第一章 第一話 現代彫金師思いもしない突然死
ギリギリ……ギリ……キュィィン……
静かな夜に、金属を削る音だけが響いていた。
都内の築古アパート、六畳間。窓は締め切り、換気扇がひたすら唸ってる。
デスクライトの明かりだけが、そこだけ切り取ったように机を照らしてた。
机の隅には空きカップ麺の容器が三つ、潰れたエナドリ缶がその横に二本。
片づける余裕なんか、もうなかった。部屋の空気は、酸味のある油のにおいと、金属粉のざらつきで満ちてる。
床には開封された工具箱と、使いかけの研磨剤。洗ってないコップには、干からびたコーヒーの跡。
食事はインスタント、睡眠は不定。だけど、手元の細工だけは、絶対に妥協できなかった。
「……あとちょっとだ」
指先がぴくつく。無理もない、三徹目だ。
でも止めない。止められるわけがない。
依頼品はリング。中央石のまわりに、極細の彫金線をミルグレイン風に打ち込んでいく。
石座と腕の接合部にも微細な粒を刻んで、光の反射を計算して設計してある。
使ってるのは、φ0.2mmのタングステン合金ビット。ちょっとでもズレたら石座が逝く。
それがいい。緊張感の中にしか、俺の集中は存在しない。
目の奥がじわりと熱を帯びる。視界は歪んでも、指は止まらなかった。
呼吸すら邪魔になる。音を立てず、震えず、ただ“線”と向き合う。
それ以外の一切が、今はどうでもよかった。
肩こり? 目のかすみ? 指のしびれ? 知ってる。全部知ってる。
でも、この瞬間にすべてを注ぎ込めるなら、上等だ。
俺は28歳。昼間は宝飾会社の下請け事務。夜は、個人で彫金の依頼をこなす、名もなき職人……いや、バカだな。
寝食より、風呂より、俺は“彫る”ことが好きだった。
思い返せば、小学生の頃。シャープペンを分解して、バネを切って組み直したら、妙に使いやすくなった。
たぶん、あれが最初の“成功体験”。
あの感触が、ずっと忘れられなかったんだ。
金属の手応え、磨かれた面の光、顕微鏡下で見た精緻な線の美しさ。
世の中に美しいものは山ほどあるけど、自分の手で生み出す美しさほど尊いものはない。
……俺は、彫ることに恋してた。いや、依存してた。
「──よし」
完成品をピンセットで静かに持ち上げ、ルーペ越しに光を当てる。
石座は六本爪。中央石を均等に掴んで、地金との間に一切の隙がない。爪の側面に刻んだ細線が、光を受けて、鈍く呼吸するように揺れていた。
ミル打ちの粒は半円で揃い、整列のリズムが生きている。まるで、小さな心臓の鼓動みたいだった。
リングの腕には、ごく細い一本の溝。そのラインが全体を引き締めて、余白に品を与えている。誰も気づかないだろう。いいんだ、気づかれなくて。
俺だけが知っていれば、それでいい。
裏抜きは最小限。石の“重み”を残すことで、着けた人に存在感が伝わるように。
繊細に見せて、芯を通す。それが、俺の流儀だ。
この瞬間の“できた”があるからこそ、俺は生きてきたとさえ思える。
誰に褒められたいわけでもない。評価なんて後からでいい。
今この瞬間、俺の手が“形を与えた”ってこと。それだけが、すべてだった。
ふと、机の端に視線をやる。
このルーペ、このリューター、このピンセット……こいつらがいなきゃ、俺はなにも作れなかった。
「お疲れ。今日もありがとな」
完成したリングをもう一度、光にかざす。
……最高だ。間違いなく、今日の俺にできる最高傑作だった。
なのに、身体が言うことをきかない。
ピンセットを置いた瞬間、手から力が抜けていく。
気づけば、ぐにゃりと机に倒れ込んでいた。
最後の感覚は、金属と油と汗の入り混じった工房の匂い。
その匂いに包まれながら、俺はふと、何かが“終わる”気がした。
……視界の端が、じわりと暗く滲んでいたのに、気づいたときにはもう遅かった。
それでも、俺は笑ってた。
指が、ここまで動いてくれたことが、ただ、うれしかった。
◇
ふと、気がつくと真っ白な空間だった。
上も下もない。地面の感触も、空気の流れも、光源すら見えないのに、視界だけがやけに冴えていた。
時間の感覚がない。呼吸の音も、心音すら聞こえない。俺は立っているのか、浮いているのか……その曖昧な感覚のなかに、ふっと“気配”が落ちてきた。
『お前の魂、彫ることばっか考えてたな。だからここに来たんだよ』
「……は?」
声がした。けど、音じゃない。脳に直接ぶち込まれるような響き。
男でも女でもなく、優しいとも恐ろしいともつかない。
「お、おい待て。俺……死んだ? あのまま?」
『そうだ。肉体は限界を超えてた。でも、お前の執念が異界に共鳴して、俺が拾ったってわけだ』
「うーわ……マジかよ……。異世界転生、ガチパターンじゃん」
『その通り。好きなだけ刻める世界に送ってやる。報酬としてな』
「マジで……神対応すぎん?」
『俺は神じゃない。“残響”って呼ばれてるだけだ』
「残響さん、やばいっすね。推せる」
俺は、思わずニヤけてた。こんな状況でも、嫌な感じがしなかったのは、この“声”が妙に居心地良かったからだ。
「で、道具は? 手とか。身体変わるんだろ? 前より器用じゃなきゃ困るぞ」
『新しい肉体は十八歳相当。魔力適正持ちで、指先の精密動作に特化した構造にしてある』
「十八!? 若返りじゃん。最高! で、俺って男のまま?」
『新たな体は用意してある。詳しくは現地で確認してくれ』
「うわ〜、怖いな。でもまあ、男でも女でも彫れりゃ文句ないわ」
『それと、〈エングレイヴァー〉。魔刻印と呼ばれる力を使い、術式を魔力で刻む、魂向けのペンみたいなもんだ。だが、紙をちゃんと伸ばしてから書けよ?』
「つまり……土台は自分で整えてからってことか」
『ああ。魔刻印は、素材の内側に“術式”を刻む力だ。ただし基礎が崩れちゃ、どんな紋様も意味をなさない。お前の彫金師としての技量も合わされば、魔刻印の真価を発揮できるかもな』
「なるほどね。術式を刻む、か……職人の出番だな」
『さらに、お前の魔力は一般人の六十倍だ。無加工のまま全開で流したら、石ごと爆ぜるぞ? ちゃんと彫金で使う道具を使え』
「六十倍って、アホか!? 爆発オチだけはやめてくれよな?」
『出力制御に慣れれば問題ない。最初はちょっと“はしゃぎすぎ”に注意が必要だな』
「ははっ……なるほど、やっぱ神っぽいこと言うじゃん」
俺は、ぽんと手を打った……つもりだったが、手ごたえがなかった。そうか、まだ身体がねえのか。
「で、なんか使命とかある? よくあるじゃん、“世界を救え”とかさ」
『ない。ただ彫れ。それが、お前の望みだったろう?』
「……それだけでいいのか? なら決まりだ。俺は彫る。俺の手と、道具と、この衝動で、全部刻んでやるよ」
『そうそう。君のリューターとビットセットも、こちらで再現しておいた』
「マジで!? それ最初に言ってくれよ、泣くとこだったわ」
『ふふ。では、いってこい。刻め、お前の衝動のままに』
その言葉と同時に、真っ白だった空間にヒビが入る。ひとすじの虹のような亀裂が視界に走った。
崩れていく世界。流れ込む色、風、光、匂い。
「……よし、行ってやろうじゃねえか。俺の道具と、この手があれば、なんとかなる」
……だけど、ひとつだけ、心に引っかかってることがあった。
さっきまで彫ってたあのリング──俺が命を削って作り上げた、あの最高の一本。
あれ、どうなったんだ?
あの形、あの線、あの石座の爪の角度。全部、今の俺にしか作れなかったものだ。
届ける予定だったあの依頼主も、あのリングの意味も、もうこの世には残らない。
……悔しいよな。職人として。
最高の仕事を完成させた直後に、それが無に帰すなんて。
せめて、誰かの指にあれが嵌まってたら、まだよかった。
でも、現実は──机の上に残されたまま、埃をかぶってるかもしれない。
それだけが、少しだけ心残りだった。
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