斑猫の貌
器小っせえなおい――
Fase1
暑いすねえ、桜木さん――
降り注ぐ蝉時雨の中で、僕は隣に座っている天然パーマにそう言った。
言うなよ。
余計暑くなるだろうが。
8月初旬の午後5時――そろそろ帰宅する通勤客が多くなり始める頃だ。
西日が照りつける駅前のベンチに、僕と桜木さんは改札口を見ながら座っていた。
しかし――何で、こうも、暑いかねえ、お日様が、あれかね、近くなるのかねえ――
違いますよ桜木さん――太陽の、角度です、光っつうか、熱の、当たる、範囲が――
暑さで喋るのも億劫だ。
この暑い中、改札口を監視するように見ている2人組だから、見ようによっては不審者だ。
ストーカーと思われるかもしれない。
ある種、ストーカー、みたいなもんなんだけどな――
桜木さんは汗を拭いながらそう言った。
まだすか、まだ――居ませんか。
僕の問いに、桜木さんは気怠そうに答えた。
まだ――何も視えねえよ。
Fase2
冨塚駅の改札口に纏わる不穏な噂を桜木さんから聞かされたのは、一昨日の夜だ。
振動するスマホの画面に天然パーマ、と表示されたのを見て、多少げんなりしながら通話アイコンをタップした。
無視すりゃよかった――
駅の改札に、居るらしいぜ――
電話口で桜木さんは燥ぐようにそう言った。
居るといっても、僕には視えないのだからいないのと同じなのだが。
とにかくそいつを――居るかどうかも明瞭しないそいつを――如何にかするのだという。
今回は特に依頼があったわけではないのだが――動画にするのだそうだ。
よくやる――と思う。
動画を撮る方も如何かしているが、見る方もやはり如何かしていると思う。
ツクリでなければ――何か写っていた試しがない。
出演いる人間が、やれ、そこに居るだの雰囲気が怪可しいだの――同じように、一様に、判で押したように騒いでいるだけだ。
まあ、そんなものを視ていたせいで――僕は桜木さんに巻き込まれたのだが。
あの日――気紛れに訪れた冨塚トンネルの入り口で。
桜木さんは座り込んで――否、へたり込んでいた。
普段の、馬鹿みたいにテンションの高い時と違って――憔悴していた。
そして――死んだ魚のような目で僕を視て――言ったのだ。
あんた――これを使えないか――
Fase3
何だありゃ――
ようやく日が翳り出した頃――改札口を視ていた桜木さんが頓狂な声を上げた。
なあおい、一番左の改札口に――立ってるぜ――
立ってるって、何が。
僕には何も視えない。
女だ、真っ黒い――ありゃ、真上向いてんのか――
桜木さんは興奮したように呟くが、僕に見えているのはただの改札口だ。
一番左の改札口だって――人が次々と通り抜けていく。
あいつ彼処から動かねえのか、動いてもらわねえと困るな、駅で鎌振り回したら――捕まるよな。
いや、捕まるの僕なんすけど。
ありゃ、あれかね、気づいた奴に纏わりつく感じかなあ、1類だし、動き鈍いといいんだがなあ。
俺、ちょっと――
行ってくるわ。
そう言って桜木さんは立ち上がった。
僕には視えないモノと対峙した時――桜木さんはそりゃあもう情けないほど怖がりだ。
ひええこっち来ただの、こっち見てるじゃねえか早く当てろよ伊庭、だの――醜態といっていい。
ただ、先刻みたいに最初に接触する時や現場へ入る時は――別人のように落ち着いて見える。
あんた――これを使えないか――
あの時の桜木さんも、まるで――
僕がそんな風に追憶に浸っていると――
天然パーマがものすごい顔でこちらに逃げ帰ってきた。
Fase4
尾いて――きてるんすか。
思いっきり横目で後ろを見ながら、桜木さんに囁く。
来てる。
めちゃくちゃ来てるわ、やっぱ目ぇ合わすと駄目なんだな、漫画とか怪談とかでよく言うだろ、ほんとそのとおりなんだな――
桜木さんはスマホでちらちらと後ろを撮影しながら呟く。
こんな動画視る奴いるのかよ。
とにかく人気の無いとこまで連れていかねえと――人気の無い所でやらないと――目立つからな。
それなんか、僕らが悪者っぽく聞こえないすか。
ゆっくりと尾いてくる――と、桜木さんが言うソレは、真っ黒い女の人だそうだ。
ずうっと笑ってんだよ、怖ぇよ、呪い殺す気満載でお届けしてるじゃねえかよ――
目を合わせた桜木さんに尾いてくるソレを、少しずつ人目につかない場所へ誘導していく。
僕ら、何かあれみたいですね、斑猫――
緊張感があるのかないのかよく判らなくて、ついそんな事を口走る。
ハンミョウてあれだろ、道案内する派手な色の虫だろ。
あれさ、道案内してんじゃなくて――後ろから来る人間にびびって逃げてるだけらしいな。
じゃ、今の僕らと同じじゃないですか、桜木さんのアロハも派手だし――
人をハンミョウに例えるな――そう言って、桜木さんは10メートルほど先を顎で示す。
おい伊庭、そこの――脇道入るぞ、誘い込んで――鎌で当ててやれ。
そうすね、そこなら人目も――
そう言った時だった。
あれ、伊庭くん――
涼しげな声とともに――
その子は、最悪のタイミングで現れた。
Fase5
何してるのこんなところで――
ジャージにスポーツバッグという出で立ちで声をかけてきたのは――同じクラスの汐見さんだ。
ショートカットの黒髪が少しだけ濡れているということは――水泳部の練習帰りか。
なぁん、だか、おぉん、だか、僕は珍妙な返事をした。
何してるのって――今一番困る質問だ。
し汐見さん、い、いや、ちょっと暑っついからさ、散歩にね、散歩――
後ろから――来てるはずだ。
挟み撃ちされた斑猫も、こんな気分なのだろうか。
バッグの中の鎌が重くなった気がする。
どうしよう、桜木さん、さくらぎ――
ふと横を見ると。
天然パーマがもんのすごい爽やかな笑顔を浮かべていた。
やあ、汐見さんとおっしゃるんですか。
初めまして、伊庭くんの叔父の桜木といいます。
部活帰りですか、暑いのに凄いなあ――
何だ、こいつ――
あはは、たしかに水泳部ですけど、プールも結構暑いんですよ、あ、私、汐見有紀っていいます。
へええ、伊庭くんの叔父さんって、けっこうお若いんですね――
はっはは、これでもまだ20代前半ですからね、でも汐見さんや伊庭くんから見たらおじさんかなぁ、伊庭くんも気をつけろよ、おじさんになる時なんか、愚図愚図してると――
すぐそこまで来てるぞ。
明るそうに振る舞っているが、目が笑っていない。
僕は初めて――桜木さんを畏怖いと思った。
若いからって無理するとあれですよ、熱中症とかになっちゃいますからね。
汐見さんも気をつけて下さいね――なあ。
そ、そうだね、練習大変だと思うけど、頑張ってね。
汐見さんは、けっこうかわいいと思う。
目元は涼しげだし、性格も屈託がなくて良い子だと思う。
欠点といえば――今のところ、僕たち斑猫の邪魔をしてることくらいだ。
うん、ありがとね。
もう暗くなっちゃいそうだから、伊庭くんも気をつけてね。
桜木さんも、失礼しますね――
汐見さんはひらひらと手を振りながら再び家路につく。
桜木さんは、汐見さんも気をつけて帰って下さいねえ――などと呑気に手を振っている。
半分くらいは、女学生と話せて本気で嬉しがっているようだ。
だが汐見さんが僕たちから5メートルほど離れた時だろうか。
今、あの子とすれ違った――
桜木さんは、わりかし切迫したことを言った。
Fase6
急ぎ足で脇道に向かう間も、桜木さんは文句を言い続けていた。
おまえ伊庭このやろう、あんなかわいらしい子がクラスメイトなのか。
羨ましいなあ――いやほんと、羨ましいよ。
いいよな高校生はよお――
こんな時に何を言ってるんだこの人は。
視えてる分、僕より恐怖度は高いはずなのに――
脇道に入るが早いか、僕たちは走って距離を取った。
伊庭このやろう、さっさと鎌出せこのやろう。
汐見さんと遭ってから明らかに当たりがキツい。
器小っせえなおい。
分かってますよ、こっちだってね、早く帰りたいんすよ。
脇道の入り口を見ながら、手探りでバッグの中の鎌を探す。
刃引きしてあるから、手を切る心配はない。
この鎌は――視えないモノしか斬れない。
バッグの中で、鎌の持ち手を掴んだ。
行けます、どこすか桜木さん――
姿勢を低く保ったままそう聞くと――
今、脇道に入ってきたぞぉ、と遠くから声がした。
振り向くと桜木さんは――数メートルは離れた電柱の陰に隠れている。
桜木このやろう――僕は鎌を投げつけてやろうかと思った。
こんな時もスマホで撮影してるのが余計腹立つ。
あと――3メートルくらいだ!
うわ近!
伊庭もういいよ、踏み込め――
振れえっ、という桜木さんの声に合わせて、僕は思い切り何も視えない空間を薙ぎ払った。
――このバイトの何が困るって、手応えが全くないことだ。
斬れたのか、どうなんだ――
どうすか桜木さん!
振り向くと――
桜木さんの口が。
避けられた――と動いた。
見たことは無いが――
絶望した斑猫の貌みたいだと思った。
Fase7
避けたよ伊庭ぁ!
避けられた!
避けられたって――
方向が違ったんすか!?
そんな――馬鹿な。
方向間違いが無いように、狭い脇道を選んだのに――
桜木さんは泣きそうな声で叫んだ。
違えよぉ!
なんつうの、こう、漫画のさ、残像の奴みたいに――
桜木さんの言ってることは何となく判った。
なんというかこう、シャッ、シャッ、みたいな動きで躱したんだろう。
瞬間的に――加速するのか。
何故か電柱の前に出てきた桜木さんは、目の前に来ているであろうモノに必死で話しかけていた。
いや違うんすよ、僕ね、やだなあ目が合っただけじゃないですか、そんな怖い顔――ほんとに怖いっすね、うわあ待って、待てって!
近い!
そんな――
直ぐ目の前に来られたら――
電柱の方角に駆けながら気づく。
桜木さんは、わざわざ電柱の前に出てきた。
怖いなら――さっさと逃げればいいのにだ。
桜木さんの――笑っていない目が見える。
目には視えないが、そいつは――
今、桜木さんの目の前にいるはずだ。
戦く相手を見ながら――嗤っているのか。
憑き殺す相手を見て――悦んでいるのか。
妙な苛立ちを抱えたまま、鎌を逆手に持ち変える。
駆ける勢いそのままに、僕は地を這うように低く跳躍した。
避けられるもんなら――
避けてみやがれ
振り下ろした鎌が鼻先を掠めて斬り結ばれると――
桜木さんはへなへなと電柱に寄りかかったまま尻餅をついた。
伊庭、おまえさ――
荒い息を吐きながら桜木さんが言った。
後ろから斬るって――卑怯じゃね?
五月蝿いっ、と――
黄昏時の街並みに僕の声が響いた。
Fase8
あ、おはよう伊庭くん。
ねえ聞いた?
こないださ、伊庭くんと、伊庭くんの叔父さんに会ったでしょ?
あの後に、近くでさ――不審者が出たんだって。
鎌持ってて、叫んでたらしいよ。
怖いよねえ、あたしも気をつけなきゃ。
やっぱり誰かと一緒に帰らないと、危ないよね――
汐見さんの話を聞きながら――
僕は道を塞がれた斑猫のような貌をしていたに違いなかった。