10 火の国王城(7)
ずしり、と重たい手が肩にかけられたようで、体が傾いだ。
「屋内ではエスターが、屋外では私が常におそばにお控えすることをお許しください。エルドリックは貴方の公私にわたって事務的なお世話をいたします。今後は毎日朝食の際に、当日のご予定をエルドリックにご確認下さい。タルスは本来の業務の合間を縫って講義と補佐をする立場なので、常におそばにいるわけではありませんが、王宮内では何があろうと貴方の味方となる四人です」
ターナハースは返答できない。決定事項を伝えられている。それに対する反論は受け入れられないだろう。
だが、かといって、頷けるはずがない。
顔色をなくしたターナハースに、ウィートハルトはこだわらなかった。
「では、ここからはエルドリックから」
あっさりと主導権を同僚に引き渡すと、あくまで自然に、ターナハースの右後方に控えた。示し合わせたように、エスターが左後方に移動し、そっとソファを示した。
ウィートハルトとともに部屋に入り、間を置かずに三人の紹介となったので、ターナハースは立ち尽くしたままだったのだ。
「どうぞ、おかけになってください。お疲れでしょう」
もはやそこで抵抗することに何の意義も見いだせず、息を詰めたまま、固い姿勢で座った。そうしてみると、どことなく視界が遠くなり、劇の上映を見ているような、すべて他人事のような気になってきた。
現実逃避だ。自分でよくわかっている。
エルドリックは丁寧な一礼をすると、まずは、と口を開いた。
「あなた様の現在のお立場のご説明いたしましょう。本日付けで、ターナハース様は尚書院の三等尚務官の役職に任じられました。その肩書きをもって、王太子殿下の執務補佐見習いとイットハート施療院の院長代理を兼任なさることとなります。まずは院長代理の執務を集中的に学べるよう、執務補佐見習いの業務は一ヶ月間は免じるおつもりと、殿下よりうかがっております。
今後しばらくは、毎日タルス殿の講義と執務、週に三日施療院での現場指示が、基本的なあなた様の業務となります。また、執務上必要な人脈の構築のため、面談や食事会の予定が入ることもございましょう。細かなご予定については、毎朝および随時、ご報告いたします。まず本日は、この後夕食までタルス殿の講義をお受けになってください。夕食は殿下もご一緒なさるご予定です」
なにか、ご質問があれば承ります、とエルドリックは数秒ターナハースを見つめたが、すぐにゆるやかに頷いた。
「何かありましたら、いつでもお声をおかけください」
質問どころではない、自分の現状を把握することすらできていないのは、丸分かりらしかった。
エルドリックとウィートハルトは部屋を辞し、その後ろ姿を苦い思いで見送る間に、エスターがソファで書き物をするために膝に置いて使う小さな携帯用の卓と筆記具を用意してきた。
渡されて、ペンを握り、まるでその気もないのに初めて文字を習わされる幼子のようだと、現実に帰ってこられない頭でぼんやりと思う。
そのとりとめのない思考が、どんっと床を揺らすほどの重量をもって目前の机に積まれた書籍の山に、容赦なく打ち切られた。
「時間は無駄にしてはなりません。始めましょう」
前置きを一切廃した、開始の宣言だった。
「単純な事務処理は前例の真似をすればよろしい。けれど、いちいちの事務処理の目的を意識し、根拠を知ることがなくば、前例にこだわるばかりの能無しとなります」
と、初めに言い放ったタルスは、今朝は何を食べましたか、と尋ねるように、平坦に問い掛けてきた。
「まず、本日施療院を訪れて、何か問題点などに気付きましたか」
まるで、本当の教師のようだった。だから、他国の施設について物申すことを意識せず、ターナハースはただ、目に焼き付いていたものを挙げていった。
「医師や人手が足りていません。入院設備の消耗品も不足していました。……飲み水を確保できていないようでした」
「研修医以外に常駐の医師あるいは職員を雇いたい場合は、人事省へ。備品の要求であれば、運営費から充当するよう王太子殿下の経理担当へ。飲用水については、少しややこしい。これを、まずは取り上げましょう」
打てば響く。
淀みなく、淡々と語る声には芯があり、耳に通る。
施療院の、暗く重たい廊下を思い出していたのが、すっと引き戻された。
「この国には、水が乏しいのです。王城の水は、どう工面しているかご存知か。はるか北の山脈から、緩やかな斜面を利用して水を流し入れているのです。その水路は、500年も前に築かれたもの。修繕しつつ使ってきましたが、王都が発展してきて、もう機能が追いつかなくなっている。山麓水と呼ばれるよい水は限られた量しかなく、手に入れられない人々は質の悪い水しか湧かない井戸を利用する。それは、王城内でも同様なのです」
違和感が、ターナハースを襲った。
あの温かな水の匂いに満ちた部屋は、なんだったのだろう。
だが、国の最高峰の宮殿ゆえの贅沢だとは、何故か思えなかった。それで、素直に教師役に尋ねることにした。
「温泉の湯は、飲めないものなのですか?」
「多少、話が逸れておりますが、まあいいでしょう。王宮内に湧く温泉の湯には、多種の鉱物が多く含まれているため、飲用には適しません。井戸の水は鉱物の含有量は高いが、適切なろ過さえずれば、飲んで胃腸を壊すことはありません」
さて、とタルスが流れを切り替えた。
「施療院での飲用水がまともなものでない理由は、何が考えられますか」
「……その、山麓水の量が限られていること、ですか。でも、すぐに改善するのは難しそうです。……山麓水を融通してもらうのに必要な何かがないから、でしょうか。あとは、もしかして、井戸水の適切なろ過すらできていない……?」
「解決法に優先順位をつけるとしたら、どうしますか」
明快な回答がないことが肯定なのか。
無駄な言葉は決して発すまいとするようなタルスを相手に、ターナハースはぐるぐると思考を回さねばならなかった。
「ろ過装置の設置が、解決が一番早いかと……」
「設備の修理あるいは新規導入は、王太子殿下の経理担当へ申請すべきことになります。参考まで、これが申請書の例です」
書類の山の中腹から、まとまった紙束が引き抜かれた。エスターが機を外さずに受取った。ターナハースが受取ったことになるのだろう。
「ただ、施療院という施設の性格を考慮すると、いかに飲用可能な水とはいえ、井戸水は最適ではありますまい。山麓水を融通してもらうに越したことはありません。施療院が殿下の直営となったことで格が上がり、山麓水使用の優先順位が変わっていると思われるので、申請する意義はあるでしょう。これは、治水局への申請となります。ここに、申請書の例があります。……ただ、是非の判断は局内のこととなりますので、安易な予測はできません」
予測はできない、と言い捨てた語尾がやや激しくて、ターナハースはタルスをまじまじと見つめてしまった。その視線をちらりと一瞥で跳ね返し、タルスは薄い肩をすくめた。
「治水局は旧貴族たちの溜まり場のようなものでして、山麓水の使用権付与の順位付けについて明確な条件を呈示していません。当然、賄賂や裏取引が隠された順位決定過程に影響を及ぼしているでしょう。それに溺れている局の幹部たちは、本来の業務である治水の見直しについても、まるで積極的ではないわけです」
タルスは、治水局あるいは旧貴族に対して、心底からの嫌悪感を抱いているようだった。
それに煽られたのか、それとも「水」が不当に支配されている感覚のせいか、ざわり、と胸の底が不快に波打った。その余波が表に浮き出てくる、、、。
「で、どうしますか」
唐突に振られて、ターナハースは目を瞬いた。
「治水局への申請には、賄賂が付き物と考えるかどうか、です。目的のためなら長い物に巻かれることも必要でしょう」
声は平坦なものに戻っていた。だから、タルスが彼の中で葛藤や矛盾なく、あったとしても消化してしまっていることがよくわかった。
「え、と。それは……賄賂を送りたいといって、送れるものなのですか?」
「私は、貴方を使えるようにせよと命じられました。使える人間とは、目的を達成できる人間と思っております。送りたいと、貴方が考えるなら、送るためのあらゆる手段を飲み込んでいただきます。おわかりか? 貴方の質問は、的を外れています」
それは王太子の意図なのか、タルス個人の信念なのか。ともかくも、この講義の根本の目的を鮮やかに見せつけられて、ターナハースは思わずぐっと歯を噛みしめた。
「賄賂の具体的な手段は、後回しにしてください。他に有効な手だてがあるのなら、限られた時間はそちらに使いたいと思います」
タルスが、静かな眼差しのまま一呼吸の間、ターナハースの顔を見つめてきた。そしてまた、何事もなかったかのように、書類の山とは別に書類ばさみから紙束を引き抜いた。
「……もっとも根本的な解決は、上水道の再整備です。この王都の規模に見合った現代的な上水道建設。それしか、この状況を完全には打破できないでしょう。治水局は、当然前向きではない。だが、王太子殿下は治水局の老いぼれが死に絶えるまで、そのくだらない既得権に配慮したりもなさらない」
「ええ、しそうにない方ですね」
思わず、相づちをうってしまったが、誰も目に見える反応は示さなかったので、内心ほっとした。
「これは、極秘の資料です。治水局に洩れたら、数日のうちに主要責任者らが暗殺されるでしょう。ですが、幸いかどうかはわかりませんが、貴方はこれを見ることのできる立場にある。飲用水の問題の解決に、当座必要な情報ではないでしょう。ですが、事務処理に際しては、あらゆる背景の知識を仕入れるべきだと、冒頭にも申しました。……賄賂は後に回す、と。では、この情報はどうしますか」
まるで、遊戯駒の詰めにかけられたようだ。そう感じて、ターナハースは口を引き結んだ。
長く、ここにいるつもりはないのだ。まだ始まってもいないような上水道整備の情報を、しかも極秘の情報を受取って、いいことがあるはずがない。
重たい口を、ゆるゆると開いた。
「正直、今その情報を得ることの不利益しか、思い浮かびません。施療院の状況を少しでも良くしたいとは思いますが」
王太子殿下にお仕えする気は、ないのです。
その言葉は、これまでの相手の反応を思い出すと、音にすることができなかった。
「情報を」
タルスが、珍しく言葉を切った。
ターナハースはつられて、顔を上げて彼の静かな面を見上げた。
「情報を得るということは、自由を得るということです。無知による無駄と無理から逃れ、先を見通すことができるようになる。当然、貴方の目的を達成するための、力になります。……力にすることができます」
もし、王太子殿下から逃れたいのであれば、それにも力になるかもしれない。
そう囁かれた気がした。
凝然とタルスを見つめる間に、紙束がエスターへと渡された。
エスターはターナハースの顔を確認しながら受取っていたので、そこで少しでも顔を顰めたら、きっと拒否できただろう。
だが結局、講義が終わってタルスの前からエスターの前へと、書類の山がごっそり移動しきっても、山のかたわらに置かれた極秘資料はタルスの手元へ戻ることはなかった。