第九話:波紋広がる森の賢者
朝の森は深い緑と柔らかな日差しに包まれていた。木漏れ日が地面に細かな模様を描き、鳥たちのさえずりが静かな調べを奏でている。湿った土の香りと花のほのかな甘さが空気を満たし、森の中はまるで命の祝祭のようだった。
そんな静寂の中、小屋の窓辺でハルナは薬草たちを見つめていた。黄金色に輝く葉の一枚一枚が、昨日よりも力強く成長している。彼女はその成長を喜びながらも、胸の奥には重い感情が渦巻いていた。
「こんなに人が増えてしまうなんて……」
彼女が願ったのは、ただのんびりと薬草を育て、誰にも邪魔されずに過ごす生活だった。しかし現実は、日々訪問者が増え、遠くの村や国からも噂が届く。森の賢者としての責任が、彼女の肩に重くのしかかっていた。
窓の外に目をやると、木々の間を一匹の小さなリスが忙しなく走り回っている。その無邪気な姿に、ハルナは一瞬だけ心が和んだ。
そのとき、小屋の扉がゆっくりと開き、堂々とした女性が入ってきた。深い緑色のドレスを身にまとい、鋭い眼差しでハルナを見つめるその女性は、王都から派遣された外交官ルクレツィアだった。
「森の賢者ハルナ様、初めまして。私は王国の外交官ルクレツィアと申します」
彼女の声は低く落ち着いており、その存在感は小屋の中に重みをもたらした。
ハルナは一歩後ずさりしながらも、震える手で薬草を差し出す。
「ご用件は何でしょうか……?」
ルクレツィアは冷静に答えた。
「近隣諸国との緊張が高まっております。貴女の薬草は奇跡を起こすと聞きました。もし、平和のためにその力を貸していただければ、国の未来は大きく変わるでしょう」
ハルナは言葉に詰まった。政治や国のことは何も知らない。自分はただ薬草を育てていたかっただけ――それなのに、いつの間にか世界の動きに巻き込まれている。
「わ、私にはそんな……」
だが、ルクレツィアは静かに微笑み、差し出された薬草を手に取った。
「賢者様、貴女の力は誰かのために使われるべきです。私たちはその力に頼らざるを得ないのです」
その言葉はハルナの胸を締めつけた。迷いと恐怖が押し寄せる一方で、薬草が誰かを救うという確かな事実もあった。
森の静寂の中、二人の間には重い沈黙が流れた。外では鳥のさえずりが続き、風が木の葉を揺らす。ハルナの視線は、窓の外の緑へと向けられていた。
「……わかりました」
やっと絞り出した声で答えた彼女は、薬草をルクレツィアに手渡す。
「どうか、これが多くの人の助けになりますように」
ルクレツィアは深く頭を下げ、薬草を大切に抱きしめた。
「必ず、平和をもたらしましょう」
小屋の扉が閉まると、ハルナは再び窓の外を見つめた。彼女の心には複雑な想いが入り混じっていた。
「私は、本当にこれでよかったのだろうか……」
森の奥深く、薬草たちは静かに光を放ち、まるで彼女の心に語りかけるかのようだった。
不器用な薬師の物語は、さらに大きな波紋を呼び、世界の中心へと向かって動き出していた。