灯火みたいな恋でした
静かな恋の終わりのお話です。
それは唐突な宣言だった。
けれど本当は予感していた。
だから私はとても静かに、自然体でその言葉を受け入れていた。
「セリスティア・アイオン伯爵令嬢、すまないが本日を持って貴女との婚約を解消させていただく」
いつもと同じ静けさと、いつもと同じ穏やかさのまま、五年来の婚約者である──否、たった今元婚約者となったらしいジャイル・ソードレイク伯爵令息はそう告げた。
学園卒業まで残り一年と少しとなった、初夏の日の出来事だった。
※※※
セリスティアの婚約が決まったのは十歳になる直前だった。
相手は家格が近く、派閥を同じくするソードレイク伯爵家の次男で、セリスティアより六歳年上である。
まだ家の中しか知らぬような小娘には、まもなく騎士学院を卒業する青年がひどく大人に見えて戸惑ったことを覚えている。
そんな世間知らずの子供相手であっても、年上の婚約者はとても紳士的であった。
愛想がいい訳ではなくとも言葉も物腰も穏やかで、晴れの日の静かな夜明けのような空気を持つ人だった。
年齢差はあれど、控えめな性分のセリスティアとはとても相性が良かったと思う。
セリスティアは長女であるがアイオン伯爵家にはまもなく六歳になる長男がいるため、婿取りではなく嫁に行く予定である。
しかしソードレイク伯爵家にも健康で優秀な嫡男がいるため、ジャイルは万が一のスペアとしての教育はされども、本人は素質のある騎士の方面へと意識を向けていた。
婚約の話が出た頃には騎士学院卒業後に王宮騎士団への入団も内定していた。
そのためセリスティアは婚約後、騎士の嫁として必要な知識と技能の習得、それから人脈作りに重きを置いて生活した。
前もって方針が決まっていれば進学後の専攻や行動も選びやすく、多少の年齢差はむしろ助かる気分だ。
そうして二人は活動範囲も生活リズムも全く異なりながらも、ゆっくりと穏やかに交流を深めていったのだった。
五年の間にこれといった山も谷もなく、二人は平和な草原をゆっくりと並んで歩くように関係を育んできた。
饒舌ではないけれど、質問すれば大抵のことは教えてくれた。
もちろん機密事項に抵触する場合はきちんと断ってきた。
その積み重ねでセリスティアも聞いていいこと、聞いてはいけないことを学んできた。
またジャイルは家を継がないので現在騎士爵であり、結婚するセリスティアもまた騎士爵の嫁となる。
なのでセリスティアの進学先は礼節と社交を主とする貴族学校ではなく、平民の多い国営の学園を選んだ。
入学後は騎士に関する歴史や情報を学び、家政や家事全般を覚え、平民の暮らしや事情なども積極的に調べ、必要な知識と技量を蓄えてきた。
その中には知らずにいたかったことも多くあった。
騎士とは華やかな飾りではなく闘う者たちのことであり、悲劇も苦悩も避けては通れないのだと理解せざるを得なかった。
理解して、覚悟しておかなければいけないのだと気付いた日の夜は、枕を抱えてこっそり泣いた。
だってセリスティアはジャイルに好意を抱いている。
物語のような燃え上がるような激しい想いでなくても、劇的な出来事なんて起こらなくても、周囲には伝わりにくい静かなものであっても、誰かを想う気持ちの根源に変わりはないのだ。
失う覚悟などすぐに抱けるはずがなかった。
たとえ覚悟していても、悲しみは薄れないのだろうとも感じた。
セリスティアが十五歳になってすぐの、秋の日の夜だった。
──あの日からまだ一年も経っていない。
セリスティアは別の意味でジャイルを失おうとしていた。
それなのに頭の中はどこか冷静で、混乱することなく彼の言葉を聞いている。
「セリスティア・アイオン伯爵令嬢、すまないが本日を持って貴女との婚約を解消させていただく。この件はアイオン家当主殿にも話は通してあり、現在は両家の合意の元で書類を作成中だ」
アイオン伯爵家の応接室で二人きりで向き合ってすぐだった。
セリスティアにとっては唐突な宣言だったが、すでに家同士の話は付いているらしい。
それならば婚約解消は決定事項なのだ。
つまり今行われている、定例の婚約者との交流の場は報告のためだけに設けられたものであり、当人が説明のために訪問したのはジャイルなりの誠意なのだろう。
彼の感情を排した無機質な声音を初めて聞いた。
その件は話すことが出来ない、と回答を断る時であっても、その言葉には温度があった。
とても、不器用なまでに真面目な人なのだ。
だからこの婚約解消の理由は利益や悪意が絡んだせいではないと信じられた。
それに断れない理由なのだろうと、想像できてしまったから。
「理由をお伺いしてもよろしいのでしょうか」
「予測していたのかな。君はとても勤勉で優秀だね」
「……私を振った方に褒めて頂いても嬉しくありません」
せめて事情を説明してほしいという懇願ではなく、遠回しに守秘義務の確認をしたセリスティアにジャイルは感心したように微笑んだ。
だけど本当にちっとも嬉しくなかったので、曖昧な笑みしか浮かべられない。
虚を突かれたように目を見張る婚約者を見て、セリスティアはますます眉尻を下げた。
当たり前のようにセリスティアに褒める姿に悔しさすら感じる。
だって想像通りなら、この男はセリスティアより国を取ったのだ。
騎士ならば当然のことだと思う理性と、非もなく捨てられる側が悪態ぐらいついて何が悪い、という感情がせめぎ合って泣いてしまいそうだった。
だけどセリスティアは目の奥に溜まる熱を無理やり押し込んで、まっすぐジャイルを見つめる。
理由が何であれ真面目な彼はきっと二度と自分の前に現れないだろうと確信できるから、泣くならせめて、彼が帰ってからがいい。
意識を切り替えるよう一瞬固く瞑って、再び開いたジャイルの目には強い決意が宿っていた。
何度も考えて選んだのだと分かるから非難は飲み込む。
「今年の秋から第二王子殿下の特別専任護衛騎士になる。来月の頭から本格的に引き継ぎも始まる。だから、結婚はしない──この先、誰とも」
ああ、やはりその件なのか、とセリスティアは諦めに似た感情を抱いた。
わが国には特別専任護衛騎士、という他国にはない特殊な制度がある。
公私ともに常に主君の傍近くに控え、主君にのみ心身ともに忠誠を誓い、あらゆる害意を遠ざける盾となる存在。
王家の血筋に近しい者は全員例外なく、必ず二人の専任騎士を伴っていなければならない。
始まりは建国時代まで遡る。
三百年ほど前、戦争に敗れずっと東の故国から逃げてきた祖先たちは、当時は不毛の地だったこの地へたどり着いた。
しかし土地はあっても水も植物も道具すらない。
いよいよ限界かとなったその時、一人の青年が命がけで神に願った。
仲間たちを助けてほしい。
身を滅ぼすような贅沢よりも穏やかな安らぎを与えたい。
我々はたくさんものを失った。
せめて未来ある子供たちに慈悲を────
身を削り命を燃やし私欲を排したその祈りは、奇跡的に神に届いた。
亡命者たちの夢の中に現れた神は、土地に豊穣の恩恵を、青年に護りの加護を与えたと告げた。
──青年を王としてここに国を築き、腐敗なく健やかにあれば、他国に侵略されることはないだろう、と。
心底疲れ果てていた国亡き民たちは泣いて喜び、一晩の内に現れた川と植物に歓喜し、神に深謝の祈りを捧げた。
そうして我が国は建国した。
そこそこの歴史の中、小競り合いはあれど大きな戦争が起きていないことこそ王族の護りの加護を示していた。
と、それだけでは時間と共に疑う者も多くなったはずだ。
しかし強い恩恵は強い弊害も伴っていた。
与えられた神の力が魅力的過ぎたのか、はたまた相性が良すぎたのか、初代王となった青年以下、加護を与えられた王族は皆、異常なほど周囲から好意を寄せられるのだ。
それは人のみならず──人外をも引き寄せた。
初代王は死後を神に捧げた。
初代王の息子の一人は精霊に魅了されて人界を去り、一人は愛憎に狂った女に命を奪われ、娘は常闇の神に見初められて連れ去られた。
三人目の息子が王位を継いだが、その子供たちも夭逝するか人界からいなくなる。
建国からわずか半世紀で、初代王の血を引き加護を宿す者が王妃の腹の中の胎児のみとなった時、ついに周囲は異常を見て見ぬふりできなくなった。
このままでは産まれてくる子供も人としての生が危うい。
加護がなくなることも問題だが、大恩ある始祖王の血族をこれ以上奪われ続けるわけにはいかない。
そうして設立されたのが特別専任護衛騎士だ。
国を護る主君を、人から人外から護るためだけに生きる者たち。
騎士自身の私はないも同然な制度である。
忠誠もまた主にのみ、私的な関係者は後回しどころか、脅迫されるような事態になっても反応することすら許されない。
たとえそれが自分の親や配偶者や子であったとしても。
だから特別専任護衛騎士は基本独身だ。
制度初期の頃は陰惨な事件が多発したらしく、現在は明記されない暗黙の了解がいくつもある。
護衛のために必要な範囲で自由裁量が適応すること、特別専任護衛騎士の周囲の関係者に危害を加えた場合は厳罰な処分がくだされること、配偶者のいるものは辞退可能なこと、大きなことから些細なことまで数え切れぬほどあるらしいが、それすら随時調整しているのだとか。
それもこれも、憂いなく本気で王族を護るため。
延いては国と民を護るため。
護衛騎士の名の通り、護ることに特化した特殊な制度だ。
ジャイルの引継ぎが始まっているのなら、こちらもすでに決定事項だ。
正確には特別専任護衛騎士の話が決定したから、婚約解消も決定したのだろうが。
どちらにしても、彼はもうセリスティアの伴侶にはならない。
「相談してくださらなかったことだけは恨みますわ」
「そうだな、すまない」
「事後報告なんて卑怯です。納得できなくても受け入れるしかできないではないですか」
「ああ、そのとおりだ」
「言い訳はなさらないの?」
「できるわけがない」
「まぁ。自分で納得させる気もないのね。ますます卑怯だわ」
「困った、返す言葉もないな」
感情的ではないけれど、感傷のままに言葉を吐き出しても相手は受け止めるばかり。
侮っても面倒がってもいない、こんな小娘の癇癪をただ真摯に受け入れている、どこまでも真面目な人だった。
とても大事な仕事なのに、私を含めた皆のために危険な任務につくというのに、無事を祈りながら送り出してあげることが出来ない。
だって今回ジャイルが特別専任護衛騎士を引き継ぐことになったのは、前任の騎士が護衛任務を続行できなくなったからだ。
昨年、第二王子殿下と隣国の第三王女殿下の婚約が決まった。
あちらの王女が我が国へ嫁入りしてくる形だが、顔見せと挨拶に、と今年の春に一度来国していた。
王女様は一目で婚約者をお気に召したらしい。
その王女様に同行していた護衛騎士が、お茶会の席で第二王子殿下に襲い掛かったのだ。
原因は恋い慕っていた姫が奪われそうになったから、という騎士にあるまじき私怨だというのだから、公表された時は隣国と険悪になりかけた。
当事者の王族二人の必死のとりなしにより、元凶の横恋慕した騎士以外の部分はひとまず鎮火したが、第二王子殿下を庇った特別専任護衛騎士の一人が負傷していた。
幸い傷は深くなかったが目元だったので、視力が落ちたようだと噂されていた。
治療後の復帰は当人も交えて長く審議されていたが、回復の見込みよりも徐々に悪化する傾向が強いと診断され、任務に支障が出る前に新しい騎士が任命されることとなった。
なお前任の騎士が動ける場合は当人により引き継ぎが行われ、難しい場合は相方となる騎士の指導を受ける。
そのために特別専任護衛騎士は二人一組だ。
怪我をした人は実はジャイルが王宮騎士に配属された時に直接指導してくれた先輩なのだと知った時から、セリスティアは不穏な気配を感じていた。
尊敬しているのだと聞いたことがあった。
いつか恩を返したいと。
共に過ごす仲間の話を尋ねたこともあった。
だれそれは今度結婚し、別のだれそれは今度子供が産まれるだとか。
色んな情報が頭の中を回って巡って……ある日唐突に気付いた。
義理堅く真面目な彼の事だ、声をかけられた時はきっと断らないだろう。
遅くなった結婚を間近に控えている先輩より、まだ騎士になって間もない後輩より、まだ再婚約可能な年下の婚約者をもつジャイルこそが最も負担が小さいだろうと。
セリスティアが悲しむと想像して自分のことを責めながら、それでもあえて困難な道を選ぶ愚直な善人なのだ。
だけど、もしかしたら他の人が選ばれるかもしれない、セリスティアを選んでくれるかもしれない、そう考えたこともある。
結果は惨敗だ。
「恨んでいいよ。思い切り腹を立て尽くしたら私のことなど忘れてしまえ」
「……ええ、すぐに忘れますわ。新しい婚約者を探さなくてはならないもの」
「そうだな。出来れば騎士以外がいいな」
「そうですね。騎士の婚約者なんて、もうこりごりです」
いくら減らず口を叩いてもやっぱり受け止めてばかりで、じわじわと寂しさが込み上げてきた。
だけど、他に何を言っていいのかわからない。
罵詈雑言で一方的に責めるには知識と理性が歯止めする。
かと言って感情的にすがりつくには熱意が足りない。
とても大切にしてきたけれど、ゆるく優しく長く暖め続けるような穏やかな好意だったから。
彼の言うとおり、一通り泣いて悔やんで惜しんだ後は、そっと静かに消えるだろう。
同意できるからこそ寂しくてたまらない。
いつしかセリスティアは言葉を失い、応接間は沈黙に包まれた。
話が終わったら帰ってしまう。
退出したら二度と会話をする機会は失われる。
最後に伝えておきたいことはないかしら、とジャイルを見つめながらぼんやり思案した。
初めて会った時も大人びて見えたが、今はすっかり大人の青年だ。
セリスティアも少しは大人に近づけただろうか。
婚約が結ばれたばかりの頃は常に気にしていた年齢差のことを、しばらくぶりに思い出した。
あの頃は背伸びに必死で空回ってばかりだったわ。
『急がなくていいのですよ。私もまだまだ成長途中なのです。今も婚約なんてしなければ良かったと後悔されないよう努力中です。良ければ私と一緒に、ゆっくりと素敵な大人を目指しませんか』
情けなくて不甲斐なくて思わず泣いてしまった時、かけられた言葉を思い出した。
大人びて見える青年が成長途中なら自分などひよっこで当たり前だ、と何故かすとんと納得してしまった。
それとも一緒にと言われたのが嬉しかったのかもしれない。
いつの間にかあの頃の自分はもう遠く、思い出せなくなってしまった。
もう約束したように一緒に歩いてはいけないけれど、大切なことを思い出せて良かった。
自然と浮かぶままにセリスティアは微笑んだ。
「ジャイル様。貴方と婚約したことを後悔したことはありません。今までありがとうございました」
ひゅっと強く息を吸って数秒固まった青年は、かつての優しい婚約者の顔で柔らかく笑った。
「こちらこそありがとう。君と出会えたことは人生最大の幸運だったよ」
その声は優しく甘く、だけどきつく握りしめた手だけが僅かに震えているようで、セリスティアは見ないようにそっと目を閉じた。
「──どうか、お元気で」
「──ああ、君も息災で」
あんなに軽口を叩いていたのに、別れの言葉は少なかった。
見送るために立ち上がろうとしたセリスティアを手で留め、ジャイルは一人で去っていった。
遠ざかっていく足音すら聞こえなくなると、体はズルズルとソファに倒れ込む。
せめて自室に戻るべきだと理性は言うが、脱力して動けない。
今日で五年間続けてきた交流が終わるのだとまだ実感がわかない。
だって、今日、ついさっき話が出て、今もう全てが終わっているとか言われても気持ちが付いていけない。
でもこれもジャイルなりに考えた結果なのだろう。
もし前もって宣言されていれば、私は今日のように減らず口なんて叩かなかった。
きっと物分かりのいいフリをして言いたいことを飲み込んだはずだ。
溜め込むより吐き出す方がいいと判断したのだろうけど、罵倒されるつもりで予定を組むなど愚直にもほどがある、と思わず嘆息する。
しかも数日したら長期休みだ。
学年末試験が終わったところなので、明日から休んでも問題ない。
そんなことにまで気を回すところがあの人らしい。
しかし騎士の嫁にならないのならば今の専攻を受け続ける理由もないので、休み中に最後の一年をどうするか考える必要もありそうだ。
考えなければならないことは沢山あるのに、頭は働いてくれない。
どうして、と意味のないことを考えてしまう。
『恨んでいいよ。思い切り腹を立て尽くしたら私のことなど忘れてしまえ』
不意に思い出した先ほどの言葉が、すとんとお腹に落ちた気がした。
ああそうだ、まずは思いっきり腹を立てて悔しがって悲しもう。
そうして気が済んだら次の事も考えよう。
セリスティアにもそれくらいの権利はあるはずだ。
──そう思ってしまったら、もう駄目だった。
「……っ、ふ、うっ、っ、ぅえっ」
物語のような燃え上がるような激しい想いでなくても、劇的な出来事なんて起こらなくても、周囲には伝わりにくい静かなものであっても、恋を失うと悲しいのだ。
一度堰を切った涙と嗚咽は止められず、セリスティアは応接間のソファにうずくまったまま泣いた。
※※※
大好きだった優しくて真面目で酷いあなた。
あなたが望んだ通り、泣き暮らした後はあなたのことを忘れましょう。
あなたの存在は記憶に残し、恋する気持ちだけ捨て去りましょう。
静かで穏やかな灯火のような恋だったから、蓋をして新たな空気を送らなければ自然と消火してしまうでしょう。
新たな火種は、次の婚約者のために使います。
だから私は大丈夫よ。
──ああ、でもあなたの灯火はどうなるのかしら。
私を大切に想っていてくれたこと、ちゃんと知っているのです。
あなたのことだから、中の見えない頑丈な箱の中に大切にしまい込んでしまいそうだわ。
灯ったままなのか消えてしまったのか、本人すらもわからないままになりそうで、それだけが心配です。
どうか私のことも忘れてください。
国の為に身を捧げる覚悟をした尊敬すべきあなた。
いつか自分のための幸せも探してください。
──おいて行かれた私は待てないけれど、あなたに安らぎと幸福に満ちた未来が訪れることを願っています。
特別なものも抗う術も持たない普通の少女と、不器用な青年が初恋を失うお話。




