【第104.2話】吸血鬼と少女の過去。(1)
これは今から約三百年前の話。
吸血鬼の王、夜の王、或いは血姫と恐れられた美しい吸血鬼と、一人の少女の物語──。
「……」
全身の至る所が傷だらけ、これ以上に満身創痍という言葉が似合う者は他にいないだろうと思える程の致命傷。
そんな身体を引きずり、息も絶え絶えに真昼の森を歩き続ける。
先刻、我はある冒険者との決闘に敗れた。我自身、負けるとは夢にも思わなかった。
今まで、屈強な戦士や冒険者、無数の兵隊と戦い、その全てを返り討ちにし、返り血に塗れてきたこの我が、ただ一人の冒険者に敗北を喫したのだ。
それは、見事なまでに完敗だった。九つもあった心臓は、その内の八つを破壊され、残り一つもほぼ機能停止状態。御自慢の再生能力もほとんど失われ、かつての姿は見る影もなかった。
トドメこそ刺されなかったものの、これ以上の生命活動は死に直結する、そんな状態だった。
「これは……」
森を彷徨い続けて数時間、目の前には廃れた家屋。この距離まで近付くまで気付かないとは、いよいよ限界らしい。
我の最後の場所には相応しくないな、と思いながらも扉を開けて中へと入って行く。
中は予想通り、長らく手入れがされていないといった感じの荒れ具合で、いつ倒壊してもおかしくないと思えるほど。
霞んだ視界で辺りを見回してみると、丁度そこには寝具があった。とはいえ流石に朽ち果てていて、至極丁寧に扱ったとしても、すぐさま音を立てて壊れてしまいそうだった。
「せめて、我が息を引き取るその時までは壊れてくれるなよ」
そう独白し、慎重に、その寝具に身を預ける。
ミシッという危なげな音が鳴りはしたが、何とか事なきを得た。
「……」
寝具の上で目を瞑り、直に訪れるであろう最後の刻を待つ。
千年以上も前から、この世界に君臨し続けていた偉大な吸血鬼の最期が、これか。
何とも呆気ない。
ただ不思議と、後悔や心残りといったものはなかった。愛する者はおらず、そんな感情はとうに捨てた。かつては信頼出来る眷属達がいたが、皆とうにこの世を去った。いつからか、眷属をつくることを止めた。
「ふっ……なんだ、お似合いではないか」
人々から忘れ去られ、後は朽ちるのを待つだけのこの廃屋と、孤独な最期を迎え、いずれ世界から完全に忘れ去られるであろう自分。
いや、智慧の主や純系魔王の連中は覚えているか。それどころか、アルキラナは今も我の最期を見届けているかもしれぬな。
ああそうだ、シャトラは無事だろうか。百年近く姿を見ていないが……腐れ縁とはいえ、長い付き合いだった。
死に際になって、そんな事ばかりが脳裏に浮かんでくる。
やはり、一人は寂しいな。
「人物画の一枚でも、残しておくべきだったか────」
少しずつ、意識が薄れてゆく────。
それからしばらくして、悠久の刻を生きた美しき吸血鬼の物語は、一度幕を閉じた。
──────そして時は流れ、三百年後。
「……」
鳥のさえずりが聞こえる。瞼を照らす光が、やけに鬱陶しく感じた。まるで、皮膚が焼けるような────。
「……って熱いわっ!」
「きゃあっ!!」
急いで飛び起き、窓に掛かっていたカーテンを勢いよく閉じる。
「こ、これは一体……」
感覚がある。
死んだはずの、この身体に。
「ま、まさか本当に目を覚ますなんて……!!」
「ぐはっ!」
突然、何者かに全身抱きしめられる。
な、なんなのだ、この娘は。
「あ、あのあの、私はユエって言います!!」
「は、はあ……」
イマイチこの状況を理解出来ない我は、そんな曖昧な相槌を打った。
「お姉さんのお名前、聞いてもいいですか!?」
「……名前、か」
「そうです!」
「……我の名はベルクロエ・ブラッドレイン──かつては、そう呼ばれていたな」
「わあっ! とても素敵なお名前ですね!!」
今の自分に、その名を名乗る資格はあるのだろうか。たかが日差しを受けただけで、これほどのダメージを受けるとは。死に際ですら、もう少しマシな状態だったはずだ。
あまりにも、弱り過ぎている。
「あ、すみません! まだ起きたばかりなのに、色々と……」
「いや、構わぬ。それより、この状況を説明してくれ」
周囲を見回すと、共に最期を迎えたはずの荒れ切った廃屋は、人が住んでいると一目で分かるほどに綺麗な家屋へと様変わりしていた。当然、我が身を預けていた寝具もだ。
「状況、ですか?」
「ああ。何故我は生きていて、其方は何者なのか────」
この目の前の年端もゆかない少女に、それを知っているとは思えぬが、一応聞いてみる。
「えっと、私は────」
その少女は、語り始めた。
曰く、このユエという少女は生贄らしかった。どうやら我の眠っている間に、この森には“血を喰らう鬼”が棲んでいるという風説が近くの村に流れていたらしく、十年に一度、若い少女を生贄として捧げているとのこと。
そしてこの少女は生贄としてこの森の奥に捧げられ、宛もなく彷徨い、この家屋に辿り着いたという。それがおおよそ二年前の話。
「あっ、そうでした! これをどうぞ。お姉さんについて書かれているみたいなので」
少女から手渡されたのは、一冊の日記。
かなり古く、今にも朽ちてしまいそうだった。
「壊しちゃったらよくないと思って、最初の一ページしか読んでないんですけど──」
「……」
少女の言葉を聞きながら、慎重に日記を開く。
なるほど。確かに、これは我について書かれている日記だな。
『親愛なる貴方へ、この日記を贈ります。』
そして、
“この日、私はこの小屋で一人の美しい女性を見つけた。”
という書き出し。
日付は、我が意識を失ってからたった一ヶ月後のもの。つまり、今から三百年も前の日記ということだ。
この日記に、全てが記されているのだろうか。
我は逸る気持ちを抑え、丁寧に、一ページずつめくっていくのだった。