6 火の国 王城(3)
王太子が戻ったのは、昼を過ぎたころだった。
食事を済ませ、案内された客室に付属した居室で暇を持て余し、飾り棚に置いてあった遊戯盤に駒を並べていたところに、突然本人が訪れた。
これまでターナハースが見た限り、この宮はどこも開放的だ。
部屋の入り口には飾り格子が嵌められていたが、扉の形に切り取られていて、そこに申し訳程度の薄い布が下がっている。窓は大きく何カ所もあり、入り口と同じ意匠の格子が嵌められている。部屋のぐるりは奥行きのある柱廊で囲まれていた。
直接の日差しは入らず、気持ちのいい風が通るので、気候に合わせた仕様なのだろう。だが馴染まないターナハースにとっては、落ち着かない構造だった。
こうして、前触れもなく部屋に人が入って来ては、なおさら。
眉を寄せたターナハースに頓着せず、王太子はつかつかと近寄ると、卓にあった飲みかけの茶をくっとあおった。
「面白い格好だな。動ける服で丁度いい、出かける。エキドナ」
ここに、と戸口に控えるのを、一瞥もしない。
「夕食は戻って共にとる。それまでに服を調達してくれ。これでは、色気がない」
言いたい放題の後、付いて来いと命じてくぐったばかりの入り口から出て行ったのを慌てて追いかけた。
回廊から外れて、内庭と部屋とをいくつか突っ切り、ほぼ直線で移動して、厩舎に着いた。
待機していた男二人の顔に見覚えがあったから、先ほどの男たちの中にいたのかもしれない。彼らは、護衛のようだった。
口を開く間もなく、王太子の鞍上に抱え上げられた。走り出した馬は内宮を囲う城壁の門を容易く通り抜け、執政棟のある敷地に入ったようだった。
各所の門は手厚く警護され、隙はなかった。だが、王太子にとっては馬の歩みを緩める必要すらないのだ。
王城の中でも裏通りなのだろう。人の少ない道を早足で進む。
どこへ、何のために。
わからないことばかりだ。
ターナハースを連れて、執務ではないだろう。だが散歩というには馬の足は速すぎたし、なによりこの王太子に似合わない気がした。
(もしかして、放免される、とか)
そんなはずはない。
かすかな期待を自分で打ち消す。
かわりに、両腕で挟まれて馬上で揺られながら、ターナハースは地理を頭に叩き込んでいった。馬で駆けて移動するほど広い王城にもめげず、いざという時逃げ道を選ぶためだったので、耳の上から、道をよく覚えておけ、と言われて戸惑った。
「その様子だと馬には乗れるな。王城内では不可欠だ。用意させる」
理解ができず、体をよじって振り返る。
目と鼻の先に形の良い顎があって、ターナハースの額をぐいっと押してきた。
「前を向け」
距離の近さに慌てて身を縮めて息をついた。額をかすめた唇が胸に触れた感覚は、まだ新しい。
沈黙のまま、ようやく馬が止まったのは、見るからに王城の外れ、城壁に寄りかかるように佇む質素な建物の前だった。
陶版はおろか一切の飾り気のない石の壁は白塗りがところどころ剥がれ、周囲の木が繁りすぎているためか薄暗い印象が強い。中はひっそりとして、人の気配がない。
馬から下ろされながら、ふと嗅ぎ慣れた匂いがして、眉をひそめた。
王太子が躊躇いもなく表戸を開け放ったところで、「ははあっ」と甲高い声を上げながら、男が一人、腰を屈めて走り出てきた。
よく肥え、その代わりのように貧相な髪をした男は、小刀と針の紋章を縫い取った薄青色の長いローブをまとっていた。近付くと気がつく、薬草の匂い。男は、医師だ。
「これはこれは、王太子殿下。このようなところに御足をお運びいただき……」
「今日からこの施療院は私の施設となった。お前がゲッハという医師であれば、今すぐ王都中央医局へ出向き、手続きをせよ。ここでの勤務は不要だ」
まったく事情を知らないターナハースでも、その措置がよくないものだろうと察しがつくほど、冷たく切り捨てるような言葉だったのだが、男は喜色一面、踊るようにそわそわと腰を動かした。
「ま、まことでございますか。中央医局で働くことが私の夢……! わかりました。今、今すぐに!」
駆け出てきた時よりも早く取って返した男を、もはや羽虫か小石にしか感じていなさそうな様子で、王太子は建物に踏み入った。
暗い。
内壁は石が黒く変色し、雨の日の洞窟のような、鬱とした空間を作っていた。廊下には窓がなく、昼間にもかかわらず灯火が置かれていたが、まるで数が足りずに、かえって周囲に闇を生み出していた。
「ネイ副院長はいるか」
さすがに案内がなかったのか、入ってすぐに誰何した王太子に、すぐ横の部屋から応えがあった。
「ここにおります。少々お待ちくださいませ」
目が慣れれば、部屋の扉は開け放たれていた。やはり暗い室内で、患者に服を着せていた細身の女が、渋い声と顔をこちらに向けていた。
年の頃は四十過ぎに見えた。灰色の混ざった髪はきっちりと後ろで纏められていたが、化粧気はなく、身につけているものもどことなく古びていて、手はひどく荒れていた。
下働きの女にしか見えないのに、やがてすたすたと廊下に出てきて、背筋を伸ばして自国の王太子を睨みつけた様は、王侯貴族のように雅でいて誇り高かった。
「殿下、状況に斟酌なく、ご自分のなさりたいように事を運ぶのはおやめください。ゲッハ医師の事務手続きなんてくそくらえです。診察を放って出ていくなんて。代わりの医師は、ちゃんと回していただけるんでしょうね」
「地獄耳だな、ネイ。数年ぶりに会ったと思うが、まずそれか」
王太子が、呆れたように言いながら、笑っている。
それだけで、このネイという女性が、王太子にとって特別親しい関係にあることがわかった。
「私の管轄の施療院として、ここの格付けを上げた。自動的に、医師資格取得のためにここでの二ヶ月研修が義務づけられることになる」
「結構なお手配でございます。明日から早速来させてくださいませ」
奥で、ゲッハ医師が慌ただしく荷物をまとめている気配がしたが、ネイは一切視線を向けなかった。
「でも、意地の悪いなさりよう。ゲッハ医師の腕では、中央医局で満足に診察もさせてもらえないでしょう。研修医でも、あれよりはましです。あれを追い出してくださった事だけは、感謝してもよいかもしれません。あとは、殿下の思惑を窺ってからにいたします」
さあ、話せ。そう言わんばかりに鋭い眼差しを緩めないネイに、背後の護衛の男たちが笑いを堪えたようだった。王太子がいつ怒りだすかと肝を冷やしたターナハースには、それは意外なことだった。王太子が愉快そうに笑うのを聞いてさらに。
「相変わらずだな、ネイ。それで、経営はどうだ、と聞くまでもないか。王は渋いからな」
さらりと言い捨てられたが、鋭い批判のようでもあった。
さすがにというか、ようやくというか、ネイは患者たちを気にしたようだった。私室らしき部屋に客を招き入れてから、首を横に振った。
「渋さにも、限度があります。なんのために施療院を設けているのだか! もうぎりぎりの状態です。患者からは取れず、国からも与えられず。保証されているのは医師の給与だけ。医療器具はおろか、シーツの替えすら買えません」
「王よりは援助する気がある。だが、垂れ流しにはできん。収入源を作れ。五年で自立経営ができるようにしろ」
「無茶です。この施設の存在意義は利潤とは対極にあります」
「やらねば、存在していけない。それだけだ」
為政者の立場にある王太子の断定に、ターナハースはひそかに苦い顔をした。
垣間見えた患者たちは、みなが「神の落し子」だった。それは世界中で、ある頻度で産まれてくる、不治の病を背負った特異な子どもだ。姿形の奇怪さゆえに疎まれ、産まれてすぐに捨てられてしまう子が多い。あるいは同じくらいの数が、親に密かに殺されているかもしれない。殺されず、捨てられずとも、生まれつき体は弱く成人する見込みはほとんどない。
彼らから治療費を取れるはずがなく、また彼らを受け入れる施療院がどんな利潤も望めるものではないのは、よくわかった。
「よく考えろ。それと、ターナハース」
物思いに沈んでいたところを突然呼ばれ、はっと顔を上げた。
「ネイ副院長だ。医師でもある。ネイ、ターナハースだ。在野の医師だそうだ。まず、そうだな、ターナハース。名はどう綴る?」
王太子の、というよりリファラジークという男のペースにどこまでも飲まれていきそうで、ターナハースは目眩を覚えながらもネイに一礼をした。
医師の真似事をする薬師であり、正規の資格ではないという申し立てをする隙はない。
話の流れを遮る事は、王太子の意志なくば至難のようだ。
これからどういうことになるのか、不安に口ごもったターナハースの目の前に、無造作に紙片が差し出された。
「ここに書け」
理由を説明する気はさらさらないらしい。
ちょっとした綴りの違いで、細かな発音が異なることもあるので、ターナハースは特に抵抗もせず、ネイのペンと机の端を借りてさらさらと走り書きをした。したのだが、書き終わる頃に嫌な予感に襲われた。
紙はそれなりに貴重品だ。しかもこの書き味は、上質な紙だろう。名の綴りを確かめるだけに、わざわざ使うようなものではない。
だが躊躇いに手が止まったのは名を書き終えてからで、すぐさま王太子の手が伸びて紙片を奪っていった。
それが目の前で広げられて、裏に隠れていた書面が現れるのを見た時には、何故と問うのにも疲れて、握り込んだ片手を額に当てて重たい息をついた。
王太子は委細気にせず、ネイに向かって唇の片側を上げて見せた。
「これで、私の全権代理人としてターナハースをここの院長とした」
ターナハースの視線が、ネイの茶色い瞳とぶつかった。