第四話:森の薬師、引きこもりの決意と初めての来客
朝霧がまだ森の木々を包み込み、薄紫色の霞が幻想的に空間を染めていた。冷たい朝露が草の葉先で煌めき、小屋の古びた木製の窓枠に淡い光の輪を作る。森の静寂は、まるで時間がゆっくりと止まっているかのようだった。
ハルナはそっとカーテンを開け、透き通る空気を胸いっぱいに吸い込んだ。まだ鳥のさえずりも控えめで、静かな世界が彼女の心にひんやりと沁みていく。
「今日こそは……誰にも邪魔されない、静かな一日になりますように」
小さくつぶやき、彼女は背を向けて小屋の片隅に置かれた薬草の鉢に目をやる。大賢者級にまで成長した薬草たちは、朝日を浴びて葉の縁が黄金色に輝き、柔らかい光を放っていた。まるで生きて呼吸しているかのように葉を揺らし、小屋にささやかな生命感を与えている。
そんな穏やかな時間を切り裂くように、木の扉を軽くノックする音が響いた。音は意外に鮮明で、小屋の静寂をより深く際立たせる。
ハルナの心臓が一瞬で跳ね上がり、思わず後ろを振り返った。誰もいないはずの森の奥に、人の気配が忍び寄っていたのだ。
窓からそっと外を覗くと、そこには旅装束を身にまとった若い男性が立っていた。彼の顔は日焼けで少し赤みを帯び、瞳には切実な決意が宿っている。背中には背負った荷物があり、長旅の疲れが垣間見えた。
「森の賢者様にお願いがありまして……」
その言葉は柔らかく、しかし揺るぎない真剣さを帯びていた。
ハルナはその言葉を聞いて、息が詰まりそうになった。彼女はただ静かに薬草を育てたいだけだった。誰にも邪魔されず、誰とも関わらずに生きるはずだった。しかし、その願いはこの一声で脆くも崩れ去った。
慌てて小屋の奥へと身を引き、壁に背をつけて震える心を押し殺す。顔を隠しながら、必死に思った。
(お願い……どうか気づかないで……私を放っておいて……!)
だが、男は諦めず、穏やかな声で続けた。
「実は、私の故郷で重い病が蔓延し、多くの人が苦しんでいます。『森の薬師』の奇跡の薬草が人々を救うと聞き、どうしても賢者様にお会いしたくて……」
彼の声には切迫感が滲み、背負う荷物の重さと共に、言葉の重みがハルナの胸に響いた。
一瞬の葛藤の末、ハルナは深く息を吸い込み、震える手で薬草の一鉢を手に取る。黄金色に輝く葉は、触れる者に安らぎと癒しをもたらす特別な力を秘めていた。
小屋の入り口にゆっくりと歩み寄り、震える手で薬草を差し出す。
「……これで、少しでも助かる人がいるのなら……」
彼女の声はかすれ、戸惑いと迷いが混じっていたが、その瞳には確かな優しさが宿っていた。
男は感謝の意を込めて深く頭を下げ、涙を浮かべながらその薬草を受け取った。
「本当にありがとうございます、賢者様。あなたのおかげで、多くの命が救われるでしょう」
その言葉が、静かな森に新たな物語の始まりを告げていた。
ハルナは小屋の奥で目を閉じ、胸の内に広がる不安と期待が入り混じった複雑な感情を抱き締めた。彼女の望んだ引きこもり生活は、もう戻らないのかもしれない――そんな予感が静かに、しかし確かに胸に広がっていた。