奇妙な距離 1
「アグリア、ちょっとこれを見てもらっていいか? ここなんだが……」
「あ、ええっとここは……」
王都から戻ってから、あっという間に一週間が過ぎた。
父の腰はすっかり治り、ルンルミアージュももういない。となればさっそく離婚の話し合いがはじまるか、と身構えていたのだけれど、今のところその気配はない。
それどころか――。
シオンが色々と普段手が回らない仕事をかって出てくれて、その説明をしようと近づいたのだけれどどうにもシオンとの距離が近い気がするのだ。
今日に限ったことではない。たとえばちょっとした行動の際にも、以前よりも距離が近づいている気がする。とは言っても別にわざと体が触れるようなことはないし、ギリギリ特別な関係の距離ではないと言える程度なのだけれど。
(別に嫌なわけじゃないんだけど、なんかこう意識しちゃうっていうか……。反応に困るっていうか……)
耳にかかるシオンの吐息に、どんどん体の熱が上がっていく。それをどうにかごまかそうと体をよじったら、ぐらりと足元が揺らいだ。
「うわっ……!」
「おいっ、大丈夫かっ! アグリア」
気がつけば、シオンにがっちりと抱きとめられていた。
「……あ」
目の前にシオンの顔があって、今度こそ顔から火が噴いた。
「ごっ……ごごごごごごごめんなさいっ! ちょっと足元がグラッと……」
シオンの吐息から逃げようとして密着していたら、世話ない。
「気をつけてくれ。さすがに君の看護は俺ではできないからな」
「はっ……!」
それはたとえばシオンが父にしていたような、熱いタオルで体を拭くとか体を支えるとかそういう――。
思わずその光景を想像して、ぶんぶんと頭を振った。
わざとじゃない。これは絶対にわざとなんかじゃないのだ。ただちょっとシオンの色気に当てられてしまっただけで。
気のせいか、王都から帰ってきてからシオンは変わった。
色気というか甘い空気がだだ漏れな気がする。
以前だってごく普通の表情の中にそうしたものがちらりとのぞくことはあったけれど、最近は日常化している気がしてならない。
(王都に行って、何か気持ちの変化でもあったのかしら……。それとも私が意識するようになった……だけ、とか?)
一瞬、ベッドでたくましい腕に抱きしめられた感触がよみがえった。
シオンの寝息が肌にかかった感触や、たくましい筋肉の力強さ。寝巻きを通して伝わる体温もありありと思い出されて、体からくたりと力が抜けそうになる。
(よくない……! 絶対にこれはよくないわ。このままじゃ、私シオンと普通の顔で向き合えなくなっちゃう!)
まるで自分ひとりだけ謎の感情に翻弄されているようで、なんとも釈然としない。
どうにか体勢を立て直し、深呼吸する。
「えっと、じゃあ私はそろそろ鶏小屋を見てこなくちゃいけないから! まとあとで!」
そう告げると、そそくさとその場を逃げ出したのだった。
ひとりになりほうっと安堵の息を吐き出した。
(まったくもう、シオンったら……!)
どうしてシオンの態度がそんなふうに変わったのか、理由はわからない。でも本音を言えば、ほっともしていた。
シオンが離婚話を切り出さない限り、きっとこの生活はまだ続くはずだから。
(別に私から切り出したっていいんだけど……。別に急ぐ必要だってないし……)
でもなんだかシオンの明るさが、不安でもあった。シオンが長くそばにいればいるほど、不安は増していく。
もしもこの先もシオンがここにいてくれるとしたら、自分はどうするんだろう。
そんな暮らしに慣れきった頃に、シオンはいなくなる。
果たしてその時、平静を保っていられるんだろうか。泣かずにいられるだろうか。
ほんの数日、義理の家族として過ごしたルンルミアージュや義家族との別れだって、あんなに寂しかったのに。
(シオンは一体どういうつもりなのかしら……。しばらく田舎暮らしを続けたくなった、とか? でもいつかはまた戦地に戻る気、なのよね……?)
穏やかで甘い日常の中にちらちらと見え隠れする不安に、なぜかひどく胸騒ぎがした。
夜になり、シオンと同時に部屋へと引き上げた。
自分の部屋の前で立ち止まり、シオンを振り返る。
王都から帰ってからというもの、これか日常になっていた。
「じゃあ、おやすみ。アグリア」
「え、えぇ。おやすみなさい。シオン」
もうルンルミアージュはいないのだし、シオンの部屋はもとの客間に移してもいいはずだった。
なのになぜかいまだに、シオンは自分の寝室の並びのままだった。
「……」
「……」
息がかかるほどの距離で、無言のまま向かい合う。
期せずして同じ部屋、同じベッドで眠った経験のせいだろうか。
夜になると、なんとも気恥ずかしいような甘ったるいもどかしい気持ちになる。
一体この気持ちはなんなのか。子どもでもないのに、この離れがたい寂しいような得も言われぬ気持ちは。
(早く……部屋に入らなきゃ……。でも……)
離れたくない。もっと一緒にいたい。シオンに触れたい。
そんな衝動に突き動かされそうになるのを、ぐっと意志の力で押しとどめた。
「じゃあ……おやすみなさい。また明日」
そう告げれば、シオンがこちらに手を伸ばした。
「アグリア……。髪が目に入りそうだ」
「あ……」
シオンの指先が、そっと額にかかった髪に伸びた。肌に触れないギリギリの距離で、優しく耳にかけてくれた。
「あ、ありが、とう……」
声がかすれた。けれどそれを咳払いでごまかし、ノブに手をかけた。
「じゃあ……」
これ以上一緒にいたら、きっと抑えきれなくなる。色々なものが噴き出して、きっと何かが変わってしまう。
「あぁ。じゃあ……また明日」
シオンの優しい声が、頭の上に降ってきた。
離れていく熱が寂しい、と思った。
自分の部屋へと去っていくシオンの大きな背中に、無性に抱き着きたくなった。その先のことなんて、何もわからなくても――。
(しっかり……しなきゃ……。こんな気持ち……絶対にだめ、なんだから……。だって、私たちはただの……)
ぎゅっと胸の前で両手を握り合わせ、部屋の中へと身を滑らせたのだった。




