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睡蓮の糸  作者: 日室千種
1/13

1 出会い

 激しい雨になった。

 飛礫のように打ちつけられ、森が萎縮している。

「水神が、お怒りかな」

 ターナハースは、ふと呟いた己を嘲るかのように、唇を歪めた。

 はるか高みで抱きしめ合うように空を覆う樹冠のおかげで、雨粒に直接叩かれずには済んでいるが、すでに髪も服も荷物の中身まですっかり濡れている。枝葉が支えきれずに落ちてくる水滴は細い滝のようで、さらに足もと、普段から湿った細い道が今や泥流となっている。

「まいったな」

 ぼやくのは、こんなところまで踏み込んできてしまった自分に対してだったが、それでもターナハースは慎重に足場を探って前へと進んだ。

 目的地はもうすぐ。目前の大木をぐるりと回り込んだところだ。

 地上に張り出している根を足がかりにして、泥に足を取られないよう、そろりと足を前に滑らせる。ひび割れた樹肌に指をかけ、杖の代わりにしてきた木の枝をぐずぐずと頼りない地面に深く突き刺し、大木に張り付いて、次の足を出す。

 そうして、膝ほどの高さの段差を超えると、ぱっと視界が開けた。


 民家が5、6軒ほどの、ほんの小さな村ならすっぽりと入りそうな広さの野原だ。

 背の高い木はない。かわりに、野原の真ん中に木造の古い小屋がある。

 水捌けのいい土が上層にあるため、野原はわずかにぬかるんでいるだけだ。一面草が茂っているが、この強い雨でほとんどが折られたように横倒しになり、災難の終わるのを待っているよう。

 足早に小屋に近づけば、小屋の周囲の踏み固められた土が、草を寄せ付けずにむき出しになっていた。

 人が住んでいた、気配。

 だが閉じたままの鎧戸の桟や壁板のくぼみにたまった埃は湿気に泥となっていたし、縁の下には埃を被って灰色になった蜘蛛の巣が、いかにもみずぼらしく幾重にも垂れていた。

 小屋の材が腐りもせず、揺らぎもしていないのは、膝ほどの高さまで上げられた床と、柱の下にかまされた平たい石のためだろう。

 小屋は明らかに人の手を離れ、ゆるやかに朽ちていこうとしていた。


「十年間、放りっぱなしだものね」

 ターナハースはしみじみと零した。もっとも、あまりに激しい雨音に、自分でも何も聞き取れなかったが。

 ひとつ息をついて、小屋の扉へ向かう代わりに裏側に回った。

 黄色い花をつけた背の高い草が互いに寄りかかり合っているのを、まとめて根元から踏み折ると、その向こうに腰ほどの高さの石柱が現れた。横手には船舵のような環状の取っ手がついている。

 荷物を背負い直して、おもむろに力一杯ひねれば、案外すんなりと取っ手は回り、石柱の頂に埋め込まれた木の筒から勢いよく清水が流れ出した。

 泥まみれの手を流して、ターナハースはふと、辺りを見回した。

 雨のせいで白く煙った風景はひどく静かで、苦笑を誘う。

「誰も、いるわけないじゃない」

 ことさらに呟いて、着ているものを脱ぎ始めた。外套、帯、表着、下着、靴まで。結わえていた黒髪もばらばらと解いてしまった。

 梢から降ってきた泥が髪の間から転がり落ち、雨に溶けて肌を汚していく。

 かがみ込んで頭に直接水をかぶり、ざぶざぶと無造作に髪を洗い、体の泥をざっと流し終わると、服を洗い、ついでに荷袋の外側も洗い流した。外套以外の洗い物を荷袋に一緒くたに詰め込むころには、さすがに冷えて、ぶるりと震えが来た。

「まだ、夏は遠いか」

 仕上げに体をひと流しして、外套を羽織った。

 重たくなった荷袋を抱え込むと、急いで小屋の入り口に向かう。走ると、外套が翻って白い肌が見える。雨は強すぎて、肌にあたる度に痛みを伴った。

 戸口前の階を上がって、ターナハースは肌寒さに外套をかき合わせた。それでも、膝下までしかない外套は足下の冷たさを退散させてはくれない。

(火をおこそう)

 そう決めて、逸って扉を開ける。

 ぎくり、とターナハースは立ちすくんだ。


 誰も知るはずのない小屋。誰も立ち入らない森の奥の小屋。

 その小屋の中に、見知らぬ男たちがいた。

 雨の音が、激しい、激しい。

 彼らが互いに何かを言ったが、何も聞こえなかった。耳に蓋をされたようでもどかしかったが、おかげでターナハースは落ち着くことができた。

 男たちは、大半が半腰になって身構えていた。その構えも、身なりも、彼らが決して賊の類いではないことを示している。

 六人。皆、若い。最年長と見える、最奥に悠然と座る男でも、二十七、八か。

 その男が、どうやら他の者の主人らしかった。真っ直ぐにこちらを見る目には、尋常でない力がある。どこかの貴族の子弟、というよりは、為政者のお忍びといったところか。

 ——それなら。お忍びで旅をする貴族が、何も知らずに森に入って迷ったということなら。

(有り得る、でしょうね)

 そう、納得しようとした時だった。

「この森に、地元の者は立ち入らないはずだ。何者だ、娘」

 雨に負けない、つよい声が響いた。

 思わず、最奥の男から視線を外して、声を見た。


 声の主は、青年。少年に近い、十七、八の男。

 六人の中で独り、黒い髪と黒い目をして、旧ウィハーシュ国の出身であることがわかった。真っ直ぐな双眸、通った鼻筋、若者らしい頬。見れば見るほど、美しい青年だ。

 しかしターナハースが青年に釘付けになったのは、見目の良さゆえではなかった。

(誰かに、似てる)

 そう、目元を優しくし、唇と頬に肉をつけただけで。


 悲鳴を上げることができないほど、ターナハースは衝撃を受けた。

 自分が青ざめているのがわかる。首の後ろにぬるりと汗が湧いた。

 さらに、声が重ねられた。

「名を言え、娘。どこの者だ」

 不審に思われると思っても抑えられず、拳は握りしめられ、膝は頼りなく震えだした。体が重く、感覚も遠くなる。

 心だけが、繰り返し叫んでいた。

(なぜ、なぜ十年も経ってから会うの?)

 どんなに足掻いても、こころの奥底に淀む忌まわしい記憶。

 ターナハースは、強く目をつぶった。


(——いまさら会いたくなんて、なかった!!)


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