第十四話 星紋と壁の向こうへ 2
第三層に入ってからというもの、空気の密度が変わった気がした。
湿り気のある風に、かすかに鉄っぽい匂いが混じっている。壁面の灯晶も、どこか鈍く濁って見える。
モンスターの気配も増えてきた。足音ひとつ、息づかいひとつを間違えれば、すぐに群れに囲まれそうな圧迫感がある。
慎重に進もうと、俺もクラリーチェも自然と声をひそめた。
「……そっち、足元注意」
「わかってる」
分岐の奥にあった、人気のない小鉱脈。壁が崩れかけており、照明の灯晶も少ない。モンスターの痕跡も薄く、まるで避けられているような空気が漂っていた。
「ここ、変ね。妙に静か……でも、嫌な感じはしない」
「俺もそう思う。変な気配はねぇ。ただ……」
──星紋の指輪が、ほんのわずかに熱を持っていた。
何かがある。そう感じさせるものが、この場所にはあった。
◇
短い休憩を挟み、水を一口飲んだときだった。
「ねえ、ラピス」
クラリーチェが、急に小声で切り出してきた。
「この間の、指輪のことなんだけど……あれって、やっぱり星紋鉱、なんでしょ?」
俺は一瞬、体が固まった。
でも、嘘をついても仕方がない。
「……ああ。間違いねぇよ」
クラリーチェは、自分の胸元からそっと何かを取り出した。
あのとき渡したチャームだ。今は細い革紐でネックレスになっていて、服の下に隠れるようにして着けられていた。
「こいつも、時々光るの。まるで、呼吸してるみたいに……」
「それ、間違っちゃいねぇかもな」
クラリーチェは、水筒の口を閉めながら小さく呟いた。
「星紋鉱……王都じゃ“未定義危険物質”って分類されてるの、知ってる?」
「知らなかったが、言われてみりゃ納得だな」
「私の家の商会でも、“見つけたら即報告”って通達が出てたのよ。発見だけで報酬がつく。だけど……」
「誰も、“加工された状態”で見たことがないってことか」
「……うん」
クラリーチェは、俺の指輪をちらりと見て、またすぐ視線を逸らした。
「その指輪、たぶん、とんでもないものなんだと思う。でも、怖いとは思わない。不思議と、ね」
「俺には、こいつが……呼んでた気がする」
「わかる。私のも、時々“声”がするような気がするの。意味はわからないけど……確かに、なにか、繋がってる」
不意に、クラリーチェが小さく笑った。
「――あんた、本当に普通じゃないのね。ますます気になるわ」
俺は肩をすくめた。
「仕事の邪魔だけは、すんなよ」
「しないしない。ちゃんと護衛もするし、荷物も持たせないし、こう見えて頼れる女なんだから」
「背負子背負って、お前の素材まで持ってやってるけどな。……頼れるの、俺の背中だけじゃねぇか?」
クラリーチェはむっとしたように口をとがらせた。
「それは、力仕事は得意な人に任せるのが効率的ってことでしょ!?」
「はいはい、合理的でいらっしゃる」
そんなやりとりに、ふっと重かった空気がほどけた。
その軽口の奥に、微かな緊張感があった。
星紋鉱は、ただの鉱石じゃない。
その事実が、俺たちふたりを確かに結びつけていた。
──そろそろ、再開するか。
俺はツルハシをしっかり握りしめ、壁面に向かって一振り。
岩が粉になり、固い塊の中に混じっている灯晶が光を反射した。
「やっぱり、ここにも灯晶と鉱脈はあるんだけどな……」
星紋の指輪をぎゅっと握りしめ、それでも光はさほど反応しない。
「前にストーンイーター見つけたのもこの辺だろうが、今日は気配がないな」
クラリーチェは背後で警戒しながら一歩、二歩と離れ、暗がりをじっと睨んでいる。
静寂を切り裂くのは、岩を砕く金属音と自分の息遣いだけ。
何度も掘ってみる――が、期待の星紋鉱はまるで寝ているかのように姿を見せない。
「やれやれ……こりゃ当てずっぽうじゃな」
岩屑を払いながら壁に目を走らせると、ひび割れや節理が規則正しく並ぶ場所がある。
近づくと、そこだけが異様に“冷えている”ように感じた。
「ここの岩、妙に湿ってる……染みてる、っていうか」
クラリーチェがそっと耳を傾ける。
だが彼女が答える前に、細い足元から小さな影がはじけた。
「ナリグモか……っ!」
低く短い声を漏らした瞬間、天井の裂け目から滑るように黒い塊が落ちてくる。
ナリグモ――鉱山に巣を張る蜘蛛型の魔物。八本脚で自在に壁を這い、糸で獲物の動きを封じる厄介な相手だ。
──灯晶洞窟に入る前、ゴルドが三層までのモンスターについてざっと教えてくれたことを思い出す。
ナリグモは単体では脅威になりづらいが、狭所で群れるとやっかいだと。
一体、二体……気づけば三体。闇に紛れて数を増やしている。
「クラリーチェ、下がれ!」
「平気、やるから!」
クラリーチェは素早く鞄から封札を取り出し、地面に叩きつけた。瞬間、薄く青い光が魔法陣のように展開され、蜘蛛の一体の動きが鈍る。
「束縛符、発動──っ!」
ナリグモが反応する前に、クラリーチェは杖の先から火花を散らし、魔力の閃光を叩き込む。
目を潰されたナリグモがのたうち回り、その隙に彼女は短剣を抜いた。
返すような動作で、細い関節をひとつずつ斬り落とし、正確に急所を突く。
その流れるような動きに、俺は目を見張った。
「……すげぇな」
瞬く間に二体を倒し、三体目を仕留めたところで、空気が静まり返る。
クラリーチェは息ひとつ乱さず、足元のナリグモの死骸を確認していた。
「解体を手伝ってもらえる? 素材、無駄にしないでね」
「へいへい、職人の本分だからな……っと、ああ、正直ちょっと苦手だが」
ナリグモの黒光りする胴体を前に、俺はわずかに眉をひそめた。
──虫系、というか、節足系の魔物ってやっぱり生理的にくるな。
それでも、やらなきゃならねぇ。
腰のポーチから解体用の細身のナイフを取り出し、まずは腹部に慎重に刃を入れる。
「……よし、魔石、あった」
淡い紫色の魔石が、黒い内臓の奥から姿を見せる。付着物を拭い、革袋に収めた。
次に、腹の中に溜まっていた糸の繊維。 粘着質だが、魔力を帯びた光沢があり、使い方によっては魔道具の芯線や拘束具の素材になるらしい。
「これか、確か繊維系の練成材料にもなるって……ゴルドが言ってたな」
最後に、毒腺と口器の牙。牙は小ぶりだが硬く、曲線が美しい。
「牙……これは、アクセの飾りにも使えそうだ」
細かく分けて革袋に詰め終えると、背負子の空きスペースに丁寧に収納した。
「お前、回収も手際いいな」
「当然。こういうの、大事でしょ?」
「……ああ。これで、何か作れるかもしれねぇ」
ふと壁を見上げると、そこだけ妙に削られていない一角が目についた。
節理が歪に揃っていて、自然のものにしては整いすぎている。
「この通路、妙に削れてねぇな……。誰も来てねぇのか?」
クラリーチェもうなずいた。
「坑道は荒れてるし、足跡もない。完全に“未踏の場所”ね」
俺はツルハシを地面に立て、壁を見つめた。
星紋の指輪が、またほんのわずかに熱を帯びてくる。
「……指輪、また反応してる」
クラリーチェも目を細めた。
「なにか……ある、かも」
壁の節理の中に、かすかな線が走る。魔刻、いや、彫刻か──人工物のような感触。
「ゴルドが言ってた“妙な壁”……これのことかもしれねぇ」
俺は壁にそっと手を添える。
その刹那、岩肌が微かに震え、灯晶がきらりと一瞬だけ脈打つように光を放った。
「……行ってみるか。先に、何かある気がする」
クラリーチェは静かにうなずいた。
「ええ。私も……なにか“聞こえる”気がする」
俺たちは背中合わせになり、ツルハシを構え直した。
闇の向こうに、新たな道が待っている──。
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