第九話 ストーンイーター
第二層の奥は、まるで空間そのものが眠っているかのように、静まり返っていた。
ざり……と靴裏が削岩層をかすめる音だけが、鈍く響いて消える。
さっきまでは緊張で張り詰めていた全身が、少しずつほぐれていくのがわかる。俺は軽く肩を回して、ふぅ、と小さく息を吐いた。
──それにしても、この沈黙は落ち着くような、不気味なような……。
「なあ、ゴルド。ちょっと訊いていいか?」
前を歩いていた屈強な背中が、ちらとだけ振り向く。
「このダンジョン……なんか最近、異変とか起きてたりしないか?」
俺の問いに、ゴルドは一拍置いてから口を開いた。
「……異変ってほどでもねぇがな。ちょっと前に、クレアホルン隊の連中と三層まで潜ったんだ。俺が案内役でな」
「クレアホルン隊って……あの冒険者の連中か。月灯り亭で一度、話したことあるな。何か見つけたような雰囲気だったけど……結局、詳しくは聞けなかった」
「連中、街のギルドからの依頼で来てた。三層の奥に、妙な壁があるって噂を聞きつけてな。実際、あったよ。不自然な、まるで“彫り物”のように整いすぎた壁だ。削っても割れねぇ。俺らの手じゃ歯が立たん」
ゴルドの声に、わずかに含みがあった。
「結局、三日かけて調べたが、何も出なかった。連中は調査記録だけ持って街へ戻った。報告しに行ったんだろうよ」
「へえ……三層って、そんな深い場所でもないんだよな?」
「そうだ。このダンジョンは三層構造。小規模だ。朝に入って夕方には帰れる。初心者の練習場としてはちょうどいいが……旨味がねぇ。鉱石も魔石も並レベル。だからこそ、あの壁が気になったってわけだ」
「妙な壁か……」
俺は軽くランタンを持ち直しながら、洞窟の奥を見据えた。
静かだが、確かに“何か”がこの先にあるような、そんな気配がする。
さっきまで硬かった体の奥が、別の緊張でざわつき始めていた。
その後、俺たちは第二層での採取作業に集中した。
青灰色の岩肌に走る薄金色の筋──目を凝らせば、そこに鉱脈が眠っている。
つるはしの感触、素材の響き、手に伝わる“芯”。
さっきよりも、ずっと明瞭に感じられる。
休憩を挟みながら、俺とゴルドは無駄なく作業を進めていった。
やがて、次の階層へとつながる斜路にたどり着く。
「そろそろ三層だ。気ィ引き締めろ。奴らが出るかもしれん」
ゴルドがぼそりと呟いた。
奴ら──その意味が、すぐにわかることになる。
第三層に足を踏み入れて間もなく、岩の裂け目の奥から、ざり……と砂をすべるような音が響いた。
「ストーンイーターか」
低く呟いたゴルドが、背負っていた武器を持ち上げる。大きな鉄の戦鎚──その面には刻まれた古い符号が、わずかに鈍く光っていた。
「鉱石を喰らう魔物だ。腹ん中に宝石を溜め込んでる」
その言葉通り、岩陰から這い出してきたのは、石を這う虫のような生き物。大人の膝ほどの高さ、灰色の装甲がきしむ音を立て、光の層へとじりじりと迫ってくる。
ゴルドが踏み込み、戦鎚を振るった。
衝撃音。地鳴り。石が砕けるような重低音が響き、ストーンイーターの一体が吹き飛ばされる。
その動きは、力任せではなく、まるで“割るべき部分”を熟知した仕事人のような正確さだった。
「節を叩け。貫くな。跳ねる」
ゴルドの低い指示が空気を裂く。
だが──
もう一体。斜め奥から姿を現した個体が、ゴルドの横をすり抜けるようにして逃げ出した。
逃走ではない。
──突進。
俺のほうへ。
「っ……!」
反射的に後退りながら、腰に下げた短剣を引き抜く。
目の前で、石のような外殻をきしませながら、ストーンイーターが跳ね上がる──
剣を握る手が震えている。怖い。だが、逃げられない。
(逃げたら、素材を失う……)
本能でわかっていた。ここで逃げれば、素材も、きっと自分も壊れる気がした。
思考の端でそんな考えが浮かぶ自分が、どこか恐ろしかった。
けれど──刃が、勝手に動いた。
石の継ぎ目、弱点。
さっきゴルドが言っていた“節”を狙い、俺は短剣を突き立てた。
ぐっ、と鈍い手応え。
そして──石の躯体が、そのまま俺に覆いかぶさるように崩れかかった。
「っぐ──!」
とっさに体をひねる。
けれど、逃げ切れなかった。灰色の外殻が肩を叩き、背にのしかかる。
ぐっ、と全身が地面に押しつけられ、呼吸が詰まる。
その瞬間──
節に刺さった短剣が、ストーンイーターの自重で深くめり込み、
ごりっ、と骨の砕けるような音とともに、急所を貫いた。
ごとり、と重みが抜ける。
──死んだ。
手が震えていた。指先が、なかなか柄から離れなかった。
でも、不思議と怖くはなかった。
俺の中で何かが──冷えて、静かになっていた。
素材を得た。その代わりに、命を奪った。
まだ、その違いは、よくわからなかった。
「……俺、今ので“倒した”って言っていいのか?」
小さく呟いて、肩をすくめる。
いや、たしかに短剣は刺さった。節を貫いた。
でも、どう考えても──
「潰れて、刺さっただけだよな。俺、なんもしてなくね?」
勝ち取った、ってより“落ちてきた素材”を拾った気分だった。
「倒した感、ゼロ……
──次は、ちゃんと自分の手で倒せるだろうか?」
なんとも言えない気持ちで、横たわるストーンイーターの躯体を見下ろす。
すると、背後から足音。
「やるじゃねぇか。踏ん張ってりゃ十分だ」
ゴルドが隣に来て、倒れた魔物を見下ろした。
その視線には、多少の驚きと、それ以上の評価が滲んでいた。
「よし、解体するぞ。鉱石、魔石……あいつの中には宝が詰まってる」
そう言って、ゴルドは懐から小さなノミのような道具を取り出した。
「……解体って、俺が?」
「お前が倒したんだ。素材は、お前のもんだ」
素材──俺が手にした、初めての“命を伴った素材”。
重みがある。怖さも、どこかでまだくすぶってる。
だけど──それ以上に、興味のほうが勝っていた。
「腹のこっち側、ちょいと硬いだろ? そこに魔石がある」
ゴルドが指でストーンイーターの腹部を示した。
触れると、たしかに他よりも芯のような感触がある。
「短剣の背を使って、優しく割れ」
言われた通りにナイフの背で叩くと、ぱきん、と内壁が割れ、中から瑠璃色の石が転がり出た。
「……これが、魔石」
手のひらにのせると、かすかに脈を打つような光が浮かぶ。
《素材鑑定──「魔石:獣核・石喰種」》
《魔力量:104/純度:C+/特性:高熱反応》
《サイズ:中》
「クラフトログ、か……」
すっかり慣れてきた画面が浮かぶ。
「魔石の価値はな、大きさと純度で決まる。基本はこの二つだけ覚えとけ」
ゴルドの声に、俺はうなずいた。
鉱石と違って、魔石は“力”が詰まってる。
扱いを間違えば爆ぜることもあるらしい。
「……じゃあ、これは……どうなんだ?」
「まずまずだな。練習には悪くねぇ」
そう言って、ゴルドは少し口元を緩めた。
それだけで、なんだか褒められた気分になる。
「さて、次は鉱石のほうだな」
「まずは、ここの外殻を剥ぐ。無理に引っぺがすな、関節の合わせを探せ」
ゴルドが、俺の手を取ってストーンイーターの節と節の境目を示す。
指を滑らせると、確かにそこだけ微かに凹んでいた。
「そこに刃を入れて、ひねる……そう。ああ、力を抜くな」
ぱき、と小さな音がして、装甲の一部が外れた。
「うお……」
露出した内部は、思ったよりも綺麗だった。
水晶のような結晶が、骨格の隙間にびっしりと詰まっている。
「鉱石か……?」
「正解──って、おい……それ、まさか……」
ゴルドが目を見開き、無意識に一歩近づいてきた。
指先がその青銀色の塊を指す。
「……星紋鉱、だと? 本物か……?」
声が低く、興奮と警戒が入り混じっていた。
「こんな小規模ダンジョンで出るなんて、聞いたこともねぇ……」
ゴルドが指差した一部──青銀色に輝く塊を、俺はそっと手に取った。
ぴたり、と視界に何かが流れ込む。
《素材鑑定──「星紋鉱」》
《属性:導力/純度:A−/大きさ:S》
「……出たな、クラフトログ」
何度か見たことのある表示。でも、今回は明らかに違う。
属性、純度、サイズ──どれも、目を疑うような数値が並んでいた。
「すげぇ……グレードが、段違いだ……」
「見えるのか?」
「……ああ。たぶん、この目のせいだ」
俺は苦笑しながら、宝石のような鉱石を持ち直す。
初めて手にした“命の代価”。その美しさは、どこか不安になるほど澄んでいた。
まるで、命が宿っているみたいに、静かに脈打って見えた。