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睡蓮の糸  作者: 日室千種
4/13

4 火の国 王城(1)

 リファラジークと共にいれば、雨に濡れることはなかった。

 激しい雨も、すべて肌にたどり着く前に蒸発していく。

 白い靄をまとった一団は小屋の裏手に回り、草もない踏み固められた土の上で立ち止まった。強い雨が土をえぐり、茶色く泡立っていた水溜まりも、踏み込まれればしゅるしゅると干上がってしまった。

 これほど常に火の業を使い続ける力は、伝説で語られる神人に匹敵するのではないか。神が人の姿をとった種族とされた神人は、古の歴史から徐々に姿を消した。それは人と交わったためだという説があり、例えば火の業を使うジークファランド王家は神人の力を強く受け継いでいるとお伽噺のように語られる。

 それがもし事実だとしたら、この王太子は先祖返りなのだろう。

 至近距離にある男の顔を盗み見ても、業を使っているような素振りはない。だが外套の下、素肌を取り巻く空気は絶えず揺らめいている。水を含んだ重たい風と、熱を与えられて水気を飛ばされた軽い風が渦巻いているのだ。

 外套は上質の羊毛で、暖かさに見合わず、とても軽い。不意の風で合わせ目がはためくので、ターナハースの体は見え隠れしているはずだった。心得て視線を反らす男たちの態度が、それを物語っている。

(なんて、王太子……!)

 すべての元凶に抱えられたまま、為すすべもないことに目眩がした。

 このまま連れ去られていいはずがない。

 ジークファランド国も、その王太子も、何故か共にいる青年も、悪夢の根っこのようなものだ。十年かけて深く埋めてきた記憶を、わざわざ掘り起こしたいと誰が思うものか。

 だが、望まぬ再会を果たしたセイランが、今どんな暮らしをしているのか、これまでどう生きてきたのか、ターナハースは気になってしまっている。会いたくなかったけれど、会ってしまったからには、知らぬ振りで忘れることはできそうになかった。

 それが、すでに悪夢に捕まっているしるしだとしても。

 リファラジークに気づかれないように、ちらりとセイランを見やった。

 水の民の青年は、土の上に立ち止まった一団から少し離れ、ひとり、火の業の恩恵から外れていた。

 しかし、濡れてはいない。

 雨はセイランの体に触れると、宝石のように丸い粒になり、ころころぽろぽろと地面に転がり、そこで土に染み込んでいく。セイラン自身は雨に注意も払わず、自然に立って、両の親指と人差し指同士を合わせ、手で円を描いていた。

 水は循環し、円に通じる。ゆえに業を高めるには自らの体で円を成せ。教書には、確かにそうあった。

(水の、業)

 驚いた。そんなことができるようになっているとは、思いもよらなかった。

「セイランはかなり使う。ウィハーシュ王家には及ばないらしいが」

 こっそりと窺っていたことも忘れ、凝視していたターナハースの耳元で、低く男が囁いた。

 びくり、と体が縮んだが、初心な娘の反応ととったか軽く流され、ターナハースはほっとした。

 そのまま俯いて、表情を隠しつつ、浮かんだ疑問に眉をひそめた。

 これだけ火の業、水の業に長けた者がいながら、なぜあの小屋に彼らはいたのか。

 連想されたのは、誰もに忘れられた土地で見つけた、ジークファランド王家の紋章入りカフス。あの持ち主が、この王太子ではないと想定する方が、難しいだろう。だが、何故、あそこに。そして、ここに。

 思考は、清廉な水の気配に中断された。

 セイランの正面に、水の壁が立ち上がっていた。楕円の形を持ち、湖を真上から覗いたように波が立っている。

 目を眇めれば、波間に透けて、流麗な紋様が浮かんでは消え、回っては書き変わっているのが見えた。やがて紋様が定着し、水と同じ色になって不可視になるにつれ、水の壁は薄くなり表面は凪いできて、ついには水の鏡のようになった。

 鏡と異なるのは、映るのがここではない晴れた空だということ。ウィハーシュでは見ることのできない、飛び抜けて青く高い空だ。

 そう思う間に、一行は順に水の鏡をくぐって、消えていった。

 最後に、水を維持しているセイランと、王太子が残る。抱えられたターナハースも、当然残っていた。

「水陣を焼かないでくださいよ。もう一度繋ぐのは面倒なんです」

 眉を上げて、悪戯げにセイランが言うのに、リファラジークは鼻を鳴らしただけで、さっと水をくぐった。

 くぐる直前、数粒の雨がターナハースの頬にかかった。火の業を、抑えたのだろう。

 だが、触れた水はそれだけで、清涼な水の香りが通り過ぎたと思えば、眼前にはそれまでと全く異なる景色が広がっていた。

(移動の水陣か。立ち上げも早かったし、揺らぎが少ない)

 続いて陣をくぐってきたセイランが、わずかな疲れも見せていないのを見て、ターナハースは素直に感心した。

 先に移動していた男たちは、近くに待機していた。主君の注意が向いていないからか、自分たちの領域に帰ってきたからか、皆の空気が和らいでいた。セイランも、何かを言い合いながら加わり、笑っていた。外見の違いはあれど、浮いている様子はない。

 それは、ターナハースに驚くほどの安堵感を与えた。



 辺りは、静かな林だった。

 木はまばら。下生えも少ない。大半の地面は赤い土が剥き出しで、表面は砂っぽい。林の向こうには高い塀があり、その上に広がるのは、水を透かして見た、あの青空だ。

 その色、空気の味、土の匂い。

 どれもが、ウィハーシュとは明らかに異質だ。

(きっと、ジークファランドの都のどこかに直接移動したのね)

 ターナハースはため息をついた。

 都にたどり着く前に逃れたいと思っていたのに、まさか馬でも二十日以上かかる道のりをすっ飛ばされるとは。

 これで猶予期間は、城に着くまでになった。王城などに連れて行かれでもすれば、姿をくらます機会は無くなるだろう。

 一息ついた一行は、再び歩き出した。林の向こうにちらちらと見えていた、目に眩しい、白亜の建物に近づいていく。

 近づくほど美しい建造物だった。要所に金で装飾が施され、窓には精緻な浮き彫りを施した濃茶の木格子が嵌り、屋根には赤を基調とした色とりどりの陶版が葺かれて空ときわどいほどの対比を成している。

 どうやら、そこがひとまずの目的地らしいと察して、息を詰めた。

 緊張は、すぐさま男に伝わったらしい。ぐっと顎を押し当ててきた。こちらを見よ、と命じられたのがわかる。渋々、顔を上げれば、茶色の目が面白げに見下ろしてきていた。

「ここで待て。私は親父に呼ばれているらしい。すぐ戻る」

 リファラジークが近づくと、重厚な佇まいの扉が内側から開かれ、中で侍女らしき者たちが一斉に腰を折って出迎えた。

「ジークファランド王城、王太子の翼棟だ。歓迎する」

 言い放たれた言葉に、ターナハースは愕然とした。

「王城なのですか、ここは」

「内宮だ。あの城壁の向こうが王の翼棟だ。執政棟はさらにひとつ城壁を越える」

 簡潔すぎる説明を咀嚼すれば、ここは王太子の内宮、すなわち私的な生活空間にあたる建物らしい。垣間見える塀が翼を隔てる城壁であり、その向こうに見える金の屋根の建物がジークファランド国王の内宮、さらに向こうに遠く見える蒼い屋根の建物が執政棟だろうか。

 そんな王城の中心にいきなり移動し、おそらくは王太子内宮の裏口らしきこの扉から意気揚々と帰還、ということか。

(無茶苦茶だわ)

 警備の問題やら、体裁やら、気にしなくてはいけないことがあるのではないか、と他人事ながら渋い気持ちになったが、ここでは日常のことなのだろう。出迎えの人々は、落ち着いたものだった。

 お帰りなさいませ、と一人の年嵩の女が代表して挨拶を済まし、何でもないことのように、そのまま陛下の元へ上がられますか、と尋ねてきた。裾に赤い刺繍の入った巻きスカートに、白絹の肩布を身につけ、きっちりと纏めた髪には赤珊瑚の飾りをつけている。優しげな立ち姿に反して冷静で鋭い目が、ターナハースをしっかりと捕らえていた。

「このままいく。エキドナ、これを頼む」

 これ、というのが、自分のことだと、ターナハースは一拍遅れて悟った。

 流れからして、裸のまま置いていかれるのかと焦ったが、リファラジークが外套を自分の肩から滑り落として巻き付けてきたので、ほっと息をついた。

 下ろされ、久しぶりに自分の足で立てば、男の膝丈の外套が足首まで隠れる長さになった。そこから覗くのは、白い素足。すっかり乾いたが、下ろしたままの黒髪。この場には、あまりに異質な格好だ。

 だがターナハースについて何も説明することなく、リファラジークはさっさと自分の宮に背を向け、土の上を歩き去った。王の内宮か執政棟へ、これまた裏口から行くのかもしれない。エキドナの背後に控えていた侍女三人が、それを追いかけながら身だしなみを整えさせていく。

 そして控えていた男たちも、任務を終え、立ち尽くすターナハースに形ばかりの会釈を残していなくなった。

 セイランだけが残ったものの関心はなさそうで、ターナハースの目の前にはエキドナが、白髪混じりの頭を毅然と上げ、背筋をしゃんと伸ばして立っていた。

「エキドナと申します。……最近は、変わったお召し物が流行していること」

 きりり、と眦を上げて言い放つ様子は、とても怒っているようだった。

 ターナハースが何と答えたものか戸惑っていると、思いがけずセイランが口を挟んだ。

「エキドナ、失礼。先に彼女と短く話すべきことがあるのだが、いいか?」

 王太子付きの高位の女官であろう女が、セイランにお辞儀をして了承の答えを返した。そうなると、この場でターナハースが拒否する権限はない。おそるおそる、後ろを振り向いた。

 黒い瞳は、吸い込まれそうに深い。その瞳を見るのに、すこし上を向かねばならないことが、ターナハースの胸を締め付けた。

「ターナハース殿。あなたが医師として滞在していたエセルナの村は、シファーナ城下の村ですね。ハスランの南」

「えぇ……はい、そうです」

「では、殿下の命令通り私はそこに出向きますが、医師を伴うのは明日以降のことになります。承知してください。……殿下が燃やしてしまわれた服の替わりなど、何か持ち帰った方がいいなら、今言ってほしいのですが」

 やけに丁寧な言葉遣いなのが引っかかったが、構っている余裕はなかった。

「あの、セイラン、様。私を帰してもらうわけには」

「いきません。殿下が決められたことです。従うべきでしょう」

 問いかけを遮るようにして言い渡される。その言葉も、眼差しも、ごく事務的で淡々としたものだった。それでも、ターナハースは言い募った。

「でも、あまりに横暴です。いったい殿下は、何のつもりで私を連れてきたのですか」

「さあ、それは殿下に直接尋ねてください。……ひとつ、言っておくと、気に入られたら逃げるのは禁じ手です。逃げ出すものに、とても、執着なさることがあるので」

 殺されるかもしれません。

 平坦な声と表情でそう言われ、半信半疑で黙り込んだ。そも、気に入られているのかもよくわからないのだ。

 だが、これ以上言っても、帰してはもらえない。それだけは、よくわかった。

「……私は薬師の真似事をしながら、一人で旅をしてまわっている身です。そもそもそんな大切なものを持っているわけでもありませんので、お願いするものはありません。ただ、ゼーネの、出産する娘の状態を見てきてくださいませんか。お願いします」

「わかりました。戻ったら報告をしましょう。では、失礼」

 ターナハースに、そしてエキドナに会釈をし、去っていく。その背を見送り、重い息をついたターナハースに、表情を改めたエキドナが、深く腰を折った。

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