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最後の演説は聴かれなかった。

作者: イチジク

アンデスの朝は、街灯のない町ほど真実をはっきり見せる。薄い光が段々畑の縁をなで、風は乾いた土の匂いを運んだ。九十歳の男は戸口に腰をかけ、両手で湯飲みを包んでいた。指先の節は節くれだっていて、爪の縁に土が入り込んでいる。彼はここで十年以上を過ごしていた。村人たちは彼を「ドクター」と呼んだり「アウグストさん」と呼んだりしたが、そこに政治的な名は存在しなかった。遠い時代の名は、ここでは埃のように積もっていた。


朝食の後、彼は庭に出て、枯れ気味のハーブを軽く手入れした。体力は落ち、歩行はゆっくりだが、手だけはまだ仕事を覚えている。村の子どもがそばを走り抜けると、彼は無意識に手を振った。子どもの笑い声は彼の胸の奥に小さな波を立てる。波はすぐに消えたが、その消え方が昔と違うと彼は感じていた。記憶の端がほころび、出来事は順序を失う。夢と現実が紙一重で交差する日々だった。


午後、教会の前で小さな封筒が渡された。封筒は粗末で、封がかけられていない。差出人は書かれていなかった。中には写真が一枚と、短い手紙が一枚だけ入っていた。写真は曇りがかったモノクロで、小さな家族が写っていた。中央の女の人はむっつりとした笑みを浮かべ、幼い子が母の膝に寄り添っている。手紙は手書きの数行――字は震え、しかし意志は確かだった。


「あなたが忘れず、話してくれることが、私たちがここにいた証拠になる。」


彼は写真を指でなぞった。写真の中の目は、自分に非難を向けているわけではない。ただ、名前を呼んでほしそうにしていた。彼はその要求の重さを理解する術が薄れていたが、胸のどこかで音を立てた何かを感じた。紙切れを折らず、燃やさず、箱の一番奥にしまった。夜、ベッドの薄い掛け布団の下で、彼はそれを手に握りしめ、しばらく眠れなかった。


村では彼が過去の人間であることを気にも留めない者が多かった。彼は薬を与え、古い工具を直し、子どもの靴底を張り替える。彼の行為は些細で確かな効用があった。だが外からやって来た者は、この静けさの裏に何があるかを感じ取る。ある日の夕方、長距離バスでやって来た一人の女が村の小さな宿に泊まった。彼女はジャーナリストだった。歳は四十手前、目つきは疲れていたが、どこか決意めいたものを帯びている。彼女は「過去の人物」の噂を追っていた。噂というのはいつもそうだが、事実と虚構を等量に混ぜていた。


ジャーナリストは村の図書館の古い名簿をめくり、教会の老人たちと話をし、宿の屋根裏で着の身着のまま眠る若者から情報を集めた。誰もはっきりとは言わない。だが何人かが小声で「彼は…遠い国のあの男に似ている」と打ち明けた。女はその「似ている」を糸口に、村での暮らしを知ろうとした。彼女が最初に会ったのは、村の助産師だった。助産師は彼のことを「私たちの助けてくれる人」とだけ言い、過去については目をそらした。


彼女は直接、彼の家を訪ねた。ドアをノックしたとき、彼は新聞を肩にかけ、ラジオの小さなスイッチをいじっていた。彼女の存在に気づくと、彼はゆっくりと立ち上がり、玄関に出てきた。ジャーナリストは自分の名を名乗り、丁寧に目的を説明した。彼はしばらく黙っていた。表情に動揺がなく、ただ目が遠くを見ていた。彼女は「お話を一つ伺いたい」と続けたが、彼は首を振り、断ることはしなかった。ただ、「中に入って」とだけ言った。


二人は古い木のテーブルを挟んで座った。日差しが窓から斜めに差し込み、埃が静かに舞っている。ジャーナリストは録音機を取り出し、許可を求めた。彼の手は震えていたが、断らなかった。「私はもう話すべきことがあるかどうか、わからない。」と彼は言った。その言葉には説明が付随していた――語れない理由ではなく、語る意味が彼の中で不確かになっていることを示していた。


時間はゆっくりと流れ始める。彼は若き日の記憶を断片として語った――演説場の熱気、群衆の波、そしてそれに伴う名声の重み。しかし、それらの映像は常に別の記憶に侵される。夜の暗い寝台、飢えた顔の子どもたち、途切れ途切れに聞こえる小さな歌声、そして同じ誕生日の少女――私の喜び。

記憶の順序は乱れ、彼は自分が何を行ったのか、どれほどの人々を傷つけたのか、完全には整理できない。過去は断片となり、彼の胸の奥で静かに、しかし確実に重さを増していく。ジャーナリストは冷静な筆致でメモを取り、時折彼女自身の言葉で問いを差し入れた。問いは彼にとって痛みよりも記憶のかすれを呼び覚ますようだった。


彼は最後に、ある「演説」を用意していたと話した。その演説という言葉は、かつての力を取り戻すためのものではなく、自分が聞かせるべきだと感じた「事実の列挙」であった。彼はテープレコーダーを脇に置き、メモを取り出した。字は震え、行間に苦しさが滲んでいた。「私は覚えている。名前を挙げる。責任を逃がさない。受け止める。」と短いフレーズが並んでいた。ジャーナリストはそれを見て息を呑んだ。そこには具体的な場所や日付、群衆の数などは書かれていない。ただ、人の名や小さな出来事の断片が並んでいた。


彼女は録音を進めることを提案した。公開すれば世界は驚くかもしれない。だが彼女の目には別の考えが浮かぶ――一つの録音がどれほどの重さを持つか。被害者の家族にとってそれが癒しになるのか、逆に再び傷をえぐるのか。ジャーナリストは決定を先延ばしにした。彼女が立ち去る日の朝、彼は玄関に小さな包みを置いた。包みの中には古い写真と、彼が短く書いたメモがあった。「覚えている」とだけ書かれている。


その日の午後、彼は日課のようにラジオの前に座り、耳の遠さと闘いながら古い録音を探した。若い声、群衆のざわめき、悲鳴のように混ざる歌。彼はマイクを手に取り、ゆっくりと息を吸った。カセットの赤いランプが小さく点いた。指が録音ボタンに触れる瞬間、窓の外で子どもの歓声が高く上がった。小さな米俵を引く母親の笑い声、教会の鐘の不規則な音。彼は手を引いた。言葉は口をついて出なかった。録音の前の沈黙が、これほどに重いとは彼は思わなかった。


夜になり、彼はベッドに入った。風が薄いカーテンを揺らし、星が低く瞬いている。胸の中で何かが折れたような感覚があり、彼は短く息をして眠りに落ちたまま、目を閉じたまま息を止めた。朝が来ることはなかった。村の小さな朝、鶏が鳴き、子どもたちがまた遊び始めたとき、彼の家の窓は静かに閉じられていた。誰かが戸を叩き、誰かが医者を呼んだ。だが彼の顔は穏やかで、眠りにつく前に見せたあの微かな解放のような表情のままだった。


遺された箱の中に、彼のメモと写真と、未使用のテープが入っていた。テープは巻かれたままで、赤いランプは一度も点かなかった。ジャーナリストは村に戻り、助産師や教会の老人と話をした。村人たちは彼を悲しんだが、憎しみでも賛美でもなかった。死は彼らの日常に新しい話題を一つだけ置いていった――誰かが名前を呼ぶことで始まる記憶の列。写真は教会の奥の小さな引き出しにそっとしまわれ、助産師はそれを「いつでも見られるように」と言った。記録は、村の小さな慎ましい場で、ひっそりと保存された。


世界はすぐには知ることがなかった。噂はやがて街へ、新聞へと流れたが、テープは再生されなかった。ジャーナリストは彼のメモを一度だけ手に取り、名前を読み上げた。彼女はその名前を新聞に書き記すことを選ばなかった。なぜなら、言葉が持つ力は二面性を持ち、その使い方が人々をどう動かすかは計り知れなかったからだ。彼女はメモの名前をノートに写し、匿名でいくつかの家族にそれが存在することを知らせた。その反応はさまざまだった――涙、沈黙、怒り、そして黙祷。いくつかの家族は小さな祈りの場を作り、ある者は写真を見に村を訪れた。


最後の演説は聴かれなかった。だが彼の沈黙そのものが、ある種の音を生んだ。忘れられた声が、小さな村の教会で、名を呼ばれ続ける限り、消えはしないという音。世界を揺るがした言葉がもう一度燃え上がることはなかったが、小さな人々の名が一つずつ読み上げられるとき、それは歴史の別のやり方で裁かれていった――声ではなく、記憶によって。


窓の外では、少年が石を蹴り、犬が日なたで寝そべっている。季節は変わり、畑はまた耕される。古い地図の上の国境線は変わらずそこにあるが、真の境界線は人の胸の中に引かれている。彼が残したメモは、誰かの手で静かに保存され、名前はそれぞれの記憶として生き続ける。演説がなくても、物語は終わらなかった。それはむしろ、別の名で続いていった。



この物語で描いた人物は、あくまで記憶と心理の断片を通して描いた一人の老人です。もちろん、彼が善人であったわけではありません。過去の行為や歴史的事実は変わらず、責任も消えません。ただ、物語として彼の「老いと記憶」を描くことで、歴史の重さや罪の影を感じてもらえればと思います。

――まぁ、こんな善人じゃないけどね。

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― 新着の感想 ―
とてもいいお話でした。 過去の罪と後悔を、一人の老人が胸の奥に仕舞い続けていた。 別の誰かがそれを解き放ってくれた。 それだけのお話なのですが、胸に迫るものがありました。 取り返しのつかない罪を背負っ…
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