オキョム
独りぼっちの子にいつでも話しかけられるように私は誰とも群れない。だってグループに属している陽キャに話かけられても「同情してるの?」って思うだけだから。最適化、最適化。あなたたちが欲しい言葉をいつだって私はかけてあげたいの――。
オキチは仕事中もLINEの通知が来ていないか気になって仕方なかった。マッチングアプリで出会ったE子は明るくて容姿も良い。地元の友達に呆れられる哲学話をしても話のテンポは衰えないし、かといって無理に話しを合わせてくれている感じもない。これは金のエンゼルが出るくらいの確率じゃあないか。と浮かれる一方で、女なんて男に養ってもらうことをゴールにしているヤツが大半だから、化けの皮が剥がれるのも時間の問題だろうと腹を括っていた。
オキチは他人にぶつかられて服にブラックコーヒーがこぼれても相手を気遣ってしまうほどに舞い上がっていた。数か月間はその調子だった。E子の家に上がるその日までは。
「本当にいいの?」
E子は玄関の前で再度オキチに問いかけた。これで五度目である。問いかけの解釈は色々ある。最初に問いかけられたときは、彼女の家にあがるわけだから「そういうことだよね?」の確認だと思いオキチは鼻息荒めに親指を立てた。けれど五回も同じことを問いかけてきたということは、部屋が汚いとか推しグッズで溢れているとか自分が隠している何かを受け止める覚悟があるか否かの確認とも思えてきた。とまぁ様々な思いが巡ったものの女子の家の前まできて引き返す男はいない。
うるせェ‼いこう‼
「三十秒数えたら入って来てね」
三十秒後、玄関のドアを開けたがE子の姿はない。E子の名前を呼んでも返事はない。リビングに大きいぬいぐるみが置いてあったので覗き込んだ。『千と千尋の神隠し』に出て来るオオトリ様とオバケのQ太郎を足して2で割ったような奇妙なぬいぐるみである。
かくれんぼでも始めたのかと思ったが家中どこを探してもE子は見つからなかった。逃げられた? 騙された? 冷や汗を掻きながら最後の望みをかけてバスタブの蓋を開けた。やっぱりいない。振り返ると、あのぬいぐるみがいた。オキチは「うわぁ」と声をあげて腰を抜かした。
「ぺ」
胸元には"オキョム"と書かれたネームプレートがついている。
「どこいったんだ……」
「ぺぺっ」
オキョムは自分を指さした。そうかそうか。E子は着ぐるみを着て驚かせようとしていたのか。……しかし捲っても引っ張っても「ぶぶ」「ぢんぺぺ」などと鳴きながら嫌がる素振りを見せるだけで、中身を確認することはできなかった。
オキョムを調べて分かったことは、家を一歩出れば何事もなかったかのようにいつものE子に戻る。家の中に入ると頭の上からズルんと着ぐるみに覆われて、あっという間にオキョムに変身する。オキョムはヒトの言葉を理解するけれどヒトの言葉は話さない。オキョムでいるときの出来事はE子に戻っても覚えている。逆も然り。E子にオキョムのことを聞いても「昔からなんだ」としか言わないので、オキョムになってしまう理由は分からなかった。
それにしてもだいぶ違う。E子はいつだってニコニコしながら話を聞いて心地よい相槌を打って、たまに自虐的な冗談を言って周りを笑顔にして、二度と顔を合わせることがないであろう他人にも笑顔で気を遣うような女だ。飲食店では空いた皿を下げやすい位置に重ねて置いたり、退店するとき厨房に向かってわざわざ「美味しかったです」と感想を述べたり、レジの店員には決まって「また来ます」とリップサービスをする。もしかして……とオキチは思考を止めた。
それはオキチにとって嫌な想像だった。浮かれきっていた自分と思い出の数々がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。気が合ったのではなく、合わせられていたとしたら。あの笑顔がすべて偽りだったとしたら。でもだとしたら何のために? 結婚相手を見つけるために猫を被っていたということか? そうだった。女はそういう生き物だった。ああ、保険をかけておいて良かった。
口に手をあてて考え込むオキチの横でオキョムは寝転がってスマートフォンで十八禁の漫画を読み漁りながら、オキチにお尻を突き出してぴったりくっつけている。
「なんだコイツ……」
「ちょんぺぇ」
オキチはオキョムに抱きつかれて、背中に顔をスリスリ擦りつけられて、ますます分からなくなった。お前は誰なんだ。本当にE子なのか? 自分が知っているE子とはまるで違うが、オキョムが自分のことを好いているのは間違いないようである。どういうわけかE子のことはいくらでも疑えるのにオキョムの愛情表現(?)は受け入れられてしまう。
オキチは数週間でこの奇妙な生き物に慣れてしまった。オキョムは手を後ろに組み、もじもじしながらオキチに近付いた。差し出した紙には「同棲求ム」と書いてある。同棲と聞いて面倒ごとが増える予感しかないが、結婚前に女の本性を暴く絶好の機会でもある。とオキチは首を縦に振ろうとして静止した。E子と家でまったり、時にはイチャコラという間違った想像をしていた。そこにE子は居ない。居るのは奇妙な動くぬいぐるみだけ。E子のようなモチモチ肌ではないものの、抱き枕にしたら安眠はできそうだ。
面白いもの見たさもあったが、純粋にオキョムと過ごす時間も楽しいので、月に数回は安いホテルで外泊をすることを条件に同棲することにした。たまにはE子の寝顔が見たい。というのは建前で、言わずもがなオキチの欲求を満たすためである。
「なんで俺が家賃を多く払わなきゃいけないんだよ。折半だろ」
「ぶぶ」
「俺のが収入が多いからだぁ? じゃあ俺が転職してオキョムより手取りが下がったらオキョムが多く払うんだな?」
「……」
「そーやって自分の都合の良い条件だけ押し付けて、立場が変わると手の平返すんだよ。俺は女のそーゆーところが嫌いなんだ」
そんな風に言われて腹が立ったが言い返せなかった。オキョムはオキチの足にそっと自分の足を重ねた。
「あっ足踏んでる!」
「ぺ」
「家賃も折半、家事も同じ量だけやる。どっちが何をやるかは都度相談すればいい」
あえて家事分担をしなかったがそれが案外うまくいっていた。家事をきっちり分担した場合、どちらか一方が真面目にやっていると、もう一方も同じペースでやらないと「サボり認定」されてしまう。家事分担をしていないおかげで一緒にサボることも一緒に頑張ることもできていた。
オキョムは風呂嫌いである。まず服を脱ぐのが面倒臭い。頭や身体も洗いたくない。風呂から出たあとで乾かすのにも時間がかかる。それから風呂の蓋を開けるのも怖かった。幼い頃に水族館で見た巨大なレッドテールキャットフィッシュがトラウマになっており、浴槽にいるかも知れないという幻想のせいで蓋を開けられずにいた。そのため風呂に入ると言っても、放っておいたら臭いそうなところだけサッと洗って済ませていた。その代償か、お尻の肌はボツボツしている。オキチと同棲してもそのスタンスを変えるつもりはなかったのだが……。
「べ!」
風呂に入る準備を始めると、気付けば脱衣所に全裸のオキチが立っている。そして当たり前に風呂に入ってくる。
「一緒に入れば水嵩も増すし、何度も追い炊きをしなくてすむし節約になるなぁ~」
風呂に強制的に入ることになってしまった。しかも狭い。ギュウギュウである。
「風呂に入るときもぬいぐるみのままか」
「ちんぺぇ……」
オキョムは少しだけ清潔になった。
◇◇◇
同棲をしてから初めて迎えるクリスマス・イヴ。二人はいがみ合っていた。同棲するまではクリスマスデートを兼ねて外食していたが、今年は初めてのホームパーティーである。
「チキンだったらなんでもいいでしょ」
「ぢんぺぺ!」
ケンタッキー・フライド・チキンが食べたいオキョムと、行列に並んでまで買いたくないオキチの意見がぶつかり合う。
「そんなに食べたいなら予約しとけばよかったじゃん」
「ぶぶ」
「大体、本場アメリカじゃクリスマスにケンタッキーは食べない。オキョムはどうしてそんなにケンタッキーにこだわるんだ」
「……」
テレビからは「クリスマスが今年もやってきた~♪」というメロディーとともにケンタッキー・フライド・チキンの広告が流れている。
「俺たちのクリスマスを楽しもう。他の家がどうお祝いしてようが関係ないだろ。ケンタッキーは来週食べるとして、今日はファミチキでも買いに行くか」
「ぶぶ!」
オキョムはオキチの足にしがみつき、重石のように重心をかけた。
「土用の丑の日には鰻を食べようって話があるだろ?」
オキョムはコクリ。と頷いた。
鰻の旬は本来脂がのって来る晩秋から初冬。土用の丑の日に鰻を食べるという風習は、江戸時代、夏に鰻の売り上げが伸びないという鰻屋の相談を受けた平賀源内が提案したキャンペーンが広まったもの。
「日本人の何割が鰻の旬を正確に答えられるかな。まあケンタッキーは年中ウマいけど」
こんな調子でオキョムは大抵大破する。
ファミチキを買いに行く途中、ショーウインドーに飾られたブランド品の鞄が目に留まり、E子は足を止めた。
「今年はクリスマスプレゼント交換する?」
「これ欲しいの?」
鞄を見つめるE子の目は街中のイルミネーションにも引けを取らないほどに輝いている。オキチはその隣で鞄の値段をスマホで調べていた。
「おし。じゃあ俺は中古のモンキーで」
「モンキー?」
「うん。バイク」
「えっ……」
「え? その鞄よりは安いよ」
E子は何も言わずに、オキチの手を引いてファミリーマートへ向かった。勢いに紛れてオキチの手をいつもより強めに握ってやったのはここだけの話である。
手を引かれながら、オキチはふと思った。E子が自分から「これが欲しい」と言ったことが、一度でもあっただろうか。さっき鞄を見つめていた目は――本当にE子の目だったのか。
ファミチキと一緒に買った冷凍ピザに千切った生ハムを散らして、半熟卵を乗せたお手製ビスマルクは二人でハイタッチをするほど美味しかった。
◇◇◇
冬季休暇に入った頃、珍しく来客があった。オキョムが唯一、家に招き入れることを許可した人物である。
「やあオキョム。元気にしてたかい?」
オキョム(E子)の実兄のオアニである。オキチはオアニと会うのを少し恐れていたが柔和な人柄に触れて胸をなでおろした。
「君がオキチ君か。いつもオキョムがお世話になっています」
オアニは深々と頭を下げた。
「良かったね、オキョム」
オアニは微笑んだが、眼鏡の奥の目が心から笑っているかどうかは分からなかった。
「これ良かったらどうぞ」
そう言って手土産を渡した。
「ありがとうございます。どこか行ってきたんですか?」
「うん。朝から映画を見てきて、その帰りに」
「何観たんですか?」
「バイオレンス系って言ったらいいのかな。マイナーな映画だから知らないと思う」
「怖いやつ大丈夫なんですね。俺苦手で」
オアニはにっこり笑った。
「オキョムのほうがずっと怖いよ」
言われてみればこの未確認生命体は未知過ぎて怖い。E子から分裂したのか、E子が生み出したのか、それとも別の何処かから来た何かなのか。
「オキョムって一体」
オキョムがトイレに行っている間にオキチは思い切ってオアニに聞いた。
「うーん……。昔からああなんだ」
オアニはそれ以上何も言わなかった。
トイレから戻って来たオキョムは怪しむようにオキチとオアニの顔を見た。
「長居して悪かったね、もう帰るよ」
オアニがオキョムと二人で話をしたいということだったので、オキチはたばこ片手にベランダへ移動した。
「オキチ君、イイ感じだね」
「ちゅんぺぺ」
「君はいつまでその姿でいるつもりなんだ」
「……」
「いい加減変わらないと、そのままオキョムに喰われるぞ」
オキョムはオアニにお尻を向けて、スカートを捲るように被り物の裾を思いっきり捲り上げた。オキョムの尻が丸出しになった。
「うわあっ。ボツボツだぁ! 鳥肌ぁ!」
オキョムは尻を出したまま、オアニにお尻を向けてじりじりと近づいていく。
「荒尻退散! オキチ君もよくそのお尻を見て幻滅しないな」
オキョムの尻がじりじりとオアニとの距離を詰め、オアニは玄関の一角に追い込まれた。
「悪かったよ。謝るから、それ以上は近づかないでくれ」
集合体恐怖症のオアニにとって、オキョムの尻の肌荒れは脅威でしかなかった。
オアニが逃げるように家を出て行ったあとで、騒がしい物音を聞いたオキチが玄関にやってきた。
「今、お尻出してなかった?」
「(ぎくり)」
「お尻に何かあるの?」
「べべ!」
オキョムはお尻を隠すように背中に壁をべったり付けている。
オキチは風呂場に向かいながら着ていたTシャツを豪快に脱いだ。
「いや~、一人で入る風呂は広くていいなぁ」
浴室に足を踏み入れたところでオキチが振り返ると、タオルを握りしめたオキョムが立っている。
「じょんぺぺ」
オキョムは手に握っていたタオルを脱衣所に投げて、オキチを押しのけて我先に浴室へ入った。
「しょーがねぇなあ、一緒に入るか」
「ぺ」
「隙あり!」
オキチはオキョムの裾を掴んで思いきり持ち上げた。オキョムの被り物の下にE子の身体はなく、白いタイツに包まれたようなもっちりとしたお尻が現れたのだが……。
「BOTSUBOTSU!」
めちゃくちゃ荒れていた。
「ちょんぺぇ……」
「そーいやいつも身体洗うの早いなって思ってたんだよ。ちゃんと洗ってないだろ」
「……」
オキチは球状の泡立てネットでこんもり泡を立てて、オキョムに差し出した。
「はい」
「……」
「洗いなさい」
オキョムは何も言わずに裾を捲り上げてオキチにお尻を向けた。
「なんで俺が洗わなきゃいけないんだよ」
オキョムは首を横に振ってじっとお尻を向けている。
「ったくしょーがねーなぁ」
オキチはタイルの目地の汚れを落とすようにゴシゴシとオキョムのお尻を洗った。オキョムは洗われる力に負けないように真顔で踏ん張っている。
それは日課となり、オキョムにとっては至福の時間となった。
「いい加減自分で洗えよ。めんどくせぇやつだな」
「ちょんぺぇー‼」
文句を言いながらもお尻を洗ってくれるので、オキョムは毎度ご満悦である。
オキョムはオキチの手から泡立てネットを取って、オキチが自分にしてくれたように、オキチの大きな背中を力いっぱい洗った。オキチにリクエストされたわけでもなく、オキチを喜ばせたいと思ったわけでもなく、それが"正解"だと思ったわけでもなく、自分にとって心地よいことだったので、オキチにもやってみてあげたいと思ったのだった。誰かに求められたからではなく、自分がそうしたいからする。その区別がオキョムの中で初めてはっきりした瞬間だった。
◇◇◇
年が明け、元旦――。
「反対反対、並ぶの嫌だもん」
「ぶぶ!」
初詣に行きたいオキョムと待つのが嫌いなせっかちオキチが年始早々言い争っていた。
「せっかくの三が日は家でゆっくりさせてくれよ。オキョムが元旦に行きたがってる理由なんてなんもないんだろ?」
そう言われるといつも言い返せないオキョムであった。代わりに三回連続ケツアタックをお見舞いしてやった。
「大体"初詣"は鉄道会社が閑散期に電車に乗ってほしくて宣伝したのが始まりだし、混んでる時期にわざわざ行く必要もないってこと~」
オキョムはオキチの理屈っぽさに度々腹が立っていたが、一方で「普通」や「当たり前」に縛られないオキチが羨ましかった。
オキチもまた、言い返さないオキョムに苛立っていた。怒れよ。お前はどうしたいんだ、と。
親から見た自分、兄弟から見た自分、恋人から見た自分、上司から見た自分、旧友から見た自分、どれも違うのに全て自分なのだ。
E子が物心ついた時には既にE子のなかにオキョムが同居していた。E子には幼い頃から欲望がなかったが、他人の"こうありたい自分"がよく見えた。他人が理想の主人公になれるように端役に徹していた。E子のすべてが端役としての演技だと見抜ける者はおらず、空気に溶け込むように違和感なく主人公を引き立てた。相手に喜んでほしいわけでもなく、見返りがほしいわけでもなく、なんの欲もなく。そうやって適応して、順応して、自分を最適化し続けた結果、オキョムはどんどん大きくなって、ついに表面化するまでになったのだった。
◇◇◇
元旦から2週間ほど過ぎた或る休日、オキチとE子は鶴岡八幡宮に続く段葛を歩いていた。
「E子って今年の目標とかあんの?」
「う~ん、特には」
「三年後、五年後どんな風になってたいとかは?」
「ないかなぁ」
「じゃあ別れよう」
E子の思考は停止した。同時に歩みも止まった。主人公が別れを望んでいるのだから、この状況に適応するだけなのに、自分を最適化するだけなのに、息を吐くように相手が欲しい言葉を返すだけなのに、喉につかえて出てこない。
「……なんで」
別れを切り出したの?
「だって、一緒にいる意味ないじゃん」
様々な解釈がE子の脳内を巡る――。オキチにとっての理想の恋人が「明確な目標を持って前に進む人」や「3年後や5年後の将来像が描ける人」であれば適応するが、これまでのオキチの言動から、その理想は感じ取れなかった。
「目標がないから別れるの?」
「目標があってもなくても、一緒にいる意味がないから別れるんだよ」
端役として、オキチが"こうありたい自分"であるために演じてきたすべてが役不足だったということなのか。
「E子にはずっと違和感があって。俺にはE子がどうしたいのか分かんなかったけど、どうしたいも何もなかったってことが分かったっていうか」
適応も順応も最適化も難なくこなすE子の最大の弱点は自分が主人公になれないことだった。
オキチは鶴岡八幡宮に背を向けて、来た道を引き返すように歩き出した。
「あ」
オキチは思い出したように振り返った。
「あれはオキョムだったからE子のしたいことだったのか分かんないけど、お尻を洗ってほしいっていうのは、ホンモノだったね」
オキチが遠ざかっていく。
一緒にいる意味とは何か。そもそも恋愛に微塵も興味のなかった私が、なぜ恋人を作ろうと思ったのか。
――それが"普通"だと思っていたからだ。
今までの自分を振り返る度にオキチの言葉が胸に刺さって苦しくなる。私のように。
思えば、マッチングアプリのオキチのプロフィールは超ハイスペックで、E子はそこに惹かれたワケだが、実際は年収四百万円で筋トレ好きも嘘、オキチはE子が憧れた健康的な金持ちではなく、芋系ぽっちゃり平社員だった。それでも一緒に居続けたいと思ったのは"普通"に適応したかったからなのか? 三十路手前になったのだから、友達と結婚を匂わせるような恋バナをするような"普通"の女の子にでもなりたかったのか?
「…………」
E子は駆け出していた。今なら主人公になれる気がする。足が千切れるほどに全力で、段葛を一直線に駆け抜けていく。
寒さのせいか、いつもより小さく丸まったオキチの背中が見えた。
「オキチ! オキチ!」
思ったよりも大きい声が出てしまったが、恥じらっている場合ではない。
「オキチ! 私はお尻を洗ってほしい! 3年後も5年後もオキチにお尻をゴシゴシ洗ってほしい!」
息を切らしながら、肺に溜まっていたありったけの呼気とともに吐き出した言葉に周りの参拝客はざわついていたが、どうでも良い、どうでも良い!
「3年もあったらゴシゴシしなくてもいい尻にしてるよ!」
E子にツッコミを入れたオキチは嬉しそうだった。
"普通"ってなんなのだろうか。誰が決めたことなのだろうか。"普通"になるとどんな良いことがあるのだろうか。
E子はお腹が空いていた。たったの数十分で大変なカロリーを消費した気分である。
「お腹空いた。ハンバーグ食べに行こう」
「え?」
「お店の名前は忘れたけど、報国寺っていうお寺の近くにあるハンバーグ屋さんに行きたい」
「鎌倉?」
「うん。ちょっと遠かった気がするけど」
オキチは腕時計を見て「いいんじゃない」と言った。
二人は鶴岡八幡宮に背を向けて歩き出し、E子は恋人繋ぎをしていた手にぎゅっと力を込めた。
「ちょんぺぇー‼」
「あ、オキョムだ。ちょんぺぇ~」
段葛で奇声を上げるのは推奨できる行動じゃないけれど、こんな時だってオキチは私を否定したりしない。だから、いつだって居心地が良かったのか――。
"普通"な日常を見つめ直した先に、主人公の物語があるのかも知れない。誰かのためじゃない、私だけの物語。
お読みいただきありがとうございます。
「普通」に生きることが最適解だと思っていた女と、「普通」を疑うことしかできない男の話を書きたくて、気づいたらぬいぐるみがお尻を洗われている話になっていました。迷作になりましたが、迷っているのは作者だけでなく、きっとE子もオキチも同じです。
迷ったまま手を繋いで歩けるなら、それでいいんじゃないかと思います。




