第八話 灯晶洞窟
最初の一歩で、空気が変わったのがわかった。
背後にかすかに残っていた外の光が、すうっと消えていく。吸い込まれるように闇が深まり、代わりに足元の岩肌や壁面を、微かに瑠璃石と光苔の青白い光がなぞっていた。
温度が違う。息が白くはならないが、肌に触れる空気がやたらと冷たい。地面は湿って滑りやすく、靴底がたまに小石を蹴ってカツンと鳴る。その音だけが、やけに大きく反響した。
ここは、もう地上とは別の世界だった。
「この中で生きて帰りたきゃ──音と匂いを忘れるな」
先を歩く低い背中が、ぽつりとそう呟いた。
俺はその背を追いながら、肩にかけた背負子の重みを確かめた。中には最低限の工具、水袋、布、ナイフ。それから、ダリルに借りた細身のつるはし。
道具があるだけで少し安心するけど、それ以上に、この異質な空間がじわじわと感覚を侵してくる。
壁をちらと見やる。
鉱脈というより、岩の“ひび割れ”のような筋。その奥に、点のような瑠璃色の輝きが見える。素材なんてただの物質だと思っていたけど──ここでは、何かがこちらを“見ている”ような錯覚すらあった。
耳に届くのは、ゴルドの足音と、自分の呼吸。
他には、風がどこかを抜けるような、管の中を鳴る低い音が遠くから響いてくるだけ。
目の前の世界は、青くて、黒くて、静かだった。
まるで、夜の底に沈んで歩いているような感覚。
「……集中しろ」
誰かが言った気がして、ハッとした。いや、声なんてなかった。ただ、五感が“全部を拾おう”と勝手に動いていた。
視界の端に、緑がかった光苔。壁に沿って流れている水の筋。しっとりと湿った岩盤の肌理。
呼吸するたびに、石の匂いが鼻の奥に刺さった。
知らない世界だ。
でも、何かを掴める気がした。ここには、まだ知られていない“素材の声”がある。
そして俺は、初めて本当の意味で、“素材と向き合う”ための道を歩きはじめた。
◇
どれくらい歩いたのか、時間の感覚はすでにあいまいだった。
青く霞んだ光が照らす通路を抜けた先──そこに、ぽっかりと天井の開けた小さな空間があった。
天井の裂け目から、微かに射し込む外光が、瑠璃石の群れに淡い光輪を描いていた。
その光が、壁に這う光苔と溶け合い、空間全体が静かに“呼吸”しているように見えた。
その壁面の一部に、ほんのりと光を湛える群れがある。
半透明で輝く、青白く澄んだ鉱石。
「……あれが、灯晶石か」
思わず声が漏れた。
まるで、誰かに見られているような──それでいて、優しく迎え入れられているような感覚。
“掘っていいのか”と、問いかけたくなるほどだった。
ゴルドが振り向くことなく言う。
「第一層じゃ、あれが主な収穫だ。崩すな、傷つけるな。石の“筋”に沿って剥がす。できなきゃ、お前は素材を殺すだけだ。石を叩くのは腕でも、削るのは心だ。……忘れんな」
俺は無言で頷き、背負子からつるはしをゆっくりと外した。
慎重に、つるはしの先を岩の縁へと当てる。
叩くんじゃない。石の繊維をほどくように、角度を探りながら撫でていく。
ゴルドが言っていた“筋”が、確かにある気がした。
光の通り道、岩の膚理、湿り気──微かな違和感が指先から伝わってくる。
「……よし」
一呼吸置いて、小さく振りかぶる。
カン、と音がして、岩の端がわずかにずれた。
その瞬間だった。
一振りの衝撃が、まず耳に響き、遅れて目に届く。
音の波が脳を通って、視界に染み込んだとき──岩の表面に浮かぶ模様が、ほのかに光った。
見えた。
灯晶石の鼓動のような“通り道”が、青白い線となって視覚化された。
どこを削れば、どこを残せば、“素材の声”を殺さずに取り出せるか。
わかる。感じる。音と光で、素材が自分に語りかけてくる。
俺は、つるはしをもう一度だけ構え直した。
続けて三度。崩さず、割らず、滑らかに──。
ぱきり、と。
薄く剥がれた鉱石の破片が、掌に転がった。
同時に、ふわりと光が浮かぶ。
《採取記録:灯晶石》
【品質:C+】
【純度:82%】
【安定性:良好】
ウィンドウが表示された。
あのときと同じだ。手に取って、目に映す──それだけで、素材の“状態”が浮かぶ。
けれど、他の誰に見えているのかは、まだわからない。
声も音もないのに、それが“確かな手応え”として、俺の中に染み込んでくる。
「ほう……やるな」
振り返ると、ゴルドがほんの少しだけ口角を上げていた。
褒められたというより、“見極められた”感覚のほうが強かった。
ふと、俺は気になって、採取直後に浮かんだウィンドウのことを口にした。
「……なあ、今、なんか文字とか、情報みたいなのが浮かんだんだけど。見えてたか?」
ゴルドは一瞬だけ眉を動かしたが、首を横に振る。
「いや、俺には何も。けどな、昔どっかで聞いたことがある。素材の“声”をそのまま数値で見るやつがいたってな」
「……それって、俺の目?」
「たぶん、そうだろうな」
ゴルドは俺の目をじっと見つめた。
「その目、たまに光るんだ。しかも──ただ光るんじゃねぇ。模様が浮かぶ。刻印のようなもんが」
──思い出した。月灯り亭のエレナも、そんなことを言っていた。
虹色の髪と、光を映す瞳。その瞳には、見る角度で色が変わる模様があるって。
自分でも鏡で確認したことはある。
でも、ただの“異世界転生の副作用”くらいに思ってた。
だが、今。素材と向き合ったこの瞬間に、その瞳の“模様”が情報を浮かび上がらせた──まるで、鉱石が語りかけてくるように。
知らなかった。
俺の中には、そういう“目”があったんだ。
「魔眼……とか、そういうやつか」
「さあな。俺は詳しくねぇ。ただ、見えるもんが違うってのは、時に“才能”でも“呪い”でもある。気をつけろよ」
素材が手に入ったことより、素材を“掴めた”ことが、何より嬉しかった。
初めてだというのに、まるでずっと昔からこの作業をしていたような……そんな、不思議な感覚。
岩を叩く手の震えも、目の奥に走った光も──すべてが自分と素材をつなぐ“証”のようだった。
音を視て、石の声を感じて、芯を捉えて叩き出す。
ただの採掘じゃない。
“手が語り、素材が応える”──そういう感覚が、確かにあった。
胸の奥がふわりと熱くなる。こんなにも、自分が“嬉しい”と感じるなんて。
第二層へと続く傾斜は、わずかにねじれるように続いていた。
湿った石壁に指をかけ、慎重に足を進めるたび、空気が変わる。
重たい。
冷たいのとは違う、地の底の“圧”が、肩と肺にのしかかるようだった。
「気を抜くな。ここからは、光苔も減る。足元と天井、常に意識しろ」
そしてもう一つ、とゴルドが付け加えた。
「この層から先は、モンスターの気配が不意に現れることがある。……気づいたときには遅いってこともある」
その言葉に、無意識に背筋が伸びた。
光の届かぬ深層の闇に、何かが潜んでいる──そんな気配が、確かに漂っている気がした。
洞窟の静けさが、逆に耳に痛いほどに感じる。
緊張感がじわりと滲み、俺はそっとランタンの光を強めた。
ゴルドの声が静かに響く。
その言葉通り、第二層はまるで“飲み込まれた空間”だった。
光は薄れ、代わりに鉱石の自然輝だけが、所々を照らしている。
そこで、ゴルドが腰の袋からひとつ、小さな布巻きランタンを取り出した。
「これ、使え。手元が暗いと命に関わる」
受け取ったそれは、掌にすっぽり収まる程度の重さ。
「布を一枚めくれ。魔石が見えるだろ。指で触れりゃ、光る。けど、触れっぱなしだと魔力食うから、必要なときだけだ」
俺は言われた通りに布をめくり、魔石に指をあてた。
ぱっ、と小さな光が広がり、壁の紋様が浮かび上がった。
そして、また見えた──素材の中に、通るべき“線”。
「……たぶん、この目の力なんだろうな」
素材が語りかけてくるように、俺の目に“形”が浮かぶ。
それが正しいかどうか、試すのは、これからだ。