11 火の国王城(8)
講義が終わりタルスが辞去すると、飲み頃に冷えた花水が供され、書類の山は窓際の文机に移動された。筆記具も片付けられ、代わりにエスターが三着のドレスを持ってきて、部屋の様相は一変した。
ふと気がついて見回せば、単なる応接室や客室ではなさそうだった。
布を使うところは青を、木を使ったところは深い茶色を基調とし、石はすべて細かな瑠璃が散りばめられた乳石のようだ。家具は柔らかな曲線を描くものが多く、さりげなく要所にあしらったレースや小振りの貴石には、居住者を女性に絞ったような印象を受ける。
「お好みのドレスの型がおありですか?」
エスターの問いかけに素直にドレスを見比べたが、結局首を振った。
「ドレスを着たことはないので、特に好みは……」
「さようでございますか。では、これなど、締め付けも少なく慣れなくてもお楽かと思います。お色を合わせてよろしいでしょうか?」
色を合わせる?と首を捻ったが、運ばれてきた姿見の前でドレスを首下に当てられて、ああ、髪や肌の色と相性を見ているのか、と得心した。
「失礼いたします」
ほっそりとした手で、頭の右側に固くまとめて編み込んでいた髪が解かれた。
「ドレスに合わせて、結い上げてもよろしいですか?」
この問い掛けには、困った表情になってしまった。できれば、首をまるっきり晒したくはないのだ。
優秀な侍女は、その声にならない言葉をすぐに察してくれた。
「かしこまりました。緩めに結い上げて、一部はこちらに垂らしておきましょう」
ドレスに着替えさせ、髪を整えて、薄い化粧を施すと、エスターは真剣な顔を改め、人好きのする笑顔で完成品を褒め上げた。
「やはり東の方は肌のお色が白くて、濃色が際立ちます。羨ましいですわ」
姿見に映る自分の姿に、ターナハースは珍しげに見入ったが、エスターの言葉は半分以下に割り引いた。
旅の日焼けは明らかだし、気慣れない服に自信がなさそうで、似合っていない。頬に薄く朱をのせてくれているのが、暗い表情を隠していて、そこはさすがと感心した。
「殿下がいらっしゃるまで、こちらで食前酒をお楽しみくださいませ」
さりげなく慣習を教えられ、控えの間らしき部屋に導かれた。
一人掛けのソファがいくつか置いてある小ぶりの部屋だ。エスターがかいがいしく渡してくれた酒は、多少甘味があるものの強い。ジークファラントの酒には、火の精が入っていると、よく言われる。
勧められて、格子窓の外が見えるソファに腰を下ろした。
いつしか、日が暮れようとしている。紺色に染まった空の一角が強い赤に染まっていて、美しい。
だが、見慣れた淡い夕暮れとはあまりに違った。
(何故、こんなところにいるのだろう)
ずっと燻っていた焦りが、鋭く胸を刺した時、さっと入り口の垂れ幕が動いた。
何気なく入ってきた青年は、ターナハースに目を留めて、ぎくり、と、ターナハースの方が息を止めるほどに身を強張らせた。
「セ……イランさま」
つられてぎこちなくなりながらも、立ち上がって迎えると、セイランは一度の瞬きで表情を戻した。
「ターナハース殿。これは、見違えたな」
「村は、いかがでしたか」
社交辞令に応じる気も起こらず、つい不躾に尋ねると、黒い瞳が笑みの形に細められた。
だが、形だけだ。セイランは笑ってはいない。
それはわかったが、拘泥する気にもならなかった。
「これは失礼。先に話すべきだったのに、気がまわりませず、申し訳ありません」
冷たい声音で、それでも口調だけは丁寧に、セイランは謝罪した。
「ゼーネという出産を控えた娘に会いましたよ。体調に変わったことはないということでした。正直に言えば、ほかの女医が貴方に代わることには拒否感があるようでしたが、これは諦めてもらうしかない。明日、女医と直接話をしてもらう予定です」
眉根を寄せるターナハースから顔を背け、淡々と語ったセイランが、ふと鼻の頭にしわを寄せた。
「説得するような時間も機会もありませんでした。……貴方の名前を出してようやく、ゼーネと村長の家で会うことができた。それ以外の住民は皆、家の中に隠れてしまって。話が進まず、時間ばかり食いました」
思わず、大きな息をついてしまった。
セイランが片眉を跳ね上げて顔を見てきたが、今度はターナハースが顔を背けた。
村は、セイランを信用しなかったのだ。やはり、と思う。そしてそれでも、村の事情を自分の口から言ってしまうわけにはいかないのだ。
「せめて、せめてお産の時だけでも戻れないでしょうか。……必ず、またここに来ると約束をしても?」
ぽつりと呟くように問い掛けると、セイランの眉が戻り、表情が消えた。
「何を、そんなに拘るんです? 出産だ。病気じゃない。初産の娘の不安を払拭するために、村を消炭にしてしまうのは本末転倒でしょう? まして、まだ出産の気配もないようだ」
「それが、問題なのです」
ターナハースは勢いよくセイランを振り向き、驚いた青年の腕を掴むと、高い位置にある目を覗き込んだ。
「正常な出産であれば、自然の営みです。確かに病気ではない。けれど、正常でない出産だってある。その場合は、命に関わります。そして、あの村は何故か、異常な出産が起こりやすい。その症状のひとつは、陣痛の弱さです。……ゼーネは産み月です。もちろん、個人差はあるでしょうが、前触れとなる陣痛もどきを感じてもいい時期です。これまでも、胎動が少ないのが気になっていました。今もまだそんな状況に変化がないのであれば」
そこまでまくし立てて、青年の戸惑いにやっと気がついた。未婚らしきセイランに、出産や妊婦に関する知識があるはずはない。
ターナハースは、一度、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「……ゼーネを放ってきた、私の責任です。なんとしても、出産までに私は村に戻ります」
「ターナ、」
「セイランさまにも村にも、誰にも迷惑をおかけしないようにします」
渋い顔で名を呼んで諌めてくるのを、遮って言い切った。
ターナハースは、覚悟をきめた。
帰ると、決めた。
だからその是非についてはもう、議論の対象ではない。
「でも、少し時間がかかるでしょう。その間にゼーネや村を恐慌に陥らせたくはない。……医師の派遣は不要です。おそらく村は、受け入れないでしょう。でもその代わりに、私の意志をお伝えくださいませんか。必ず戻ると言っている、と。王太子殿下の使者としてではなく、たとえば、私の友人か……身内だと名乗って……」
「何をもめてる?」
突然入室してきたリファラジークに、慌てて身を離したのはセイランの方だった。
「特に何も。彼女のいた村の報告をしたところ、いろいろと医療上の注意事項を伝言されていたんですが、理解が追いついてませんでした。……明日までに簡単に箇条書きにしていただけますか?」
平静な声だ。冷たく聞こえる。
最後の依頼になんとか首肯して応じたが、王太子は会話にはさして興味も示さず、ターナハースの全身を赤茶の視線で一瞥すると、無言で隣の食事の間へと移動した。