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睡蓮の糸  作者: 日室千種
2/13

2 過去の夢

 ハスランの屋敷が燃えていた。

 激しい雨も、すべて蒸発させる勢いで。

 お気に入りだった黒檀の椅子、庭の椿も眩しい炎の中だった。

(助けて。助けて)

 叫び声に応える者はいないのか、と見回すと、いつの間にか周囲は人で埋まっていた。

 黒い髪、黒い目。神事に臨むような、白い服、服、服……。その面は、どれも一様に暗く、怨みに満ちていた。

(助けて。父上を、ウクリナを。私の、小さな弟を)


『火は、忌むべきもの』

 ひとりが言った。そしてまたひとりが言う。

『水の国ウィハーシュにては、汚れたるもの』

 さらにひとりが言う。

『水の都ハスランに、不要のもの』

 あるいはこれは、白い怨みの民すべての声か。

『お前は、不浄の者』


 冷たい針で、胸の深いところをひと突きにされた気がした。

 見れば、いつの間にか自分は清い白布を纏い、手には懐剣を握っている。


『神の愛し子よ』

『裁きを』


(いや……いやっ。ちちうえぇ)

 ガラガラと、炎の向こうで屋敷は砂のように崩れ落ちた。中に、三人の家族を抱えたまま。

 ——いや、音を立てたものは、足元にあった。

 三体の、骸。長い時に晒されたかのように、まっさらに白い、抜け殻たち。

 二つは大人の、一つは子供の。

 へたり、と座り込んで、小さなそれを取った。まろやかな形の頭蓋骨。向き合うように捧げ持って、まじまじと見つめずにはいられなかった。

 その幼い額の中央に、小さな縦長の線があった。線、いや、穴だ。

 懐剣が、骨まで穿った、その跡だ。

 はっとした瞬間に、手の中の重さが変化した。

 空虚な骨の重さから、血肉を備えた生首の重さに。

 きれいな顔の少年だった。優しく伏せられたまぶたに、ふっくらとした頬。ほんのりと色づく小さな唇は、まるで生きているようなのに。

 なのに、なぜ。


 なぜ、額に無骨な懐剣が突き立っているのか。

 なぜ、首の切り口から血が流れるのか。


 姉さん。


 声が聞こえて、我に返る。

 いつの間にか、首は消えていた。何もかもが、闇と化していた。

 寒さ。

 それはかつての雨の湖のように、骨から体を冷やしてくる。

(嫌)

 叫びは、虚しい。

(嫌。嫌だ)

 ターナハースは、身を捩って絶叫した。




 ぽっかりと目が覚めた。

 見慣れない古びた天井。涙と汗で濡れたベッド。

 これこそ、普段通りの朝だった。

 心が凍えるような悪夢とも、これで十年の付き合いだ。随分前に、悲鳴を上げずに目覚めることができるようになった。涙や汗の量も、かつてとは比べ物にならないくらい少なくなった。

 ウィハーシュを離れている間はさらに楽になるのだが、一年に一度、雨季の只中にウィハーシュの旧王都ハスランを訪れるのは習性のようになっていた。

 体の火照りが取れるのを待ち、薄暗い部屋のカーテンを少し持ち上げると、外はやはり雨だった。

 雨季には、ハスランは雨に降り固められる。昔はこれを歓水の月と呼び、祭りを行っていたが、祭司であった水の王家が潰えてからはただの気鬱な雨でしかない。

 火の王国とも呼ばれる隣国ジークファランドの属領となり十年。町並みとともに、人々の心も移ろいつつある。

(ここはすでに故郷ではないのかも)

 ハスランを訪れても、知己を訪れることもなく、宿場に籠って雨を眺め、外出は常に雨に紛れるようにひっそりと。何のためにここにいるのかといつも自問し、毎回、答えを濃い霧の向こうに置いたまま、再びここに背を向けてきた。

 今回も、そうなりそうだった。

(もう、今日帰ろう)

 帰る先が別にあることも、自然になった。もっともそれも、長くて半年の住処ではあるが。先年の冬の初めから住み着いた村では、出産を控えた女が待っている。今回はあまりゆっくりしていられない。

 ターナハースはすっかり冷えた素肌に旅の衣を纏って、宿を引き払った。



 ハスランの観光と言えば、旧王城や縦横に水路が走る古い街並みだ。少し足を伸ばせば、神の湖と呼ばれる景勝の地もある。

 だがターナハースが目指したのは、街の外れの、草木が生い茂った寂しい土地だった。

 十年前は、打捨てられた場所だった。水の国の民ならば、誰もが顔を顰め、鼻を鳴らして蔑んだ、汚れた土地だった。

 時が経ち、見通しの良かった広い敷地一帯と隔てなく、周辺の道路にも荒れ地と同じ草が丈高く伸び、根を張った灌木が石畳を崩し、地形を変えた。かつての忌むべき土地が、正確にどこから始まるのか、わかる者はいないかもしれない。人々は日々の暮らしに追われて、失われた一家への憎しみを鮮やかに持ち続けることには早々に飽きたらしい。今はただ、敷地の奥の深い森からひとまとめにして、近寄るべきでないところとして、見捨てられているだけだ。

 どちらが辛いことなのかと、ターナハースはふと思うことがある。答えは、あるはずもないが。

 街中を通って直接土地に入るのは、やはりためらわれた。一度街から出るようにして、ぐるりと横手に回り込み、おぼろげな感覚を頼りに木々の間に踏み込んだ。

 前回より苦労して、ほかより木の低い、開けた場所に出た。

 一年経つと、森の景色はひどく変わってしまう。以前はなかったと思われる、丸くて先の尖った手のひらサイズの葉をつけた若い木が、開けた場所を席巻しつつあった。その根元にわずかに見える石床の名残から、ここが目的の場所に近いと、なんとか知ることができた。

 目を上げて、より背の高い木を探して見回し、いくつかの候補に近寄って調べると、三本目で、幹に刻まれた印を見つけることができた。その幹に背を沿わせ、手の中の磁石で方位を確認しつつ北へ数歩。

 群青のタイルが敷かれた一角の手前で、ターナハースは立ち尽くした。

 タイルはすっかりすり減って、色味を失っている。それが群青色だとわかるのは、記憶の中の色をのせているからかもしれない。

 防水の外套のフードをのけて、膝をついたら、すぐにあちこちから水が染み入ってきた。外套も、裏から濡れてしまえば、防水の効果はなくなってくる。

 だが、ターナハースは構わなかった。

 用意してきた水を、タイルに流す。すでに雨を湛えていた凹んだ表面で、水が跳ねた。

「ごめんなさい」

 いつも、謝ってしまう。

 もう心の中はからからに乾いていて、日中は思い出すことも稀なのに、夢ではいつも泣いている。

 何かを、赦しを、求めているのだろうか。

 だとしたら、与えられることのないことは、わかっている。

 だけど、求めずにはいられないのかもしれない。

 これは自己満足だと、膝をついて詫びることで一時自分の心を慰めているだけだと、冷静な声がする。

「もう、来るのをやめた方がいいかな」

 もう、もう、と、この数年、同じことを言っている気がするけれど。


 飽きもせず落ちてくる天の水が顔に滴るのを袖で拭い、ふと、視界の端に赤く光るものを見た。

 小指の爪ほどの紅玉をあしらったカフスだった。草の上で、雨を弾いてきらめいていた。

 拾い上げると、下敷きになっていた草が息をつくように立ち上がった。

 ごく最近、おそらく今日のうちの落とし物らしい。

 しかし、これは並大抵の品ではない。

 紅玉の色の深みと透明度は、ハスランで一番の宝石店に行っても滅多に見られないだろう。嵌め込みの奥には、火炎の獅子の紋章が入っている。それがジークファランド国の王家の紋だということは、この大陸の者なら誰でも知っていることだ。

 そんなものが、なぜこの場所に。

 瞬間胸をよぎった感情に、ターナハースは驚いた。

 ジークファランド王家ゆかりの人間が、この場所を訪れた。

 推測されるその事実が、自分の心をわずかにでも浮き立たせるとは、予想できなかったのだ。

 この場所がこんな土地になった根本の原因はジークファランド国にある。失われた一家にとって、最も憎い相手のはずだ。だから、かつては激しく憎んでいた。

 昔のターナハースであったなら、なにを今さらのこのこと、復讐をされにでも来たのかと、我を忘れて探し歩いていたかもしれない。

 なのに、かすかに喜びのような感情の細波が消えた後、ターナハースの心は不思議なほど凪いでいた。

(……私以外に、唯一、この場所を見にきた人かも)

 感傷に過ぎないとわかっている。何のために来たのかは気になるが、持ち主に会おうとまでは思わない。

 水の国の皆がこの場所を忘れようとしているように、自分も憎しみを忘れようとしているのだろうと、ぼんやり思った。

 そう認識して、ターナハースはひどく安堵した。

 憎むのはとても疲れる。

 もし出会えば、せっかく古びた憎しみが、再燃しないとも限らない。

 もう、関わりたくない。

 ただ。

(いい国に、なってくれればいいと思う)

 ターナハースはカフスを草の床にそっと戻した。

「うん。本当に最後にしよう」

 静かに立ち上がって、ひとり呟き、最後の最後に、ずっと気になりながら行くことのできなかった場所を訪れて永遠の見納めにしようと、きびすを返した。

 意外な遭遇を、予想だにせず。

 

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