わたしを嫌ってくれて、ありがとうございます。
「あんな地味なガリ勉メガネが婚約者だなんて、願い下げだね」
放課後すぐの教室。
まだ残って宿題や復習に励む生徒たちの頭上に婚約者の声が響き渡り、サシャはぎゅっと身を縮めた。うつむき、机の上のノートをじっと見つめる。
教室の真ん中で仲間たちと談笑しているのは、サシャの婚約者、ディルク。名門ハイドゥルース伯爵家の長男で、白っぽい金髪に生き生きと動く水色の瞳の、明るい社交家だ。
一方でサシャは、冴えない茶色のおさげに黒縁メガネの子爵令嬢。休み時間も机にかじりついてペンをひたすら動かす――
「ほんと、あれじゃ、勉強はできても、卒業後の社交はどうするのかしらね? あんなのが夫人だなんて、ディルク様が、かわいそうだわ」
甲高い声は、ディルクに身体を密着させている少女。男爵令嬢のイリーナ・アイマーだ。
先日の学園祭から親しくなったらしく、ずっとディルクにくっついている。
地味もガリ勉メガネも本当のことなので、サシャはもう諦めていた。悪口も、浮気も――
サシャがディルクの気に入るような女性になれないのが、いけないのだろう。
サシャだって、頑張ってみたことはあった。侍女に頼んで流行の髪形にしてもらったり、薄く化粧をしてもらったり。
そのたびに、今度こそほめてくれるかな、とドキドキして学校に行った。
だがディルクは「美人に似合う頭だと、顔の普通さがより目立つよな」とか「そんなケバい化粧して、浮気でもするつもりなのか?」などと言ってくるのみ。
何度も繰り返すうち、サシャの心は粉々に砕け、乾いた砂のごとくになっていた。
もう期待はしない。しかたないのだ。
もともとこの婚約は、ハイドゥルース伯爵家がサシャの実家、ツィーラー子爵家の持つ富裕な平民向けの販路を得るために望んだもの、つまり政略なのだから。
ツィーラー子爵家はアクセサリーや小物などを扱う商会を経営していたが、倉庫が火事に遭い倒産の危機に瀕していた。
ハイドゥルース伯爵家の申し出はツィーラー子爵家にとっても渡りに船であり、断ることなどできそうもなかったのだ。
だが当然ながら、ディルクからすれば 「格下の貧乏子爵家を救済してやってるだけで有難いと思え。というかこんな地味な女と政略で結婚とか、ないよな…… 俺って、かわいそう」 ということでしかない。
彼は、婚約式の直後から公然と浮気を始め、サシャの悪口を言いふらすようになった。
(結婚なんてしたくない…… 伯爵家のほうから婚約解消してくれたらいいのに。慰謝料つきで)
だが、両家の利害が絡んだ婚約が、そんなに簡単に消えるわけがない。
サシャは白紙のままのノートを睨むようにしながら、そっとため息をついた。
「ねえ? サシャ・ツィーラー子爵令嬢?」
ハキハキとした早口が頭上から降ってきたのは、そのとき。
「いつまで、あんなことを言わせておくおつもりなの、ねえ?」
見上げると、ふわふわした琥珀色の巻毛にエメラルドの瞳の令嬢と、ビスケットの色の髪に丸い顔の令嬢が並んで立っていた。
エトランジュ伯爵令嬢とメナージ伯爵令嬢。だいたいいつも、ふたりで一緒にいるが、早口でよく喋るのがエトランジュ伯爵令嬢だ。
「アレのおかげで、クラスの空気が悪くなってるじゃない。婚約者なら、注意なさいよ」
「……ごめんなさい」
ものすごく理不尽だったが、こんなときには謝るに限る。サシャが再びうつむくと、「ロッティたら、そうじゃないでしょ」と、メナージ伯爵令嬢が柔らかな声で友人をたしなめた。
「わたくしたち、ツィーラー令嬢を、ヴィンターコリンズ令嬢に紹介して差し上げようと思っただけなのよ」
「は?」
思わず聞き返すサシャ。
「ヴィンターコリンズ令嬢って、あの……ヴィンターコリンズ公爵令嬢ですか?」
「そうよ! あの、ヴェロニカ・ヴィンターコリンズ様よ!」
エトランジュ伯爵令嬢が胸を張る。
サシャは、目をぱちくりと瞬かせた。
――ヴィンターコリンズ公爵令嬢といえば、サシャたちと同学年でかつ生徒会副会長をやっている超絶美少女だ。身分も勉学も礼儀作法も完璧、そのうえ生徒会は彼女の働きで回っているとの噂もある。
同学年とはいえ、サシャが前にヴィンターコリンズ令嬢を見かけたのは、彼女が全校集会で壇上に立ち学園祭の説明をしていたときで――つまりは、住む世界の違う雲の上の人なのだ。
「ええと…… わたしごときが、なんで、そんなおかたに?」
「いち、ヴィンターコリンズ令嬢の派閥作りのため。あの平民あがりの聖女候補に対抗するために、わたくしたち、彼女と仲良くない人たちに声をかけるようにしているの!」
「なるほど……」
そういえばヴィンターコリンズ令嬢の婚約者であるこの国の第三王子ヨハン殿下は、最近、特待生の聖女候補とやたらと親しい。
ヨハンはこの学園の生徒会長であるが、なのに堂々と浮気するのか、と怒りに満ちた噂がサシャにまで届くほどだ。
ヴィンターコリンズ令嬢自身は冷たく黙殺しているようだが、まあ彼女の取り巻きにとっては面白くない事態だろう。
「将来、あの平民が王子の愛妾にでもなって、大きな顔しだしてご覧なさいよ! 目も当てられないわ!」
「で、そのに、はね」と、メナージ令嬢の丸い声が激高するエトランジュ令嬢を抑えた。
「じつはヴィンターコリンズ令嬢は、物静かなかたのように見えて、とても的確に対処を教えてくださるし、協力もしてくださるの」
「そう! ヴィンターコリンズ令嬢のおかげで、わたくしも、最低な婚約を円満に解消できたのよ!」
「わたくしは、身分違いで難しかったかたと、婚約できたわ」
「だからね、わたくし、あなたとハイドゥルース令息とのことも、ヴィンターコリンズ令嬢ならきっと、良いように解決してくださると思うのよ!」
すごい信奉ぶりだが、サシャとしてはそこまで他人をあてにするのも気がひける。
「ええと、その…… 有難いお話なんですが 「じゃ、決まりね!」
すぐ行くわよ、と、エトランジュ令嬢がサシャの腕を引いた。メナージ令嬢が「急でびっくりなさったでしょう? ごめんなさいね」とフォローしてくれるが――
ふたりとも、やめる気はなさそうだ。
※※※※
「――このようなわけで。下品なバカ男と盛りのついたエロ女が教室の雰囲気を悪くするので、困っているのですわ、わたくしたち!」
「そう……」
エトランジュ令嬢、メナージ令嬢、そして、ふたりに引っ張られるようにしてついてきたサシャ。
生徒会室でひとり仕事中、突撃してきた三人の訴えに、ヴィンターコリンズ令嬢はまったく迷惑がることなく耳を傾ける。
静かにうなずくヴィンターコリンズ令嬢は、同性の目から見ても凄まじい美少女だった。
艷やかな黒髪に、やや吊り気味の大きな紫水晶の瞳。静かな湖面を思わせる雰囲気は神秘的で、絵から抜け出してきたような、いかにもな深窓のご令嬢だ。
「それで――ツィーラー令嬢は、どうなさりたいの?」
「あの、わたくしの婚約は、家同士の約束なので……」
緊張したサシャは、指をこね合わせつつ、うつむく。
「わたくしが我慢すれば、それでいいかな、と……」
「ツィーラー令嬢は、どうなさりたいの?」
また、同じ質問。
ヴィンターコリンズ令嬢の瞳が、不思議そうにサシャに問いかけている。
『わたくしは、あなたがどうしたいのか、聞いていてよ?』
サシャは息をのんだ。
これまで、そんなことを主張しても『我儘』だとか『家のことを考えていない』などと責められるだけだと思ってきた。
なのにこの公爵令嬢は、まっすぐにサシャの望みを聞いてくる。まるで、それ以外には何の価値もない、とでもいうように。
「――結婚、したく、ないです……」
サシャは振り絞るように声を出した。たったこれだけを言うだけで、心臓が、痛いくらいに脈打っている。
口にしてはいけないはずのことだった。
だけど、言ってしまうと、納得している自分がいた。
どうやらディルクとの結婚は、サシャにとって『ものすごく嫌なこと』だったらしい。
「どうしても、あのひとと紡ぐ未来が思い描けない…… どうにかして逃げ出したい、って、そればかり、思ってしまって……」
「それで、そのノートに物語を書いていたのね?」
「えっ…… なんでそれを……!?」
サシャは無意識に後ずさっていた。手にしていたノートを、胸に抱きしめる。
――人には言えない願望を、都合の良い物語に託してノートに書き綴ってきた。それが『ガリ勉メガネ』の正体だった。
誰かに見せようと思ったことも、見せたこともないはず――
「あら。だって、わたくしが全校集会で学園祭の説明をしていても、一度も顔を上げずに、夢中になって書いているのだもの」
とっても、目立っていたわ――
こともなげな台詞に、エトランジュ令嬢とメナージ令嬢がサシャを見る。
「す、すみませんでしたっ……!」
サシャは半泣きになり、ペコペコと頭を下げたのだった。
「あ、あのときは、ちょうど佳境で……っ」
「よくってよ。責任は、佳境に負けるわたくしの能力の無さにあるわ」
「とととと、とんでもないです! ご能力が、溢れ出していらっしゃいます!」
「本当に、そう思って……?」
「ももももも、もちろん、でございます!」
「だったら、読ませなさい」
「もちろんでございます! ……あ」
気づいたときにはもう遅かった。お目汚しにしかならないと思います、とサシャは必死で言い訳したが、しびれを切らしたエトランジュ令嬢により、腕の中のノートは取り上げられてしまう。
「面白いかどうか決めるのは、ヴィンターコリンズ令嬢よ!」
「そんな、ご無体な……!」
エトランジュ令嬢から献上されたサシャのノートを、ヴィンターコリンズ令嬢はパラパラとめくっていく。
(や、やっぱり面白くないから、飛ばし読みされてるんだ……!)
乏しいままの公爵令嬢の表情をサシャはそっと盗み見、先程とは別の意味で泣きそうになっていた。
妄想を書き殴っただけのノートがそんなに面白いわけがないのは、わかっている。
だけど、面白くなくて飛ばし読みされるのは、婚約者から悪口を言われるより、もっとつらい――
「――面白かったわ」
(どうせ、どうせ、どうせ、わたしなんて……)
「令嬢が万座のなかで、愚かな浮気者に婚約破棄を言い渡し、浮気者は恥をかいて一生、社交界に出られない……」
「へ?」
いじけていたサシャは、すらすらと述べられる佳境とその後の展開に、目を丸くする。
あの速さで、きちんと読んでくれていたなんて。
やはりこの美少女は、なにからなにまで自分とは懸け離れたスペックの持ち主なのだ――
「この国ではあり得ませんけれど、多くの女性にとって、とても共感できるし、スッキリする内容ではないかと思いましてよ」
「……ほんとう、ですか?」
「ええ」
うなずくヴィンターコリンズ令嬢の表情はやはり、鏡のように静かなままだった。
声もまた、淡々としていて感情が読み取れない。
けれど、もしかして――サシャはふと思った。
この人も完璧令嬢などと呼ばれ周囲から理想を押し付けられているうちに、感情がすり減っていっただけかもしれない。
自分と、同じに――だなんて、考えるだけでも失礼だけど。
「ただ、そうね。登場人物の言動が少し、説明的すぎて現実感に欠けるといいますか…… なんだか、お芝居にでもありそう、と思えてしまうところが惜しいですわね」
「ああ……」
サシャは感心した。
――完璧令嬢の指摘は、やはり的確だ。たしかに、サシャがノートに書きつけたセリフや立ち回りなどは、演劇そのままだった。
そういえばサシャは、観劇が大好きなのだ。
いつのまにかディルクが嫌がって誘ってくれなくなったほどに、観劇は、つい夢中になって舞台に集中してまう。
(それで、知らないうちにお芝居みたいなセリフになっちゃうのかも…… でも、どうすれば?)
サシャが考え込んでいると、ヴィンターコリンズ令嬢はつまらなそうに「直せましたら、系列の出版社と契約させてあげても、よくってよ」と告げたのだった。
困った婚約者の相談のはずが、困った婚約者を成敗する物語の相談になってしまっているが――
ツッコむ者は、ひとりもいなかった。
現実の婚約者をどうこうするより心が弾むのだから、当然だ。
※※※※
「こんな地味なガリ勉メガネが婚約者だなんて、願い下げだね!」
放課後の教室に、いつものようにハイドゥルース伯爵令息、ディルクの傲慢な声が響く。
「ほんと、ディルク様ったら、おかわいそう!」
ディルクに身体を密着させている、イリーナの甘い声も。
だがその続きは、かつてとは異なっていた。
「悪口言われてるのに、なんで、そんなに嬉しそうにメモしてるのよぉっ!」
「あっ、どうぞお気になさらず! 続けてください! どんどんと!」
ディルクとイリーナたちのすぐそばにどーんと陣取り、一言一句どころか、そのちょっとした表情や仕草をもノートに書き留めているのは、ガリ勉メガネことサシャ・ツィーラー子爵令嬢。
――彼女はヴェロニカ・ヴィンターコリンズ令嬢に紹介され、物語について指摘を受けてから、必死で考えた。
『出版社と契約させてあげてもよくってよ』
ヴィンターコリンズ令嬢にとっては、なんでもないひとこと。だがそれは、サシャの心に希望を灯したのだ。
望まない婚約、未来のない結婚。
霧の中をひとり濡れながら歩くような、人生――
それがもう決定事項であっても、もし自分の書いた荒唐無稽な物語が、広く読まれるようになり、同じような境遇の女性をほんの少しでも癒せるとしたら。
それだけが、サシャがサシャとして生きてきた証になるだろうから。
しかし、どうすれば、指摘された欠点をなおせるのか――
考えに考え、サシャは思いついた。
(身近にいるじゃない! とっても優秀な、取材対象が……!)
この瞬間から、ディルクも浮気相手のイリーナも、それを擁護する仲間たちも、サシャにとっては創作のネタでしかなくなったのだった。
「こいつだって、もっと見た目に気を遣い俺に相応しい女になれば、少しは大切にしてやらないこともないのにな!」
“――と言う彼の瞳はどこか空虚で、その知性のなさを現しているようにも見える。婚約者が言われたとおり見た目に気を遣ったとき、彼がどのような反応をしたかは、もう忘れているか、忘れたふりをしているよう。
忘れていたとしたらあまりの記憶力の無さに呆れるし、忘れたふりをしているとしたら、あまりの悪意に、寝ようとしたら布団のなかにムカデがいて絶叫でもすればいいと願う案件。”
「わあーディルク様ったら、お優しいのね。イリーナの婚約者も、ディルク様みたいなかただったら、いいのになぁ」
“――と胸を彼の腕にこすりつけ、小動物のごとき潤んだ瞳で彼を見上げる。その瞳の奥には『誰よりも可愛いイリーナがここまでしてあげてるんだから、絶対に落ちて、誰よりも大切にして、贅沢三昧の暮らしを送らせてくれるわよね!』という自信が仄見える。
もしいったん落ちたとしても別の刺客が現れれば、そっちに鼻の下をのばす性質だということには考えが及んでいないらしい。
いや、それとも、持って生まれた性質さえ覆す意気だということか、こんな男相手に――ご苦労さまです。”
疎まれても、蔑まれても、サシャはメモを取り続けた。教室ではもちろん、往復の馬車も街でのデートも先回りして同席した。
そんなことができたのは、浮気者を許せないクラスメイトたちが、行動を起こしたサシャに全面的に協力してくれるようになったおかげである。
ディルクとイリーナがどこにいようと、その予定はサシャに筒抜けだったのだ。
やがて、イリーナが音をあげた。
「もう! いいかげんに、諦めなさいよ! なんで、ずっと目をギラギラさせてつきまとうの!」
「婚約者でもないくせに胸を擦り寄せてつきまとうよりは、マシなのでは?」
「――!! もう! やってらんないわ! 気持ち悪いっ!」
サシャは図らずも、婚約者の浮気相手を撃退してしまったのだった。
まあ、割りかしワンパターンで取材としてはもう充分だったので、良しとしよう。
イリーナが去ったあと、ディルクには浮いた話がまったく出なくなった。
ディルクが真面目になったのではなく、ディルクに近寄る令嬢がいなくなったのだ。
浮気相手の婚約者から、すぐそばでひたすら取材をされるというのは、どうやらかなり居心地の悪いものらしい。
そして、そのころからディルクは、サシャを婚約者として意識するようになってきた。
(どうせ政略だと、こいつのことを嫌ってきたが…… ずっと取材だのと理由をつけて、俺のそばにひっついているのが、なんだか、いじらしく思えてきたな。つまりは俺のことが好きなんだろう? しょうがない、少しは相手してやるか!)
周囲に異性がいなくなったために残ったひとりに焦点が合っただけのこと、とサシャは分析していたが、ディルクには無論、その自覚はない。
「おまえ、ダサいと思ってきたけど、よく見れば、磨けば光るタイプかもな」
“――イリーナに鼻の下をのばしていたときと同じ表情で、傲慢発言。どうやら彼はこれを愛情表現と信じているらしい。
自省することがない人間は歯止めなく愚かになっていく、という典型例。”
「結婚しても、おまえの侍女とか連れてくるなよ? 俺が、きちんとおまえをスタイリングしてやれる優秀な侍女をつけてやるからな?」
“――というのが、他家の使用人を、ひいては、他家そのものを貶めている発言であることに気づいて敢えてやっているとしたら、とんでもなく底意地が悪いし、気づいていないとしたら、今後の社交が心配になる件。
だけど、もうわたしには関係ない――”
「結婚したら? ありえませんけど?」
放課後の、まだほとんどの生徒が残っている教室。
サシャはにっこりと、元婚約者に一冊の本を差し出した。
シルクの布地の豪華な装丁。金箔押しされたタイトルは――
『貴族令嬢ヴェロニカの華麗なる婚約破棄』
現在、女性に大人気の小説である。
ファースト・ネームを使うことをヴィンターコリンズ令嬢が「そう珍しい名でもないし、別によくってよ」と許可してくれたおかげもあるだろうが、とにかくよく売れており、近々、舞台化までされる予定だ。
観劇が大好きなサシャとしては、楽しみでしかたがない。
「この小説の内容が、ディルク様がされている言動と同じだと、父にメモを見せて説明したところ。父がハイドゥルース伯爵に、婚約解消及び業務提携解消を申し入れてくれまして」
「はあっ!?」
「まあハイドゥルース伯爵もずいぶんとゴネられたみたいですけど、この本を見せて説明されたら、引くしかなかったみたいですね――ディルク様はまだ、聞いてないんですか?」
「はぁぁあ!? そんな!」
“――彼の顔色は、赤から次第に色を失い、青ざめていく――”
「おまえの家は倉庫の火事で、破産寸前だろう! 俺の家が救ってやらなければ、どうにもならなかったはずだ……!」
「まあ確かに、そうだったんですけど」
サシャは、輝くシルクの装丁を愛おしげに撫でた。
「そちらのほうも、なんとかなりました」
知らない者がいないほどに本が大人気になったため、火事の損害を補って余りある収入があったのだ。
出版社からは次作を書くようにせっつかれてもいる。世間から飽きられるまでは、収入に心配はないだろう。
それもこれも、ヴェロニカ・ヴィンターコリンズ令嬢の助言と協力のおかげ。そして、公爵令嬢を紹介してくれたエトランジュ令嬢とメナージ令嬢のおかげ。
それから、素晴らしい取材対象たちのおかげでもある――
あれこれと暴言を吐かれ、蔑ろにされたことは今でも許せるわけではないが、もうサシャの心を傷つけなくなっていた。
「このっ……! 俺が我慢して付き合ってやっていれば……!」
進退窮まったディルクが拳を固めた、そのとき。
「坊っちゃま、大変ですっっ」という声とともに、猛烈な勢いでディルクの従者が駆け込んできた。
「いま、大人気の小説のクソな婚約者のモデルが、坊っちゃまだという噂が流れていまして――」
「なんだとっ!?」
「ハイドゥルース家の取引先から、坊っちゃまを跡継ぎにするのならば今後の取引は考えるとの声が相次いでおり……」
「はぁぁぁぁッ!?」
「お父上が、つい先程、坊っちゃまの廃嫡を決定されましたっ……! 学園も退学させよとのお達しで……っ」
「うそだぁっ……! 父上ぇぇえっ!」
ふらりと倒れかかり、従者に支えられるディルクの様子を、サシャはせっせとメモする。
それからノートをカバンにしまい、淑女の礼をとった。
「それでは。わたしを嫌ってくれて、ありがとうございます、ハイドゥルース令息」
――その後。
ディルクは家を追い出され、農家の使用人として奴隷同然の扱いを受けている。
イリーナは 「『令嬢ヴェロニカ』シリーズの浮気相手のモデル」 という噂が広まってしまったためにまともな婚約者が現れず、泣く泣く、5人の愛人と全身に脂肪とをたくわえた商人の後妻となったという。
そして、サシャは、今日もエトランジュ伯爵令嬢、メナージ伯爵令嬢とともにヴィンターコリンズ令嬢しかいない生徒会室に集まっている。
副会長の仕事の手伝い半分、おしゃべり半分の気楽な集まりだ。
なお、生徒会長と書記は今日も街へデートに出かけている。
ヴィンターコリンズ令嬢によると、いないほうが仕事が進むので問題ないらしい。
「ねえ、サシャ」と、エトランジュ令嬢が興味津々に問いかけた。
「次作は、どんな話にするの?」
「浮気者の婚約者を、浮気相手ごと物理的かつ社会的に、つまりは徹底的に、突き落とすのは、どうでしょう……?」
「あら、よろしいのではなくて?」
思わず、といった感じで声をあげたヴィンターコリンズ令嬢。
その顔は相変わらず表情に乏しく物静かだが、ヴィンターコリンズ令嬢の場合は 『とっても楽しそう』 と同義だと、サシャたちはもう知っている。
きっと喜んでもらえる、そう確信しながら、サシャは告げた。
「タイトルは――」
読んでいただき、ありがとうございます!
この後、ヴェロニカ・ヴィンターコリンズ公爵令嬢が覚醒してク◯な婚約者どもを毒と魔法でしばき倒す話が本になりました!
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詳しくはページ下部をご覧ください。




