第十三話 星紋と壁の向こうへ 1
灯晶洞窟――その入り口に立つと、ひやりとした空気が頬を撫でた。
地上はすっかり春の匂いを帯びているというのに、この場所だけは、まるで時が止まっているかのようだ。
俺は足を止め、右手に嵌めたPleiadesと彫った《星紋の指輪》を見つめた。
あのとき、この指輪が微かに脈打った気がした。まるで、洞窟の奥へ進めと訴えるように。
あれから何度も考えた。素材として使ったはずの星紋鉱が、どうして“導く”ような反応を見せるのか。
単なる偶然? 魔力への反応? ……いや、それだけじゃない。
あの瞬間、俺は確かに“呼ばれた”気がしたんだ。
淡く脈打つ虹色の輝き。その光が、まるで地下へと誘うように脈動している気がする。
(……やっぱり、気になる)
クレアホルン隊が言っていた、“ダンジョン内で気になるものを見かけた”という話。
ゴルドが話していた、“三層の奥にある、不自然なまでに整った彫り物のような壁”。削っても割れず、三日調べても成果がなかったという、奇妙な構造物。
そして――星紋鉱。
あれを素材にしたこの指輪が、もしかしたらその“鍵”かもしれないという考えが、頭から離れなかった。
村で大人しくしているのが正解なのは、わかってる。
でも、もし本当にこの指輪が、あの壁に反応する“何か”だったとしたら……?
試してみずにはいられなかった。
俺は一歩、ダンジョンの入り口へと足を踏み入れようとした。
その瞬間――
「ちょっと!」
背後から、軽やかな声が飛んできた。
「まさか、一人で入ろうとしているの?」
声色は静かで、呆れよりも冷静な指摘に近かった。
振り向くと、そこにいたのはクラリーチェだった。
まさか、とは思ったが本当に彼女だった。
身なりは整っていて、それでいてどこか“準備ができている”感じがする。肩掛けの鞄の中には、細身の羽根ペンや見慣れない札状の何かが収まっていた。俺には用途は分からないが、ただの飾りではなさそうだった。
護身用の短杖――それも、ただの飾りじゃない。
(……この子、まさか最初から俺の行動を読んでた?)
そんな思いがよぎると同時に、心のどこかがざわついた。
ポニーテールの栗色の髪が揺れる。
「……なんでここに」
声が、ほんの少しだけ裏返った。
思わず言うと、彼女は少し眉をひそめた。
「そっちこそ、なんでダンジョンに? 採掘でもするの?」
「あ、いや……その……下見っていうか」
曖昧に答える俺に、クラリーチェは溜息をついた。
「初心者向けとはいえ、ダンジョンにひとりで入るのは無謀よ」
そう言いながら、彼女は腰のベルトからナイフと杖を確認するように手を伸ばす。
「ここに来た以上、黙って見過ごすわけにはいかないわ。護衛と記録係として同行するのが合理的でしょ」
あくまで理詰めで告げるその口調に、俺は言い返す言葉を失った。
「はあ!? いやいやいや、そんな危ないこと……」
「私はヴァルドロッソ商会の副補佐。調査活動の一環として、ダンジョン探査も担当しています」
あまりに当然のように言うもんだから、こっちは返す言葉に困る。
(……この子、ほんとに地方商会の娘か?)
気圧されるような目の強さと、自然な構え。どこかで場慣れしている気配がある。
そう思いながらも、俺は星紋の指輪をそっとポケットに隠した。
(まあ、結果的には助かるけどな。何があるかわからねぇし)
それでも、気になるのはひとつだけ。
(……この指輪が、どんな“扉”を開けるのか。それを、知るのが怖くもある)
洞窟の奥から、ひんやりとした風が吹いてきた。
俺はクラリーチェの方をちらと見やり、そっと釘を刺した。
「……仕事の邪魔だけはするなよ」
クラリーチェは軽く肩をすくめる。
「心得てるわ。調査記録も兼ねて、ちゃんと静かに観察させてもらうから」
そして俺たちは、そのまま静かに地の底へと踏み出していった。
◇
ダンジョン内部は薄暗く、灯晶の光がかすかに足元を照らしていた。
すでに何度か訪れている場所。けれど、今は少し違って見える。
一階層を進むうちに、クラリーチェは足音も立てず、視線を鋭く巡らせながら歩いていた。
魔刻の指輪は脈動しない。鉱石も見当たらない。気配も、静かだった。
二階層に入ってしばらくしたとき、不意にガラガラッと音がして岩陰からモンスターが姿を現した。
背丈ほどの灰色の鱗を持つ中型の魔物が、唸るように低く鳴いてにじり寄ってくる。
「……洞窟トカゲね。反射鱗持ち、初見殺しだけど、動きは単調よ」
クラリーチェが小声で呟いた。
俺が背負子を下ろしかけたそのときだった。
「動かないで」
クラリーチェの声が空気を裂き、その直後――杖の先端が青白い閃光を放った。
空中に広がる魔法陣。複数の環が回転し、中央に浮かび上がる複雑な記号。俺には意味は分からなかったが、その緻密さと精度は、ただの呪文ではないと直感できた。
符術式が完成した瞬間、洞窟トカゲの動きがピタリと止まる。
足元に展開された陣が、対象の足を一瞬にして鈍重化させたのだ。トカゲが低く唸り、無理に動こうとした次の瞬間――
「展開・閃封ッ!」
クラリーチェの手元が走り、第二の札が宙を滑るように飛んで、モンスターの頭部に貼りついた。
その瞬間、青白い稲妻が弾け、トカゲの全身が痙攣する。
「今」
クラリーチェは身を沈め、一歩で懐へ飛び込んだ。
抜き放たれた短剣が、まるで測ったかのような角度で喉元へと突き刺さる。
無駄な力もなく、残酷なまでに静かな一撃だった。
洞窟に響くのは、血が滴る音だけ。
クラリーチェは、何事もなかったかのように一歩下がり、息をつく間もなく短剣を拭った。
「魔石、あるわね」
そう呟きながら、クラリーチェは手際よく魔石と牙、鱗を回収していく。
俺は背負子を背に、その様子を黙って見ていた。
(……速い。無駄がない。ゴルドの戦い方とはまるで違う)
豪快で力任せなゴルドと違い、クラリーチェのそれは洗練された“知識と手順”の戦い方だった。
位置取り、展開、詠唱速度、どれも精密に計算されたような動き。
「……商会の娘ってレベルじゃねぇな、こりゃ」
「聞こえてるわよ」
クラリーチェが振り返って微笑む。
「護衛も調査も、全部“仕事”なの。取引先に安全に行って帰る手段ぐらい、自分で確保しなきゃ、ね?」
その言葉には、冗談めいた調子の裏に、経験の重みがにじんでいた。
「子どものころから、父に連れられて地方を回ってたの。護衛もいない荒地を行くことも多かったし、護身術は生き残るために必要だったのよ」
さらりと語る彼女の背中に、俺はほんの少し、尊敬のような感情を抱いた。
「見直した。あんた、やっぱ只者じゃねぇな。ありがとう、マジで」
「ふふ……私をなんだと思ってたのよ?」
クラリーチェが少し肩をすくめながら微笑む。
その仕草が、どこか誇らしげで、少しだけ嬉しそうに見えた。
彼女は手早く素材を確認すると、ひとつを俺に差し出した。
「これ、観察用に取っておいて。ラピスの作業台なら、加工できるでしょ?」
俺はそれを受け取り、手のひらで重みを確かめる。
洞窟トカゲの鱗は硬質な感触の中に、わずかな魔力の“名残”を感じた。
(……これで、何か作れないかな?)
そう思ったとき――俺の右手の指輪が、またかすかに光を帯びた。
そして、俺の指輪が、ふと――かすかに、脈を打った気がした。
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