奇妙な距離 3
シオンはちらと隣を歩く自分より頭ひとつ分小さな姿を見やった。
無言で屋敷までの道のりを歩きながら、先ほどのメリダの言葉を思い出した。
(あれは……もしかしなくても、俺とアグリアの間に生まれた子の話だよな。まぁごく普通の夫婦なら、子の話が出るのも普通か)
あのルンルミアージュがあっという間に懐いたくらいだ。きっといい母親になるに違いない。
なら、その子の父親は――。
ふとそんな想像をして、首をぶんぶんと振り払った。
(俺には何の関係もない。だって俺とアグリアはただの……)
自分で言い出した契約結婚だ。今さらどうしようもない。でも何なら契約の折に、ひとつ書き加えておくべきだった。
『仮に、婚姻を形骸的なものから実質的なものにする双方の同意があれば、婚姻を永続的に継続してもいいものとする』とか、そういう内容を。
そんな馬鹿なことをちらと考えて、そっと嘆息した。
(何を考えてるんだ、俺は馬鹿か。これは……あれだな。王都で不用意に近づき過ぎたせいだ。こんなおかしなことを望んでしまうなんて……)
一緒に王都へ行く羽目になったことも想定外だったが、それ以上にまさか夜会にまで行くことになりあまつさえ同じベッドに寝ることになるなんて思いもしなかった。
いくら結婚自体に興味もなければ、そもそもこの先の人生生きることにすら希望も目的もなかったとは言え、健康な成人男子なのだ。
ああも近くに体温を感じては、意識しないなんて無理だった。
(いや、違うな……。他の女性にどんなにすり寄られたところで、嫌悪感しかない。こんな気持ちになるのは、アグリアだからだ)
こののどかな自然以外は一見何もない領地で、アグリアとともに暮らす日々。
砲弾の音も火薬の匂いもしない、静かで穏やかな空間。
屋敷の中にはアグリアの作る料理のいい香りが漂い、自然と腹が鳴る。
清潔に洗濯されたシャツからはアグリアと同じ石鹸の香りがふわりと立って、ふいにドキリとする。
外で薪を割っていると時々聞こえる、調子はずれのアグリアの鼻歌。
そんなアグリアをきっとあきれ顔でけれど娘への愛情あふれる眼差しで見つめる、ローグの顔。
身分や立場など関係なくあたたかく心を通わせる、気のいい領民たち。
自分をまるで本当の兄か何かのように慕ってくれる子どもたち。
そんな牧歌的なものひとつひとつが、自分の殺伐と乾いた心を潤し癒していくのがわかる。
と同時に、これまで自分が見てきた戦地の記憶とが、まるでここは自分のいていい場所じゃないと責め立てるようで――。
(このままってわけには……いかない、よな。アグリアの未来のためにも……、好意的に接してくれる皆のためにも……)
去るなら早い方がいいに決まっている。けれど、アグリアの笑顔を見るとどうにも言い出せずにいた。
できることなら、このままずっと――という思いが、欲が生まれる。
「……オン? ……シオン! どうしたの? ぼうっとして……」
いつの間にか、屋敷が近づいていた。
アグリアの声にはっとして、慌てて笑みを取り繕った。
「……なんでもない」
「そう……? ならいいけど……」
こちらをうかがうようにのぞき込むアグリアに、ふとたずねてみた。
「そういえば、メリダは君に何を聞いていたんだ? 追加注文とかなんとか……」
瞬間、アグリアの顔が一気に真っ赤に染まった。
「えっ⁉ な、なんでもないのっ! 本当になんでもっ、えっと……つまり……」
「……?」
どうやら口に出せないような代物であるらしい。
メリダのあの生温い笑みと余計なおせっかいとかなんとか言っていた言葉を思い出し、ピンときた。
(あぁ、そういうことか。多分男女の仲を深める系のそういう……)
そういう類の代物は、巷に多くあふれている。多分こんな牧歌的な田舎に暮らしている純朴なアグリアには、あまり目にする機会がないかもしれないが。
アグリアの真っ赤な顔をちらと見て、思わず笑いがこぼれた。
「そうか。……くくっ」
アグリアはきっと、いい妻、いい母親になる。
自分以外の誰か本当の愛で結ばれて、幸せな結婚ができるだろう。前の夫はずっと戦地に行っていて、白い結婚のままだったと言えばきっといい縁が見つかるだろうし。
けれどその相手は自分じゃない、他の誰かだ。
脳裏にもの凄い轟音とともに舞い上がる土埃と燃え盛る炎、そして煙の中に消えた友の姿がよみがえった。
(そうだ……。俺じゃない。絶対に……、俺にそんな資格はないんだ……。俺は、アグリアにふさわしくないから……)
荷物を担ぐ手に、ぐっと力を込めた。
(遅かれ早かれ、あと一、二週間もすればまた召集の知らせが届くはず……。そうしたらアグリアに離婚話を……。それまで、どうかこのまま……)
できるなら、その日が遠ければいい。一日でも長く、アグリアとこの穏やかな空気の中何もかも忘れてぬるま湯に浸かっていたい。
アグリアのかわいらしいつむじを見下ろし、そう願った。
自分が今にも泣き出しそうなほど切なげな顔をしているなんて、思いもせずに――。




