第六話:静かな波紋と新たな訪問者
朝の霧が森を包み込み、木漏れ日が薄く揺れている。ハルナはいつものように小屋の窓辺に座り、朝露に濡れた薬草の葉をそっと撫でていた。葉の一枚一枚が朝日に照らされて輝き、淡い黄金色の光を放つ。風がそよぎ、柔らかな葉擦れの音が静かな森に響く。
この森は、ハルナにとって静寂と安らぎの場所だった。転生して以来、彼女は人と関わらず、ただ薬草を育ててのんびり暮らすことだけを望んでいた。しかし、現実はそれとはかけ離れていた。
ここ数週間、訪れる人の数は確実に増え、噂は遠くの村々まで広がっていた。ハルナの名前は知らず知らずのうちに「森の賢者」として伝わり、薬草の奇跡の力が人々を救うという話が一人歩きしているのだった。
彼女はこの変化を恐れていた。誰かに見つかること、期待に応えられないこと、何より人と話すのが苦手な自分が注目を浴びることに、強い不安を感じていた。
その日も、朝の静けさの中、突然馬の足音が遠くから響いてきた。普段は聞こえないその音に、ハルナは無意識に身を固くした。音は徐々に近づき、小屋の前の砂利道をしっかりと踏みしめる足音に変わる。
ハルナは一瞬迷ったが、慌てて小屋の奥へと身を引いた。彼女の心臓は高鳴り、鼓動が耳元で響くのがわかった。人の姿が見えない隙間から、彼女は外をこっそり覗き見る。
そこには、長いマントを羽織り、腰に立派な剣を携えた中年の男性が馬から降りて立っていた。年齢は四十代後半ほどだろうか。凛とした威厳があり、その目は深い知性と確かな決意を宿していた。
男性はゆっくりと森の奥へ向かいながら、静かな声でつぶやいた。
「森の賢者に会いたい……」
その言葉はまるで呪文のように、ハルナの胸に重く響いた。彼女は目を伏せ、内心で震えながら自分に言い聞かせる。
(これは……もう、逃げられない……)
小屋の奥で震えを抑えきれず、ハルナはそっと呼吸を整えた。彼女が望んでいたのは、誰にも知られず、静かに過ごすことだった。しかし、運命は違う道を歩ませている。
外から聞こえる男性の歩みは確かで、その気配は簡単には消えそうにない。ハルナは戸口までゆっくりと歩み寄り、震える手で薬草の一鉢を摘み取った。
黄金色に輝くその薬草は、今の彼女の唯一の武器であり、彼女が人と繋がる唯一の手段でもあった。
扉の外に立つ男性は振り返り、小さく息を吐くと、真剣な表情で声をかけた。
「森の賢者様、どうかお願いです。私の故郷で病が蔓延し、多くの人が苦しんでいます。あなたの薬草の力で、助けを求めております」
その言葉に、ハルナの心は激しく揺れた。彼の言葉の重みと誠実さが、彼女の壁を少しずつ溶かしていく。
しかし同時に、怖さも湧き上がった。人と関わることの苦手さ、期待に応えられなかったらどうしようという不安。何より、自分の平穏な生活がまた遠のいていく現実。
それでも、彼女は静かに薬草を差し出した。
「……これで、少しでも救われる人がいますように」
男性は感謝の眼差しでそれを受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。賢者様。あなたのおかげで、多くの命が救われるでしょう」
その言葉が、森の静けさに新たな波紋を広げた。
ハルナは扉を閉め、小屋の中で深く息を吐いた。心の中ではまだ混乱が渦巻いていたが、彼女は少しだけ前を向く覚悟を決めた。
「私にできることは、この薬草を育てることだけ……」
そう呟くと、彼女は薬草たちを見つめ、そっと微笑んだ。たとえ世界が騒がしくなっても、この森で、自分らしく生きるために。