尋ねた。

「で、施療院を案内しましょうか。医師でしたら、診察を手伝ってくだされば嬉しいのですが」

 まったく逆の意図が乗せられた、淡泊な声。

 ターナハースは、せめて顔を俯かせないよう、真っ直ぐに見返した。

「私は医師ではありません。滞在していた村では、真似事のようなことはしていましたが、正規の資格はもっていません。……それでも、手伝いならできます。よろしくお願いします」

 意志と関係なく負わされた責ではあっても、黙って負わされた時点で、おざなりにするつもりはなかった。できることは、したかった。

(最後には、傷つくものなく逃れること。それを忘れないように、ね)

 ターナハースが立ち上がると、ネイは肩をすくめてさっさと部屋を後にした。



 施療院は二階建てで、一階には症状の軽い患者の部屋と、食堂、施術室、調剤室などが配され、二階には重篤な患者が暮らしている。

 患者の平均年齢は十一歳だが、年齢が上がるとともに症状が悪化する傾向が強いので、一階と二階で子どもたちの様相は異なった。

 一階は大部屋ばかりで、皆ですり切れた絵本を読んだり、くたびれた人形でままごとをしたり、小さい子を大きい子があやしたりと和やかだった。ただ、どの子も顔色は悪くおとなしい。幼児特有のかしましさがまるでなく、それが痛ましかった。

 ここでは診療といっても、体温を測り、簡単な問診をしていくだけだ。

「ネイ先生、こんにちは」

 わらわらと寄ってくるのに、ネイは相好を崩して相手をした。

 絵本の文字を尋ねた少女は、愛らしい顔立ちをしていたが、体毛全てがなかった。その隣でぼんやりと知恵の輪をいじっていた少年は、皮膚の色が夜のように黒かった……。

 異形の子たちは、親に殺されずに生き延びても十代後半までの命だ。どんなに元気な子でも、二十まで生きた例はないという。

 厳しかった顔を緩めて応対するネイは、そんな沈痛さをきれいに隠していた。

 一階に比べて、二階はひどく静かだ。

 ゲッハ医師が出て行き、ネイと食事を担当する老婆がひとり、それでここの職員は全てだという。今は、二階で廊下を行き来するのはターナハースとネイだけだ。子どもたちは、皆寝台から離れられない。

 一人の子供は、男の子か女の子かも分からない。皮膚のあちこちが乾いた樹皮のように細かくひび割れ、左頬と左耳の後ろには、薄くめくれた皮膚が髪飾りの花のようにひらひらと揺れていた。体全体が、青緑色に淡く光っている。

 寝台の上で上体を起こし、ひび割れた瞼の奥の眼を小さな窓の外に向けていた子供に、ネイは屈みこんで具合を尋ねた。

「サーラ、今日はすこしいい感じかしら」

 サーラは反応しなかった。ネイも、あえて問いを重ねはしない。黙って辺りの床やシーツにこぼれ落ちている皮膚の欠片を、手袋をはめて回収し、枕を払った。シーツや枕を取り換える余裕は少ない。枕の所々に皮膚片が擦れ、色が染みていた。

 悲しげにそれを見て首を振り、次の患者に向かおうとした時、サーラがぐっと喉を鳴らした。

「サーラ?」

 慌てて振り返ったネイの目前で、細い体がぶるぶると震えていたかと思うと、激しく咳き込んだ。その鼻と口から、煌めく粒子がまき散らされるのが見えた。

 極少の金片のように、息に乗ってくるくると回る粉。

 その中にネイが突っ込みそうになったのを、ターナハースはかろうじて抑えた。

「何をするの、サーラが!」

「今はだめです。目と喉が焼けてしまう」

 粉が肌に触れるだけで、鋭い痛みが走るのだ。粘膜に付着すれば、毒となる。

「……でも、苦しんで」

「すぐに収まります。もう少し待ってください」



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