72 「その閣下でさえ、人を虫のようだと思うんだよ」
「威嚇用に何発か落とすぞ。光と音に気をつけろ」
閣下の赤い触覚がぴくりと真っ直ぐになったかと思うと、まるで手を振り下ろすように下を向く。
それと同時だった。
───ドォォォンン!!!
立て続けに落ちたのは、五つほど。丁度、わたしたちを囲むように五カ所が黒焦げになっていた。いや、それどころが地表がえぐれている。
糸が怯んだように、少し後退する。けれども油断はできない。量はあちらにある、押されればまた同じ状況だ。
「閣下、それで俺はどう受け止めれば良いんですか?」
デミオンが取り出したのは、彼の言葉通り細身のナイフだ。護身用に、剣の稽古をつけてくれる騎士団の皆様からいただいたものらしい。
(よく分からないけど、素人目で見ても切れ味良さそう)
装飾はほとんどないが、刃渡は六センチ以上ある。プロからの贈り物なのだ。きっと、実用的な品物なのだろう。
「守り手の我輩の雷が、白百合を焼くなどあり得ない。だからそのまま刃物を天へ向けるといい。そこに落とす」
「それに合わせ、周囲を払えば良いんですね。分かりました」
閣下とデミオンの会話の間も、糸は量だけはどんどん増していく。膝よりも下だったかさも、今は腰あたりまできそうだ。
「娘、怖いのならば目を瞑っておけ」
「嫌ですよ。わたしは覚えておきます。何があったのか、忘れたくありません」
守ってもらい、知らないでいることもできるだろう。目を瞑り、見ないでいることもできる。だけど、今ここで失われることを、わたしは無視できない。
「……リリアン嬢、いいんですか?」
デミオンが尋ねる。
わたしは彼の目を見て、頷いた。
「閣下、お願いします!」
デミオンの声に、閣下が応える。
頭上でゴロゴロと鳴り、不穏な音が増していく。先ほどよりもずっと大きなものを、予感させた。
「行くぞ!!!!」
ピカッと、青い閃光が走る。
わたしたちの前後左右、八方向からの上から稲妻が地上を目指す。落ちる先は、デミオンが掲げる刃。その切っ先だ。
ドドォォォォンンンン───!!!!
八岐大蛇のように、天を裂く光が集約され渦巻く。
デミオンの表情は光でよく見えない。
バチバチと彼の利き手で、弾けるのは閣下の稲妻だ。それを彼は無言のまま、前方めがけて薙ぎ払った。
世界が白く染まる。
わたしの目の前で、凄まじい閃光と雷鳴、破壊音が生み出されていく。
全ての闇を切り伏せるような、生木を裂くかの如く糸という糸を雷が絡め取り、無理矢理切焼き切っていく。空気まで爆ぜるのか、空中には糸の残骸と灰が舞っていた。
普通の雷と違う、閣下の稲妻は地を駆ける大蛇のようでもあった。放電し、蛇行しながらひたすら進む。
その先、最終点には人のような、そうではないものの姿。
わたしは目を凝らす。
爆音と爆風は容赦なく鼓膜を叩き、わたしの瞬きを強制させる。それでもなお、明暗する世界でわたしは前方を目を凝らして見つめ続けた。
糸の大海原に立つ、孤高の姿。
人をやめてしまった異形の影。
這う稲光が、遂にその顎門を開き、丸呑みせんとする。毒と牙の代わりに、全てを焼く雷がたどり着く。
「キャァァァァ─────ッ!!!!!!」
金属を擦り合わせたような、歪な悲鳴が虚洞に響き渡った。
八首の大蛇が絡み、ひとつの大首と成すかのようにマリアだった存在を壊していく。
まだ焼かれていない糸が、一斉にその動きを失い、灰と化す。閣下の稲妻と同じ青い炎に包まれ、焼き消されていくよう。
はらはらと、熱に炙られ舞うのは残りかす。
ただの灰。
そして、マリアの欠片。
彼女の声が、わたしたちの周りでこだまする。
『あたしは可愛いでしょう』
『あたしもお母様みたいになるの』
『男爵だからって馬鹿にしないで!』
『半分外国人だからって何よっ』
『この国にはウンザリだわ』
『貴族なんて、大っ嫌い!』
『男はバカばっかり!!』
『アタシこそが勝つのよ!』
『あたしだって、あたしだって幸せになるの!!』
(きっとこれは、彼女の心の声だ……)
灰と一緒に、彼女の心が断片的に響いていく。けれども、それもやがては消えてしまう。
空気に溶けるように、時間と共に存在が薄くなり、見えなくなっていた。
「……閣下、彼女はアルカジアの門をくぐれたんでしょうか」
その先のいと高き揺籠へ、彼女は還れたのだろうか。できれば還ることができたと、わたしは信じたい。そうすれば再びこの世界に戻れるのだから。
次こそは、彼女の願い通り幸せになれたらと思ってしまうのだ。
しかし、閣下は首を振る。
デミオンの肩、定位置に戻った閣下は消えてしまった灰を追うように、頭上を眺める。
「人ではなくなったものは、その魂を維持できないのだ。或いは、契約相手の物となっているかもしれぬ」
「閣下、虚洞は人の世とも違う場所だと俺は聞きましたが、あの相手は肉の器も失ったのですか?」
デミオンの問いにも、閣下は首を振る。
「いいや、器は人の世に残ろう。だが器のみで中身がない。目覚めることは二度となく、生きてはいるが死んだも同然だ」
閣下はまるで、己自身を嘲るように告げる。
「我輩らは人とは違う。だから、こうやって契約ひとつで思いのままだ。きっとアレは、心願成就の対価に己を渡してしまったのだろう。知らぬうちに、我輩らのような存在と約束してしまったのさ」
それは、いかにも人外の者がやりそうなことだ。彼らはわたしたちと違う存在だ。ならば、彼らには彼らの常識があり、彼らの倫理観があるのだろう。
しかも、わたしたちの都合を含まないものに違いない。
「……だがなぁ、我輩はどうしても好きになれん。契約するのはいい。止めはせん。しかし、我輩らが人より力を持つのは当たり前なのだ。ならば、か弱い人の子に教えるべきだろう。利と不利とを説いてやるべきだ」
だけど、そんなお人好しの人外は稀なのではないかと、わたしは思う。何しろ人外者はわたしたち人間の上にいる。この世界で、神の代わりに君臨するのが彼らなのだ。
(その閣下でさえ、人を虫のようだと評するんだよ)
わたしは世の残酷さに、少しだけ身震いした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
閣下は、同僚あたりに「はは、……君は本当に甘ちゃんなんだから」とか「そこ、悪い癖だよ」とか言われるタイプです。
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