3 花の痣
握り合わせた外套の隙間から、どんどん体が冷えていく。
緊張とは別に、ターナハースの唇は細かく震え始めていた。
「やましくなければ怯える必要などない。名乗れ」
閉じた目をこじ開けようという気迫の声に、やむなく応じるしかなかった。
男の一人がターナハースと扉の間に剣の鞘を差し込み、退路を塞いでいる。外套の下は素裸の状態で、剣を扱うことに慣れた男をかいくぐって逃げ出す自信はなかった。
渋々、視線を上げれば、端正な青年が睨みつけてきていた。
十分に恐ろしい眼差し。
だが、幼い頃の拗ねて怒った顔が記憶から飛び出してきて、あまり変わっていないな、と頭の片隅で考えた。緊張が過ぎたせいで、思考が一瞬逃避したのかもしれない。
その逃避のおかげで、唇の端をわずかに上げ、ぎこちないながらも笑いを浮かべ、なんとか声を出すことができた。
「タ、ターナハース。エセルナの村から、の旅行者です」
「……旅行者が、なぜこんな外れに来るのだ」
「昔、この都に住んで、ました。旅行でよく来て、あちこち歩いて、るんです。きょ、今日は道にまよっ、て……」
寒さに歯の根も合わなくなって、うまく言葉が出ない。
つっかえつっかえ、ゆっくりとしゃべる間、男たちの視線に晒されるむき出しの素足がひどく気になった。
「あ、あの、ごめ、さい。出ます。私、帰ります」
弱々しく震えながら言ったから、とても怯えた様子に見えたのだろう。青年の顔から怒気が薄らいだ。
「悪いが、そうしてくれ。ここは、満員だ」
明らかに寒さに震えている女に対して無情な言葉ではあったが、この異様な状態の小屋から出られるなら、有り難いことだった。
雨は激しく小屋を叩き、不安を煽る。男ばかりの中で、この格好でいつまでもいるものではない。
「は、い。すみません。し、つれいします」
そそくさと、という印象を与えないよう、慎重に踵を返す。扉の前の男は、やや気の毒そうな、人の良い顔をのぞかせて道を譲ってくれた。
なのに。
「哀れではないか、セイラン。震えてる女を追い出すこともない」
哀れ、の意味を知っているのかと疑うほど、冷えた声だった。そして、追い出すことはない、すなわち、出すな、という指示を明確につきつける声だった。
扉は瞬時に再び抑えられた。思わず見上げた顔からは、表情は一切消えていた。
(まずい、かも?)
セイランと呼ばれた青年と対峙した時より冷たい汗が、こめかみに浮いた。
「我はジークファランド国王太子、リファラジーク。娘、ここに来て、暖をとれ」
固まっていたターナハースは、背後から斬りつけられたように振り返った。
狭い小屋の中。
炉の向こう、一番遠いところから、男がこちらを見ていた。
浅黒い肌に引き締まった顔立ち。セイランにまだ稚気が残って線が細いのに比べ、男は勁く、大きい。
齢二十七にして、ジークファランド国の実を伴った大将軍であり、有能な政治家でもある。民からの愛されぶりは熱烈で、王太子らしからず未だ独り身で気侭に浮き名を流していることなど、茶目っ気としか捉えられない。
近年は旧ウィハーシュの民にですら、王太子は人気があった。他の貴族と違い、王太子は旧ウィハーシュの民を差別しない、と。
しかし今、男の目はひどく冷たかった。
憎まれている、と錯覚しそうなほどだった。
(旧ウィハーシュの民をも、平等に愛してくださる世継ぎの君? 冗談!)
先に王太子と名乗ったのは、名乗ってしまえば逆らうことができないのを、十分承知の上だろう。身分をひけらかせて人を動かすやり方は、貴族にとっては全くタブーではない。それは時には、不要な軋轢を避けるための、マナーとなることすらある。
だが、王太子ともあろう者が、無力な一人の娘に対してすることではないだろう、とターナハースは表情を曇らせた。
(これが、次の王)
胸に押し寄せたものがあまりに多く、しばらく突っ立ってしまった。
「行った方がいい」
小さな声で囁いて背を押してきたのは、扉を封じた男だった。
我に返れば、炉の右手の男たちは小屋の壁に張り付くように後退し、大きな体を縮めて、王太子の元までの道を空けていた。視線は向けてこないが、誰もがターナハースの動きに注意を払っている。何十もの蜘蛛の巣に絡めとられた蝶のように、諦めることしか許されないようだ。
口を引き結び、外套を合わせる手を強く握りしめると、そろそろと王太子へ近づいた。
滴る水が床を濡らし、乾いた板間に小さな染みがいくつもついた。古い床が、一歩ごとに軋む。炉のそばに来て、木の焼ける匂いを嗅ぎ、左の素足がじんわり暖かくなった。
こんな状況に関わらず、温もりにほっとした。
暖まるのはここでもいいのでは、と思ったのがわかったのか、ターナハースの歩みが止まる前に、リファラジークが手を差し伸べてきた。
まるで貴婦人の手を押し頂くように。実際は、最後の圧力だった。
躊躇った末に、王太子にもう一歩近づき、外套から手首だけを出して指先だけを触れ合わせた。
どんなに気をつけても、合わせが緩むので肌が見えてしまうはずだった。リファラジークの反対隣に座っているセイランが気になった。しかし、セイランも他の男たちも、大人しく座してこちらには視線を向けてこない。
有り難いようではあったが、彼らは主の所業を咎めるつもりはないらしいので、助けにもなり得なかった。
「雨の日は、服を着ないのか」
指が触れた瞬間手を取られ、隣に座らされるなり、そう問われた。
あまりに無神経な言いざまに血が上り、冷えきっていた頬がぴりぴりした。
「井戸を、見つけたので、泥だらけの服を、洗ってしまったのです」
正直に答えると、不意に腕を引かれて男の膝に倒れ込んだ。
ずぶ濡れの自分を抱き寄せるなど、予想もできず、呆気にとられてしまう。
その隙に、無遠慮に外套の内側に入ってきた手が、さっと柔らかなところを撫でた。
ふうっと、王太子の服に薫き染めた香が匂った。日向の空気の匂いも一緒に、さっと顔をかすめて立ち上っていった。
一瞬遅れて、自分の身に起こったことに気がついた。
冷たく肌に触れていた外套が、暖かく頼もしく体を包んでいた。額から首筋に絡み付いて不快だった髪も、はらはらと頬をくすぐっていた。荷袋も水の重みを失い、晴れた日に干したように軽く、柔らかくなっていた。
さらに触れられたところから、じんわりと体の芯が温もっていく。
(これは、まさか)
ターナハースは、呆然と王太子を見上げた。
王太子は、変わらず冷たい目を合わせてきたが、ふと片頬を上げた。
「火の業を見るのは初めてか。……不思議な目の色。生粋のウィハーシュの民ではないな」
ジークファランドの王家は、代々火を操ることに長けている。かつては王一人の業で戦を勝利に導いたほどに、激しい能力と聞く。
だが、それをこんなところで用いるとは。
呆れ混じりの驚きを浮かべるターナハースの目は、淡くきらめく湖の色をしている。それが、リファラジークの赤みの強い茶色の瞳と至近距離でぶつかった。
変わらず、冷えた目。だが男の腕は腰にまわされたままだ。
そんな状況ではないにも関わらず、ふと、はだけた前合わせから肌が見えそうな角度にセイランが座っていることに思い至ったが、興味なさそうに小枝を折っているのを視界の隅で認めて、ほっとした。
「セイランを気にしているのか」
視線は、動かさなかったはずだ。なのに面白そうに言われて、ぎくりと体が強張った。腕を突っ張って体を離そうとしたが、易々と捕らえられて抱え込まれた。
セイランは、一度もこちらを見ない。
男の手が、無遠慮に胸を掴んだ。
それでもターナハースは、悲鳴をかみ殺し、じっと茶色の瞳を見つめた。
見返してくる男の目には、わずかにも熱はなく、決して女の肌を性急に求める様子には見えない。だから、これは気紛れな、一時の悪戯でしかないのだろう。そう判断したターナハースは、ただ耐えてやり過ごすのが一番上策だとふんだのだ。
いたぶるように動く手指にも、口を引き結んだまま、固まった体を動かさなかった。その様子に、茶色い瞳が細められる。手は、突然に肌から離れた。
ふ、と思わず小さな息が抜けた。小屋中で同時に緊張が緩んだように感じたのは、ターナハースの気のせいだったかどうか。
自分で体勢を整える前に、両の二の腕を掴まれ起こされた。
赤茶の視線が外され、そのまま放された。の、だが。
「……花、か?」
小さな呟きを聞いたときには、遅かった。
リファラジークの視線は、安堵に気が緩んだターナハースが隠し損ねた白い胸にひたりと向けられていた。正確には、火の業に当てられほんのりと上気した二つの膨らみの、間。
気がついたターナハースが男の目から逃れようとしたが、すでに肩を押さえ込まれ、指先すら動かせなくなっていた。
大理石のような肌に、明瞭な輪郭線をもった朱色の痣が浮き出ていた。外套に隠れた脇腹の辺りからすっと伸びる線は、古い傷のようにも見える。だがその先端、ちょうど心臓の位置に、長端の尖った楕円形の痣がいくつか寄り合っているのが、まるで水面からすっくと立ち咲く睡蓮の花のようだった。
一見すると入れ墨のようだったが、初めにちらりと見えた肌には影すらなかった。そのことが、男の気を引いたらしかった。
ターナハースは、自分の迂闊さに目眩がした。
迂闊すぎた。
花が見えるほど肌を見せてしまったこと。まして、浮き出る前後を目撃されるなんて。
花が浮き出たのに即座に気づけなかったこと。いや、まさかこの緊張した状況で出るとはまったく予想できなかったけれど。
何が悪かったのだろう、と今考えても仕方ないことを考えかけて、自分が混乱していることに気がついた。
「やめてください。もう許して……」
懇願し、拒絶するが、男は胸の花から意識を離せないようだった。
花は、ターナハースの怯えに応じるように、するすると輪郭を失い、白い肌の奥へと消えていこうとする。それに引き寄せられるように、男はそっと花に口づけた。
「いやっ」
押さえ込まれ、はだけられた体に直接男の唇を感じて、ついに悲鳴が洩れた。
何より恐ろしかったのは、男の目が突然変わったことだ。胸の花に魅入られたのか、冷えきっていた眼差しが、強い興味と明らかな欲望に、熱く潤んだように見えた。それが、たまらなく恐ろしかった。ぞっと、体が冷えた。
為すすべもなく消えてしまった花に、リファラジークは舌打ちをすると、その舌で肌を舐め上げた。
声にならない叫びがターナハースの喉からひゅっと洩れた。
恐怖に冷えきったはずの体が、揺り起こされそうだった。舐められたところが、焼けそうに熱い。
このままでは、逃げられなくなる。
「殿下、それまで」
厳しい声で制止してきたのは、炉を囲んでいた男の一人だ。
今や、見ぬ振りをしていた男たちも、全員が主君の悪戯に眉をしかめていた。セイランも、いくらか苦い顔でこちらを向いていた。
ターナハースは思わず目をつぶった。
「らしくないですよ、殿下。無理強いはご趣味ではないでしょう」
わざとらしいくだけた物言いで諌められ、胸の間に顔を埋めたまま、リファラジークがふう、と息をつくのを感じた。だが気配が離れ、外套の合わせをいささか乱暴に閉じられても、頭ががんがんと鳴るようで目が開けられず、強張ったままだった。
助けてくれた男には感謝はするが腹も立った。悲鳴を上げて抗ったから無理強いで、逆らうこともできず諦めるなら無体を強いてもいいと思っているのだろうか。
ばかげてる。これだから男は、とひとしきり文句を並べたら、ようやく余分な力が抜けてきた。
男の手は、まだターナハースを捕らえたままだった。
もう少し抗って解放されるだろうか。そっと目を開けると、再び温度を失った男の目が、視線を絡めとってにっと笑った。
「ターナハースといったな。このまま、ジークファランドの都まで連れて行く」
「何を……」
思わず周囲を見るが、そこには異様な沈黙があるのみで、誰もまともに反応していなかった。
彼らも自分に劣らず驚いていることに、ターナハースはわずかに期待した。抗えば、支持してはくれまいか、と。
「い、いやです。困ります。村には出産を控えて私を待っている者もいます」
「エセルナといったな。事情を話せ」
「私は医術をかじっているということで医師を兼ねた薬師として村に嘱されています。産み月近い初産の娘がいますが、胎児が……危険な状態で産まれてくる可能性が高いのです」
「セイラン」
リファラジークは話に動じることなく、傍らではっきりと厳しい顔をしている青年を呼んだ。
「エセルナの村に腕の確かな女医師を三人送れ。望まれれば一人を常駐させろ。……ターナハース。村から回収するものはあるか」
「……は?」
呆然と呟いたきり返答できない様子に、リファラジークはそう長くは待たなかった。
「まあいい。何でも新しく与える。身一つでついて来い」
セイランは、呆れ果てた表情は隠しもせず、ただ黙って了承の礼をとった。他の男たちも似たり寄ったりで。ターナハースごと立ち上がった主君に、もの言いたげな視線を投げつつも、皆が一斉に従った。
炉の火がすうっと消え去り、それを気にすることもなく男たちがどかどかと小屋を出て行く。
リファラジークはようやくターナハースを手放し、異論があるとは少しも思っていない様子で出口へ向かった。その背中を見て、ようやく事の次第に頭が追いついた。
「リファラジーク殿下。困ります。これでは、あんまりです」
小屋の中から男たちがいなくなって、精神的な圧迫感が薄れた。ゆえに、ターナハースはなんとか食い下がりたくなった。
リファラジークは面白そうな目で顔だけ振り向き、強張った白い頬に無造作に触れてきた。
「ジークと呼べ。殿下はいらん。……帰りたいか、エセルナに。男が待っているのか」
「そんな。故郷ではありませんが、責任があります。帰らなければ」
言い募ると、ぶわっと熱い風が顔を撫でて髪を舞い上がらせた。覚えのある、日向の匂い。
「すべて無くしては帰れまい。逃げるほど、追いつめたくなる。程々が身のためだ」
冷たい笑み。
はっと見下ろせば、手にしていたはずの荷が、無くなっていた。中にいれてあったベルトも靴も貨幣すら、すべて跡形もなく燃やされたのだと悟る。炭も、灰すらもない。
さらに自分が何も身に纏っていないことに愕然となった。着ていた外套まで、肌には傷を付けること無く一瞬で燃やされたのだ。
荷を失って空いた手で慌てて体を隠そうとしたターナハースは、リファラジークの外套の下に抱き込まれた。軽々と横抱きにされ、体を隠された。
「今は、どこにも花はないな。何をすれば見える?」
ターナハースの全身を見たのだろう。不躾な言い様も相まって羞恥がかき立てられたが、ターナハースは懸命に気持ちを抑えた。
問いには口を引き結んだが、リファラジークは答えがないことにも愉快げだった。
「いずれ、わかる。探る方が面白そうだ」
体を支える手が、熱い。
ターナハースは目前が暗くなるのを感じた。