届いた手紙 4
母のいない生活を送るうち、いつしか思いをのみ込むのが癖になった。
悲しいのは父だって同じだ。苦しいのも不安なのも、きっと同じ。
そのことは、幼い自分にだって痛いほどわかった。だからこそひとり暖炉に向かいお酒をのむ父の背中が、あんなに悲しげに震えていたのだろうから。
だから決して母がいなくなったことを、母の存在が屋敷から消えていくのを悲しいとか辛いとか言ってはいけない。そう思うようになった。
そして、心の中に思いを閉じ込めた。
悲しみも寂しさも、辛さも孤独も全部――。
父が消え入りそうな声で、ぽそりとつぶやいた。
「ごめんな……、アグリア。もっとお前の思いを受け止めてやるべきだった。いつの間にかお前はあいつの代わりを立派に果たせるようになっていた。料理も、洗濯も……、屋敷の細々としたことまであいつの真似をして」
そう。母は元気だった頃にしていたことをなぞるように、ひとつひとつ覚えていった。そうすることでほんの少しだけ、母のぬくもりを感じられる気がしたから。
それに父だって喜んでくれた。すっかり笑うことの少なくなった父の顔に、昔のような笑顔が浮かぶのを見るのが楽しみになっていた。
それがいけないことだったんだろうか。本当はもっと父に泣きついて、寂しいとか辛いとか叫べばよかったんだろうか。
「だってあの時はああするしか……。お父様だってそうでしょう? 私もお父様も、ただ必死だっただけ……。ああするしかなかったの」
「……」
父の大きな手が、くしゃりと髪をなでた。
「……?」
父に頭をなでてもらうなんて、何年ぶりだろう。年頃になってからは当然こうした触れ合いはなくなった。親子とは言え異性だし、きっと遠慮していたのだろう。
なんだか突然に気恥ずかしくなって、手に持ったままだったお茶の残りをぐいとのみ干した。
「お前は優しい子だ。でも、もうそうして思いを閉じ込めるのはやめた方がいい。口に出したっていいんだ。……いや、違うな。言わなくてはいけないんだよ。アグリア」
「言うって……何を? 私は別に我慢していることなんて……」
瞬間、シオンの顔が脳裏に浮かんだ。
思わず口をつぐみ黙り込めば、父が小さく笑った。
「アグリア、お前がこの領地を大切に思ってくれていることはよくわかっている。でもな、そのために自分の幸せを後回しにする必要はない。お前は、お前の幸せのために自由に生きていいんだ。そのために生まれてきたんだから」
「お父様……」
自分の幸せ、とは何だろう。ずっと押し込めて見ないふりをしてきた、自分の思いとはなんだろう。
その時脳裏にシオンの笑った顔が浮かんだ。
普段はどちらかと言えば表情豊かな方ではないけれど、時々まるで子どものようにくしゃり、と顔を歪めて笑う顔が好きだった。
困ったように眉を下げて苦笑する顔も、ふとした時に見せる甘い笑みも。一緒に過ごす穏やかな空気感が優しくて、愛おしかった。
(シオン……。本当は私、シオンと離れたくないって思ってる……。本当はもっとずっと一緒にいたいって。契約とかそういうのはどうでもよくて、ただもっと近くにいたいって……)
シオンの声も笑顔も、まだ見たことのない表情も全部近くで見てみたい。ずっとここで、この屋敷で同じ空気を感じていたい。
それが今の自分の中にある望みのすべてだった。
そのことにはじめて気づいて、はっと父を見やった。
「お父様……、私……」
庭先に視線を向けたままの父に、告げた。
「私……、この契約が本当になってくれたらって思ってる。五年間だけじゃなく、もっとこの先もシオンがここにいてくれたらって……。でもそれはシオンにとっては迷惑かもしれないし、そもそも結婚自体したくなかったくらいだし……」
「……うん」
「お母様を亡くしてからのお父様の姿を見ていて、あんなに辛い思いをするくらいなら愛のある結婚なんていらないって思ってたの。別れが辛くなるなら、はじめから愛のない結婚をすればいいって。だからシオンと……」
ただ淡々と形だけの夫婦として数年を別々の場所で過ごして、時期がきたらお別れすればいいと思っていた。そうできるはずだって。
けれどシオンと過ごす日が続くうちに、思いは大きく育っていた。
「こんなはずじゃなかったの……。シオンにこんな思いを抱くなんて、思ってもみなかったのよ。領地の未来を守れればそれでいいって思ってたのに、まさかこんな……」
今はただシオンといたい。領地のことはもちろん大切なことに変わりはない。でもそれとは別のところで、自分のすべてがシオンを必要としていた。思わず衝動的にシオンに触れてしまうくらいに。
「シオン君との結婚話を聞いた時は、驚いたよ。こんな結婚を許していいものか、と悩みもした。でもモンバルトからシオン君の人となりを聞いて、いい機会だと思ったんだ」
「機会……?」
父は穏やかに微笑んで、こくりとうなずいた。
「あぁ。お前が幼い頃にあきらめてしまった思いとか欲みたいなものをもう一度取り戻すには、やっぱりそれだけの出会いが必要だと思った。それはもう俺にはできないことだ。そのいいきっかけに、シオン君がなってくれるんじゃないかと思ったんだよ」
父の言葉が、どうしてかじわりと胸に染みた。
きっと父はずっと心をどこか閉ざして幸せをあきらめ臆病になってしまった娘を、心配してくれていたのだろう。ほろ苦い後悔を抱きながら、どうにかして目を覚まさせて幸せになってほしいと願ってくれていたんだろう。
そんな思いに背中を押された気がした。
「私……、モンバルト先生に聞いてみる。過去をこそこそ聞き出すようで気は咎めるけど、もしもシオンに何かよくないことが起きようとしてるなら私、何かしたい……。ただ見ているなんて嫌なの……」
たとえ紙切れ一枚でつながった形だけの関係でも、ひとつの縁であることに変わりはない。ならその縁を大切にしたいって思うのは、おかしいことじゃない。
たとえ結末がどうなったとしても、やれることがあるのならやってみたい。
父はふっと安堵したように笑って、うなずいてくれた。
「あぁ。もしもお前が思いを打ち明けてもどうにもならなかったら、一緒にやけ酒でもしよう。ふたりで山ほど恨み言でも言えば、少しはすっとするさ」
「もうっ! またお父様ったらモンバルト先生みたいなことを言うんだから。言っておきますけど、私はそんなに酔っぱらったことなんて一度もありませんからね! 人をいつも飲んでるみたいに言わないでちょうだい!」
わざと大げさに頬をふくらませて怒ってみせれば、父がカラリと明るく笑った。
その笑顔は、母がまだ元気だった若かりし頃の父のそれと重なって見えた。
それからしばらくしてようやく屋敷に戻ってきたシオンを、玄関で出迎えた。
「おかえりなさい。シオン」
「あ……あぁ。ただいま……」
心なしかシオンの表情が暗い。視線もろくに合わせようとしないシオンに、嫌な予感がした。
「どうかしたの? モンバルト先生のところで、何かあったの……?」
そう問いかければ、一瞬の沈黙のあとシオンが答えた。
「……アグリア。急で悪いが、三日後にこの領地を出ることにした」
「え……?」
血の気がすっと引いた。
「……すまない。君との結婚は君の都合のいい頃合いで終わりにしてもらってかまわない。でももう、会うのはこれで最後だ……」
理由については何も言わなかった。ただ養子縁組の話が整い次第、急ぎ離婚してほしい。そしてもう二度と領地に戻ることも会うこともない、とだけシオンは告げたのだった。




