第三話 歩いても歩いても、世界は広い
成功作──そう呼べるものを、ようやくひとつ手に入れた。けれど、立ち止まっては生きていけない。
俺は革紐に通した《藍のしるし》を胸にぶら下げたまま、草原の起伏に足を踏み出した。
空は晴れている。風はやや強い。遠くには、ぼんやりとした木柵と煙。……集落らしきものがある。
街かと思っていたが、あれは──村か。背の低い建物、まばらな煙、柵も石じゃなくて木製。
近づくにつれ、想像していた“街”とは程遠い風景が見えてくる。
それでも、人がいるなら充分だ。
草を掻き分けながらの歩行は予想以上に消耗した。前世では店舗作業で立ち仕事はしていたけど、異世界の草原を歩くなんて経験、当然ながら一度もない。
脚が痛い。足首が重い。喉が渇く。腹も減った。
「これ、近くに人が住む村がなかったら詰んでたな……」
まさか転生してまで体力のなさに泣かされるとは思わなかった。
その時だった。背後の草が、ざわざわと揺れる音がした。
風かと思った。しかし──違う。地面に、わずかな振動。
次の瞬間、草を割って黒く太い鼻面が飛び出してきた。
「うわっ、嘘だろ!? でけえっ!」
それはイノシシのような生き物だった。だが、普通のそれとは違う。体長は軽く2メートルを超え、牙はナタのように鋭く、目が血走っていた。
俺は即座に理解した。
こいつ、俺の命を狙ってる。
理屈はあとだ。今は逃げろ!
「やばいやばいやばいっ!」
革ポーチを抑えながら全力で走る。草原に足を取られ、転びそうになりながらも、なんとか距離を稼ぐ。
が、イノシシの化け物は足は異常に速い。もはや目の端に牙の影がちらつくレベルだ。
「だめだこれ! 大事なビットが砕ける前に俺の骨が折れるっ……!」
絶体絶命。そう思ったその時だった。
空気が圧縮されるような唸りとともに、雲間から裂けるように降りてきた。
翼を広げた巨大な影が、太陽を遮った。
翼の風圧が草を薙ぎ、金属を擦るような咆哮が響いた。
──ドラゴン? ……いや、違う。脚が二本しかない……?
それは見たことのない飛翔生物だった。
鋭い爪と灰銀の翼。空を裂いて突っ込んできたそれは、俺を通り過ぎたと思った瞬間、イノシシに向かって一直線に急降下した。
その爪が、イノシシの背を突き破るようにして捉える。
「う、うそ……」
反撃の暇も与えず、イノシシは空へと引きずり上げられていく。血が、草に散った。
しばらくして、謎の怪物とイノシシは空のかなたへ影は消えた。あとには、ただ風が吹くだけ。
「……助かった? いや、マジで?」
膝が笑って、草の上に尻もちをつく。
異世界。すげぇな、おい。
……体力と心臓に悪いわ。
ふと顔を上げると、先ほどより近くに木柵の影が見える。
人の声。鍋の匂い。煙。
ああ、ようやく、辿り着いたんだな。
「村……か。生きて、たどり着いた……」
息を整えながら、胸の《藍のしるし》をそっと握った。
足の裏がじんじんして、もはや感覚がなかった。荷物より、自分の体の方が重い気さえする。
木柵の向こうに、複数の影が現れる。陽を背に、逆光の中で槍のようなものを構えた人影が三、四……いや、五人はいる。
その全員が、明らかにこちらを警戒していた。
「誰だ! 止まれ!」
荒々しい声が飛ぶ。とっさに足を止めた俺は、両手を上げる。まるで、警察に職質を受けたときのように自然な動作だった。
ざっ、と柵の隙間が開く音。武装した男たちが、一歩ずつこちらへ近づいてくる。
粗末な革鎧に、柄の削れた木槍。農具を加工したような剣を手にしている者もいた。戦士というより、護るために立っている人間たちだった。
「おい、こいつ……無傷だぞ」「ほんとに、何ともないのか?」
「さっき、上空からドラゴンかワイバーンみたいなもんが村の近くに急降下した。あんた、それに襲われたんじゃないのか?」
俺は、驚かされながらも静かに首を横に振った。
「襲われたのは……俺じゃない。近くにいた、でっかいイノシシみたいな奴が連れてかれた」
「ツキオイか……。あんなもん、丸ごと攫われるなんてな……」
男たちは顔を見合わせ、小さく息をついた。
「とにかく、怪我がないなら良かった。だが、あんた──どこの出だ? 名は?」
名を聞かれて、ふと胸元を見た。革紐に通した、あの試作のペンダント──《藍のしるし》。彫金ビットで削り出した最初の成功作。
藍色……ラピスラズリ……。
「……ラピス。ラピスって呼んでくれ」
それが咄嗟に出た答えだった。転生したとはいえ、前世とは姿や性別が全く異なる。名前なんて、考えていなかったけど……藍色の光沢が、今の俺には一番しっくりきた。この藍が、自分のはじまりになるなら──悪くない。
男の一人が、ふっと息を抜いたように笑う。表情が緩み、肩から力が抜けたのがわかった。張り詰めていた空気が、風に流されたようだった。
「ラピス、ね。妙な縁だな。あんたが魔物じゃないってのは、なんとなく分かる。言葉も通じてるしな」
「とりあえず、村長のとこに案内する。ここに一人で来るってのも珍しい。事情を話してくれ」
俺は小さく頷きながら、再び革ポーチを抱え直した。まだ少し警戒されてるのは分かるが──
人のいる場所に辿り着けた。それだけで、今は十分だ。
ゆっくりと、武装した男たちの後ろに続いた。
木柵を抜けた途端、村の空気が変わった。
湿った土の匂い。焚き火から立ちのぼる煙の苦味。鍬を振る音と、子どもの笑い声。
ああ、本当に人が暮らしてるんだな……と、胸の奥がじんと熱くなる。
「にしても、さっきのあんたら──村人にしては、やけに装備が整ってたな」
俺がそう口にすると、案内役の一人が肩を竦めた。
「そりゃそうさ。あんなもんが、村のすぐ真上に降りてきたのは初めてだ」
「ドラゴン……じゃないにしても、あんなのに畑踏み荒らされたら一巻の終わりだ。冒険者連中は朝からダンジョンに出払ってたしな」
「今日の見張り番が大声で知らせてな。慌てて武器持って駆けつけたってわけ。まあ……正直、無事だったのが奇跡だよ」
彼らの表情には、安堵と、それでも消えきらない緊張が残っていた。腰に手を当てていた男が、そっとため息をつく。肩越しにちらりと空を見上げる癖が、まだ抜けていない。
「それに、最近また獣の襲撃が増えててな。村の外れで畑荒らされたばかりなんだ」
俺は頷きながら、革ポーチに手をやる。ずっと握っていたせいか、革が少し温かい。
通りの脇に並んだ家々を何気なく見やる。道端の柵に打ち込まれた釘が、どれも手打ちだった。無骨で、けれど温かい。……いい仕事してんな。
「なるほど。そういう村なんだな……」
簡素な木の家が並ぶ道を歩きながら、少しずつ、この世界が現実のものとして自分の中に染みこんでくるのを感じる。
案内役の男が、木戸の先を指差した。
「村長の家だ。長旅の疲れもあるだろうが……少し話を聞かせてくれ」
俺は小さく息を吐いて、頷いた。
──さあ、本番はここからだ。
異世界転移すると即モンスターに襲われる。あるある。