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幽霊との付き合い方

作者: 入道雲

 扉が開かれ、カランコロンと小気味良い音が鳴る。姿を現したのは、心配そうに眉を八の字にしている若い男と、肩を貸され顔を赤くした壮年の男。


「大丈夫ですか?」


「だいじょぶだって! だいじょーぶ。じゃーまたね、後藤くん!」


「……ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」


 後藤と呼ばれた若い男は恭しく頭を下げ、心の中で一秒数える。そしてスラックスに付いていた埃をはたき落とし、顔を上げた。


「ホントに大丈夫かな?」


 ぼそりと呟く彼の視線の先では、上機嫌な千鳥足で遠ざかっていく客の背中が揺れている。誰から見ても出来上がっているその客は、後藤がバーテンダーを務める『Bar後藤』の常連客の一人である。


「まあ、いつものことだよね」


 そう言って彼は早々に心配を打ち切り、ベストとシャツにもゴミが付いていないか確かめる。衣服についていた皺を一通り直した後、整髪料で固められた髪をサッと撫で整えて店内に踵を返した。


 ゆっくりと扉が閉まり、再び子気味良い音が鳴る。店内は程よく薄暗く、落ち着いたテンポのジャズが流れている。閉店十分前ということもあり店の中はガランとしているが、まだ一人だけ、客が残っていた。


 紺色のスーツを着た、二十代くらいの男だ。店の隅っこの席に俯くようにして座っているため表情はよく見えないが、真新しいスーツや革靴を見る限り、その男は社会人になって間もない風に見受けられた。


「…………」


 後藤はあえてコツコツと足音を立てながら彼の席に近付く。三十分前に入店した男が頼んだのは、ロングカクテルであるジントニックだった。祈るように両手で握られたグラスをチラリと窺うと、グラスの中身は一割も減っていない。明らかに遅いペース。そして一歩一歩近付くにつれ見えてきた、面接を控えているかの如き緊張を浮かべる男の表情。


 後藤はこの時点で己の確信を深めた。ゆったりとした動きで男の正面に立ち、口を開く。


「お口に合いませんでしたか?」


 穏やかな声音で話しかけられた男はハッと顔を上げ、ブンブンと首を横に振る。


「いえ! あの、とても美味しいです。すみません」


「それは良かったです。とても厳しいお顔をされていたものですから」


「それは、その……」


 視線を泳がせる男の斜め向かいに座り、後藤は優しく問いかける。


「何か、相談事があるのではありませんか?」


 途端、男の視線が後藤を捉えて固まる。目を見開いた彼は何事かを言おうとして開いた口を一度閉じ、一拍置いてから、絞り出すように呟いた。


「……本当、なんですか?」


 それは要領を得ない質問だったが、後藤はすぐに真意を理解した。


「はい、本当ですよ。あ、一旦お店を閉めてきますね。誰か来てしまうといけないので」


 唖然としている男を置いて後藤は席を立ち、入り口の鍵をカチャリと閉める。再び男の斜め向かいに座り、何から話したものかと喋りあぐねている彼の様子を見て、柔らかく微笑んだ。


「まずは、自己紹介をさせてください。私は後藤優誠と申します。漢字は優勝の“優”に誠実の“誠”と書きます。このBar後藤でバーテンダーを務めています」


「あ、ぼ──私は、雨宮徹と申します。徹頭徹尾の“徹”と書いて『とおる』です。この四月から、社会人になりました」


「それはおめでとうございます。因みに、私のことは何処で耳にしましたか?」


「会社の先輩に伺いました。あ、これ先輩の名刺です」


 雨宮と名乗った男はスーツの胸ポケットに右手を入れ、これまた真新しい名刺入れを取り出した。


「あー、なるほど」


 後藤は手渡された名刺を一目見て納得したと言わんばかりに頷き、それを雨宮に返した。


「この会社はオフィスが近くにありますよね」


「はい。えっと、それで、その」


 遠慮がちに、探りを入れるように言葉を選びながら、


「後藤さんが“見える人”だ、という話は──」


 雨宮は切り出した。


「はい、事実です」


 それに対し後藤は、堂々と首肯して応えてみせた。


「いつから、見えるんですか?」


 試すような、疑るような視線を受けつつも、後藤は穏やかな表情を一切変えずに淡々と答える。


「いつから見えるようになったのか、ハッキリとは覚えていません。ただ、私が見ているものが生きている人間ではないと明確に理解できたのは、小学校一年生の頃。叔父の葬式に参列した時です」


「っ……」


「他に、何か訊きたいことはありますか?」


「……いえ、ありません」


「では、早速雨宮さんの話を聞かせてくだ──あ、その前に一つだけ」


 コホンと咳払いを一つして、後藤は右手の人差し指を立てた。


「最初に言っておきますが、私は見えるだけです。神主さんのように祓ったり、フィクションでよくあるように退治したりなんかはできません。私にできるのは雨宮さんの話を聞き、これまでの経験に照らし合わせ、最適な助言をさせていただくことだけです。つまり、私に相談したからといってすぐさま事態が解決することはありませんし、解決するとも限りません。それでもよろしいですか?」


「…………」


 短い黙考の後、雨宮はグラスを握っていた両の手を膝の上に置き、


「構いません。よろしくお願いします」


 深々と頭を下げた。


「わかりました。それでは、雨宮さんの話を聞かせてください」


──── 


「この三月に大学を卒業した私は、十日ほど前に住んでいた部屋を引き払い、会社の近くにあるアパートに引っ越しました。そこは築二年で、当然ながら何の曰くもありません。元々幽霊やその類は信じていませんでしたが、何もない方が安心なのは間違いないので、何件か迷った末にその物件に決めたんです」


「なるほど」


「ところが引っ越して二日ほど経った頃、部屋の中に自分以外の気配を感じるようになりました」


「気配、ですか」


「はい。姿が見えるわけでも、声が聞こえるわけでもありません。けど確かに、部屋の隅に何かを感じるんです。初めは勘違いだと思いました。新しい環境ですし、色々とバタバタしていて疲れているのだと。しかし数日が経っても、その気配は消えませんでした。正確には、気配を感じない時間もちょくちょくあったんです。ですが暫くすると、それは必ず戻ってきました」


「…………」


 後藤は黙って話を聞き、雨宮に先を促す。


「そんな中、社会人としての生活が始まりました。流石にこんな気味の悪い話を知り合って間もない同期にするわけにもいかず、初めて出勤した日の夜に気休めに玄関に盛り塩を置きました。その翌日からです。より身近に、気配を感じるようになったのは」


 雨宮の膝の上に置かれた左手。その手を覆うように握る右手に、自然と力が入る。


「とはいっても、なんとなくです。なんとなく、近付いてきているような気がするだけなんです。何の確証もありません」


 むしろ勘違いであってほしいとばかりに、彼は付け足した。


「ですが、気味の悪さを感じているのは誤魔化しようのない事実です。おかげで寝不足が続いています。そろそろ仕事にも支障が出そうになってきたタイミングで、先輩に声をかけてもらいました。『何か悩みでもあるのか?』と。正直迷いましたが、その先輩は本当に人が良い方なので、包み隠さず現状を打ち明けました。その時、後藤さんのことを伺ったんです」


「そういうことでしたか」


「……それで後藤さん。私は、一体どうすればよいのでしょうか?」


 縋るような、弱弱しい目だった。それは、後藤がこれまでに幾度となく見てきた目だった。


「話を軽くまとめましょうか。つまり雨宮さんの相談事というのは、どうすれば気配の主に部屋から出て行ってもらえるのか、ということでよろしいですか?」


「はい、そうです」


「わかりました。話を聞いて、ふんわりと察しはついています。安心してください。今すぐにとはいきませんが、近日中に解決すると思います」


「近日中に、ですか……?」


 訝しむような目。顔に「信じられない」と書いているのを読み取った後藤は、「ですが」と口を開く。


「今の話以外に、まだ何か、黙っていることはありませんか?」


「──え?」


「例えば最近、雨宮さんがお住まいのアパートのすぐ近くで、事件や事故があったとか」


「っ!」


「それも、雨宮さんが引っ越してくる直前くらいじゃありませんか? その事件、ないしは事故が起こったのは」


「どうして、それを……」


 愕然とする雨宮を見て、後藤はやはりそうかと思った。


 実は雨宮は、とある事実を意図的に隠していた。この事実を前もって話してしまえば、誰でも“それ”が原因だと主張できてしまう。そうなると噂の後藤とやらが“本物”かどうか判断ができない。故に噂の人物を試すため、敢えて重要な情報を伏せていた。もしもこれを言い当てられるようであれば、信用に値すると。そう考えて話をしなかった。


 しかして、後藤はこともなげに言い当ててみせた。真っ直ぐに見据えられた雨宮は、堪らず視線を逸らしてしまう。


「……すみませんでした」


「あはは、別に良いですよ。慣れていますから」


 すべてを見透かして尚朗らかに笑う後藤に、雨宮の胸がチクリと痛む。


「本当に、すみませんでした……!」


「いやいや、本当に気にしないでください! 『幽霊が見える』なんて言われても、信じられないのが普通ですよ。ですから、頭を上げてください」


「ありがとう、ございます」


 途切れ途切れに礼を言って、雨宮は氷の溶け始めたジントニックを少し口に含み、乾いた口内を潤した。グラスがコースターの上に置かれ、カランと氷のぶつかる音が鳴る。


「隠していたことを、お話しします」


 後藤が頷く。雨宮は汗ばんだ両の手を膝で拭き、静かに語り始めた。


「──鍵の受け渡しの日でした。鍵を受け取る直前、契約を交わした不動産屋の方が申し訳なさそうな顔をしながら、『実は……』と前置きをして話してくれたんです。事故があった、と。入居日の二日前、近隣に住む女性がトラックに轢かれて亡くなったそうです。速度はなかったものの、頭の打ち所が悪かったと。その方は私が曰くの有無を気にしていたのを覚えていて、後から知るよりはと話してくれたみたいです」


「それは……」


「今更部屋を探し直すなんて到底できませんし、建物自体に曰くがついたわけではありません。それにその時の私は幽霊やその類を信じていなかったので、そのまま鍵を受け取りました」


「そして、気配を感じるようになった、と」


「はい」


「…………」


 数秒の間、場を沈黙が支配する。その沈黙を破ったのは、雨宮だった。


「それにしても、どうして、私なんでしょうか」


 消え入りそうな声で、彼は心の中に押しとどめていた感情を吐き出していく。


「他にも沢山人がいるのに、その中でも私を──私の部屋を選んだのでしょうか。仮に気配の主が事故で亡くなった女性だったとしてですよ? どうして自分の家とか友達の家に行かないんですか? どうして……」


 自らの身に降りかかった理不尽への憤りが溢れる。そんな雨宮に、後藤は諭すように言った。


「──もう、行っていたとしたら?」


「え?」


「雨宮さんの仰る通りです。幽霊だろうがなんだろうが、元々は私たちと何ら変わらない生きた人間です。予想の域を出ませんが、自身が亡くなった事実をどうにかこうにか飲み込んだ後、彼女は手始めにご実家に帰られたのかもしれません」


「だったら──」


「その結果、家族の誰にも認識してもらえなかったのだとしたら? これまで育ててくれた母親にも、生まれてからずっと可愛がってくれた父親にも。ともすれば、ご兄弟にも。誰一人にも“見て”もらえず、ただただ呆然と立ち尽くし、仏壇に立てかけられている自分の遺影を眺めるしかなかった」


「っ……!」


「それがどれだけ辛いことなのか、まだ生きている私たちには決して想像できない。残された友達にも“見て”もらえないのでは? という恐怖も底知れないものでしょう。だから、家を去った彼女が自分のことを“見て”くれる見知らぬ誰かを求めて近所を彷徨ったとしても、何ら不思議はないと思いませんか?」


「…………」


 沈黙は、肯定の証だった。


「とは言え、それだけでは雨宮さんの『どうして私を選んだのか』という部分の答えになっていません。ですが、そこもなんとなく予想がつきます」


 後藤は「多分ですけど」と前置きをし、言葉を続けた。


「雨宮さん、アパートの一階に住んでいるんじゃありませんか?」


「!?」


「しかも、ベランダの窓をこまめに開けて換気するタイプだったりしません?」


 見開かれていた雨宮の目が、更に見開かれる。


「どうして、そんなことまで」


 確かに、雨宮は引っ越してから頻繫にベランダに続く窓を開けていた。しかしながら、まるで見てきたかの如く言い当てる後藤に驚きを禁じ得なかった。そんな彼に後藤は、「繰り返しになりますが」と続ける。


「幽霊だって元々は生きた人間です。つまるところ、生前できなかったことは死後もできない、ということです。幽霊だからといって壁をすり抜けてどこへでも侵入しちゃうとか、人を呪い殺しちゃう、なんてことは通常できません」


「それと私が一階に住んでいることが、どう繋がるんでしょうか」


「察するに、シンプルな流れだと思います。家の近くを歩いていた彼女は、侵入が容易な一階で、しかも窓の開いている雨宮さんの部屋を見かける。それから藁にも縋る思いでベランダからお邪魔した。赤の他人の部屋に入ってしまった彼女は少し迷った後、遠慮がちに部屋の隅に居座ることにしたのでしょう。丁度、私の店に初めて訪れた雨宮さんが、その隅っこの席を選んだように」


「あ、え──?」


「本来であれば、見えも聞こえもしない雨宮さんの部屋からは次の“候補”を見つけ次第すぐに出ていくつもりだった筈です。時々気配を感じなくなっていたのは、実際に部屋を出て次なる“候補”を探し回っていたからだと思います」


 半ば置いてけぼりになっている雨宮を話の本筋に引き戻すため、後藤は彼に問いかけた。


「けれど雨宮さんは、初出勤した日の夜に盛り塩をした。ですよね?」


「は、はい」


「最初から置いていたのではなく、気配を感じ始めてから塩を置いた。その行為は、彼女からすれば『私はあなたを意識しています』という宣言に他なりません」


「あっ」


「彷徨えど彷徨えど誰からも相手にされず孤独を感じていた彼女にとって、余程嬉しい出来事であったに違いありません。だから一縷の望みに賭けて、あなたの元を離れられなくなった」


 雨宮の脳裏に、部屋にいる自分に必死に語りかける女性の姿が浮かぶ。そのイメージを振り払うように、彼は身を乗り出して口を開いた。


「でも! 後藤さんは先ほど近日中に解決すると言いましたよね!?」


「ええ。解決策は二つあります」


 落ち着き払った様子で、後藤は顔の前で二本の指を立てた。


「その、二つの解決策というのは……」


「どちらも非常に簡単です。特別な準備は何も要りません」


 ごくりと、雨宮は生唾を飲み込む。


「まず一つ目。こちらは少々時間がかかるかもしれませんが、確実に部屋から出て行ってもらえると思います」


「何をすれば良いんですか?」


「いえ、逆です──何もしなくていいんです。それが、一つ目の解決法です」


「……何も、しない?」


 理解しがたいといった表情を浮かべる雨宮。しかし、後藤は至って真面目だった。


「気配を感じ始めたのが引っ越してから二日後。その三日後に盛り塩を置いた。十日前に引っ越してきたということは、盛り塩を置いてから五日ほど経過したことになります。ですよね?」


「ええ、まあ」


「この五日間、盛り塩の他に何かしましたか?」


 尋ねられた雨宮は右上に視線を飛ばし、数秒かけて記憶を辿る。


「……いえ、特に何も。盛り塩が逆効果だったので、それ以上のことは怖くてできませんでした。強いて言えば、とにかく気にしないようにしていたくらいですかね」


「良い判断だと思います。ではここで、幽霊の視点になって考えてみてください。雨宮さんは気になる人に五日間も無視され続けたとして、それでもまだアタックできますか?」


 そこで初めて、雨宮は後藤の言わんとすることを理解した。


「できません……! 普通の人なら、心が折れます」


「そういうことです。盛り塩で反応してしまったことを踏まえたとしても、五日という日数は私の経験上、相当粘っている方です。正直、今日明日にでも部屋から出て行ってもおかしくはありません」


「そう、ですか」


 張り詰めていた糸が切れたように、雨宮は肩の力を抜いた。


「ということで一つ目の解決法は、これまで通り知らんぷりを継続すること、です。十中八九上手くいくでしょうし、二つ目の解決方法は必要ないかなぁと思うのですが……」


「? 念のため、二つ目も教えてください。十中八九という言葉通り、“一”や“二”が有り得ますから」


 どこか気の進まない顔をする後藤を不思議に思いつつも、雨宮は二つ目の策を尋ねる。


「……わかりました。この方法は、かなりの即効性があります。上手くいけば、すぐにでも幽霊は部屋を出て行ってくれるかもしれません」


「そんなことができるんですか!? ぜひ教えてください!」


 煮え切らない風にしばらく口をもごもごとさせ、不自然にもったいぶった後、後藤はようやく口を開いた。


「その、例えばですよ? 部屋で全裸になって暴れ回るとか、大人向けのビデオを大音量で流すとか、そういったことをするんです」


「…………は?」


 たっぷりの間を置いて、雨宮は首を傾げた。そして訝しげに後藤を見つめる。


「違うんです! 想像してください! 知らない人が急に目の前でそのような奇行、蛮行に及んだとしたら、雨宮さんはどう思いますか?」


 言い訳でもするかの如くまくし立てる後藤の言葉に押されて、雨宮はイメージした。


 イメージして、


「──ああ、ドン引きしますね」


 納得した。


「ですよね!? だから、場合によってはすぐに出て行くと思うんです。雨宮さんは『びっくりするほどユートピア』とかご存じないですか? アレと同じ発想なんですけど……」


「いえ、知りませんけど……でも、言いたいことはわかりました。なんだか、どうにかなりそうな気がしてきました」


 そう言って、雨宮は深々と頭を下げた。


「お役に立てたようで何よりです」


 俯いていた顔は正面を向き、背筋はピシっと伸びている。心なしか、スーツの皺さえ伸びている気がした。ともかく、店に来た時とは大違いな様子の雨宮を見て、後藤は安心したように頬を緩めた。


────


 すっかり解決の雰囲気になった二人は、その後雨宮がジントニックを飲み干すまで雑談を交わした。


 お互いの名前の由来だとか、どうしてこのような相談に無償で乗っているのかとか、社会人としての心構えだとか。他愛もないことを、山ほど話した。


 そして三十分が経った頃、雨宮は最後の一口を飲み込んだ。


「今日は、本当にありがとうございました」


「いえいえ、とんでもないです」


「おかげで久しぶりによく眠れそうです。ただ……」


「ただ?」


「私は最初、幽霊を化物か何かだと思っていたんです。ですが今日、幽霊もただの人だと知り、彼らに対する恐怖も幾分か薄れました。そうなると、帰ってまた幽霊を無視し続けるのはちょっと後ろ髪を引かれるといいますか……」


「確かに、罪悪感が湧きますよね。でも、絶対にダメです。生まれてこのかたずっと幽霊と付き合っている私が断言します。死者と生者は、関わるべきではありません。だから何があったとしても、一時の情に流されてはいけませんよ」


「そう……ですよね。その幽霊も、きっとどこかで別の幽霊に出会えますよね」


「はい。そういうことです」


 これまで言葉を交わした中で最も強い口調で諫められた雨宮は一瞬面を食らったが、最後の忠告だと思って素直に受け取った。



「では、また来ます。次は客として」


「はい、またのご来店をお待ちしております」


 後藤は恭しく頭を下げ、心の中で一秒数える。それから頭を上げて、真っ直ぐに遠ざかっていく背中を見送った。


「ふぅー」


 誰もいない店内に戻った後藤は、大きく息を吐いた。その表情は先ほどまでとは打って変わって、どこか険しい。その原因は、一つの“嘘”にあった。


 実は後藤は、雨宮との会話の中で、たった一つだけ嘘を吐いた。それは、雨宮の『その幽霊も、きっとどこかで別の幽霊に出会えますよね』という言葉に対する返答だ。後藤は肯定の言葉を返したが、現実は違う。


 後藤は言った。


 ──幽霊だって元々は生きた人間です。つまるところ、生前できなかったことは死後もできない、ということです。


 故に、生前幽霊が見えなかった者は、死後も幽霊が見えない。これは、後藤が過去にその目で目撃している、厳然たる事実であった。


 畢竟、件の事故で亡くなった女性が“見えない人”であった場合、彼女は自分のことを“見て”くれる誰かと出会うまで、或いは成仏できるまで、永久にひとりぼっちなのだ。

最後まで読んで下さりありがとうございました。

よろしければブクマ、評価、感想をお願いいたします。

今後も色々な短編を投稿していく予定です。

Xアカウント(@nyudogumo_narou)で投稿を呟いています。

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