5 火の国 王城(2)
「大変失礼な態度をとってしまいました。お詫びいたします」
柔らかな声音の謝罪の後、さすがというべき所作で姿勢を戻すと、すでに眼差しにさきほどまでの険は見られなかった。
今しがたの会話に何か見たのだろうと察したが、鍵となるものには思い当たらない。セイランは、もしかすると予想していたのかもしれない。
「冷えてお辛いことでしょう。まずは湯殿へご案内します。こちらへどうぞ」
エキドナの言葉に、指示を受けるまでもなく、背後の侍女らが動き出した。
導かれるまま明るい回廊を歩き、鮮やかな色の花々が咲く内庭を横切り、柱廊に囲まれた湯殿のある棟にたどり着くまで五分ほど。付き添った侍女たち以外の人間に会わなかったのは、一流の気遣いなのだろう。道順をしっかり覚えながら歩いていたターナハースだが、回廊に敷き詰められた紅の絨毯に足が埋もれる感覚が大層心地よく、ふと苦笑した。寛ぐとき以外は靴を履く文化のこの国では、素足でこの上を歩いたのは自分くらいなものだろう、と他愛無いことを思って。
促されて入った初めの部屋は、天井から床まで陶版を敷き詰めている以外は、普通の部屋のようだった。絹張りの寝椅子には背枕が、卓には花が飾られ、すでに温かな飲み物が用意されていた。色と香りからすると、珈琲だろう。
ターナハースは白く柔らかな布の浴衣を渡された。外套の下でそれを羽織り、外套を侍女に渡す。勧められて、寝椅子にかけて珈琲を飲んだ。
部屋の中は外よりも暖かく、さらに飲み物で、体はゆったりとほころんだ。ハスランよりも気温が高いジークファランド王都だが、それでも冷えていたらしいと、ようやく気づいた。
その緩みを察したように、エキドナが柔らかく話しかけてきた。
「まもなく、湯殿の準備が整います。天然の湯の泉から引いておりますので、ゆったりと暖まってくださいませ。中に、お背中と御髪を洗うお手伝いをする者がおります。オイルや石鹸など、細々したことについては彼女たちから説明いたします。よろしいでしょうか」
「手伝いは、いりません」
「煩わしいかとも思いますが、お一人で湯殿をお使いいただくことはできないのです。ご容認ください」
なぜ、と尋ねるのもばかばかしい気がした。どのみち、許されないのだ。押し問答になるのは明らかだった。好意的に理由を推測するならば、きっと王城内では定められた規則があるのだろう。例えば、身元がはっきりしない人間を一人にはしない、など。
ターナハースは、不承不承、拒否の言葉を飲み込んだ。
「わかりました。浴衣は着たままでいいのですね?」
「結構です」
浴衣さえ着ていれば、万が一花が現れても見られずに済むだろう。ならばこれ以上逆らうのも面倒で、促されるまま湯殿に入った。
湯殿は、広かった。
温泉を引いていて、湯に限りがないからだろう。泳げるほどの広い浴槽からお湯が溢れていた。奥は柱廊を挟んで専用の内庭に解放されており、草花や木々がごく自然な佇まいで風に揺れている。床も壁も、一面陶版で、そこにも花が描かれていた。
あの王太子もここに入るのかと思うと、ひどくそぐわない場所だったが、あえて尋ねることでもないので沈黙した。
示されるまま、為されるがままに全身を洗い終わり、勧められて浴衣のまま湯につかる。
冷えていた体に、優しい温度。湯浴みは贅沢で、日常あまり機会はないが、疲れた体のみならず頭までほぐしてくれると知っていたから、ターナハースはせっかくの湯を存分に味わった。
一体、何故自分はここにいるのか。
なぜ、こうなってしまったのか。
臍を噛む気持ちだったが、とりあえず頭から追いやった。思考を真っ白にして、神経の負荷をなくす。そうして労って初めて、いい考えが浮かぶものだ、と期待するしかないのだ。
湯から上がると、新しい浴衣を肩から着せかけられ、するりと古い浴衣が脱がされた。香油のマッサージを断って、先の部屋に戻れば、エキドナが少し困った顔をしていた。
「実は、急なことなのでお客様のための女性の服がございません。今手配中ですので、しばらくそのままで過ごしてくださいますか」
裸に一枚羽織るだけの状態は、心細い。王太子に一瞬で服を燃やされた時のことを一瞬思い出したが、嘘をついている様子はない。
ターナハースはかすかに息をついた。主人が危険な人物でも、仕える者までそれに倣うとは思えないし、思いたくない。そう疑念を抑えこむと、次には手配中という言葉に困惑した。
「かまいません、けど、特別に用意していただくこともありません。男性の服でも、お仕着せでも結構ですけれど」
代案を申し入れると、意外にもすんなりと男物の服が差し出された。
「殿下がご成人前にお召しになられていたものです」
ぎょっとしたが、致し方ない。長く仕舞われていたとは思えないよい香りのする上質の服に袖を通すと、髪を丁寧に拭かれ、梳られた。
今度は果物が供され、薄く汗ばんだ顔には侍女の一人が優しく風を仰ぐ。
その扇をエキドナが受け取ってさっと侍女たちを見渡せば、皆が一斉に出て行ったので、人払いをしたのだとわかった。
「単刀直入にお伺いしたいことがございます」
断る理由はなかったので、うなずいた。
「ターナハース様に対して、殿下は、その、非道な仕打ちをなさったのでしょうか」
少し言い淀んだものの、はっきりした声。だが、目には抑えきれない力が入り、ぴくぴくと瞼を震わせているのを見て、一瞬答えに詰まった。
「……いえ、そんなことは」
「ですが、先ほど服を燃やされたと、セイラン様がおっしゃっておりました」
上辺だけの否定は、よしとされないらしい。それならば、と躊躇いながらも、ターナハースはこれまでの経緯をかいつまんで説明した。怒りが滲む隙がないようできるだけ客観的に、そして最後に、何故そういうことになったのか、まったくわからないと付け加えて。
黙って聴いていたエキドナは、目を伏せて、首を振った。
「初めのご挨拶の折りの私の態度を、改めてお詫びいたします。まさか、そのような手段でお連れになったとは……」
苦渋を隠しきれず、声が揺れた。
だが、彼女がぐっと顔を上げた時、すべての感情の揺れを押さえ込んだのがわかった。
「私などには、殿下のお心の内はわかりかねます。ですが、きっと深いお考えがあってのこと。どうぞ殿下を信じてくださいませ。……今は殿下に逆らったりなさらず、お側にお仕えするのがよいでしょう。セイラン様のお言葉の通り、殿下の執着は激しいものがございます。愛情の深い方なのです」
労りのこもった、心からの言葉のようだった。ターナハースのことを、案じている。
そして同時に、王太子のことを信じている、いや、信じたいのか。そしてより強い親愛の情がある。
攫われるように連行されたターナハースには、王太子の深い考えも、愛情深いという性質も、とても期待できるものではない。むしろ、大変な主を持っているものだと、エキドナに対して同情を感じてしまうほどだ。
複雑な気持ちで、あえて返事をしなかったのだが、エキドナはその意図を正しく汲み取ったようだった。
「今このようなことを申し上げても、あなた様には納得しがたいことでしょう。ひとつ、私がお約束いたしますのは、あなた様のご滞在中、せめてご不自由のないようお世話をさせていただきます。ご自分のためにも、くれぐれも短慮だけはないよう、お願いいたします」
主を信じ、擁護しつつも、ターナハースへの心遣いも形ばかりではない。
優しい人物なのだと、好感は持った。ただし、逃亡の手助けは期待できないが。
「ただこれはご承知おきください」と、侍女たちを再び部屋へ呼び戻したエキドナは、先ほどまでの憂いをきれいに拭い去り、有能そうな美しい笑みを見せた。
「殿下がこの内宮に女性をお連れになったのは、初めてなのでございます」
ターナハースは、砂を飲み込んだような顔をした。エキドナがそう告げてくる意図を、理解したくない。
「私を、女性のうちに数えるべきではないかもしれません」
むしろ、数えないでほしい。
願いながら固い声で言ったのだが、それ以外の目的がある方が不気味かもしれないと、自ら突っ込んだ。