70 「だって、アンタの立場があたしのものになるからよ」
落ちるというより、わたしだけ貼り付けないといった感じだろうか。体の厚みの分、糊付けがうまくいかなかったみたいだ。
わたしもみんなも、ユルノエルのマーケットも変わらないのに、ひらりと意識という一枚のシールが剥がされたよう。
それがどこかへ落ちていくのだ。
(……戻れない?)
漠然な不安がわたしを襲い、よく分からない場所へ薄っぺらいわたしがひらひら落下する。
(ここはどこだろう?)
見渡す限り、先ほどのマーケットだと思うのだが、誰一人いないがらんどうなのだ。屋台も商品も全部そのままなのに、人がいない。
(いいや、気配や熱気すらない……まるで、季節の気配すら無くしてしまったよう)
色も明かりもあるのに、紙に描かれた場面のような薄さがここにはある。五感が遠く、感じるべきものがよく分からない。
(でも、視界だけはハッキリしてる)
私は周りを見回し、誰かを探す。けれども、ジルは勿論、デミオンも閣下も見つからない。わたしは手首の手錠を確認しようとして、ふと思う。
(……なんで、鎖の音がしないの?)
そもそも、どうしてわたしは声を出そうと思わないのだ。まるで出し方を忘れたよう。
それとも、声を差し出した御伽話の人魚の姫になったのだろうか。
「だって、アンタの立場があたしのものになるからよ」
耳元で、誰かの声がする。
知っているような声は、思い出そうと考えると反対に上手く思い出せない。
「アンタばかり良い思いするなんて、狡過ぎるでしょう?」
気がつけば、わたしの胸から手が生えていた。
(違う!)
わたしの背後に立つ人間が、わたしの体へ腕を伸ばしたのだ。血も痛みもない。でもどうして? わたしは驚き、自分の体を見る。
柔らかな仔羊の皮の手袋は、内側がヤギの毛で温かい。今日のコートも羊とヤギの毛だ。お陰で軽くて動きやすい。いや、そういうことじゃない。
わたしは後ろに立つ相手を、なんとか見ようとする。体を捻り、背後へ首を回す。
視界の端で、見たことのある金髪がなびいている気がする。
(誰だろう……)
思い出そうとすると、何かに邪魔される。もやのような、ノイズのようなものが走って思考を妨げる。
そうしている間も、見知らぬ手がわたしの体を貫いたまま中身を掻き回すようにしていた。
その度にわたしの輪郭が揺らぎ、薄い体がますます厚みを失っていくよう。
(やめ……やめ、て……)
わたしは恐ろしくなり、体を逸らし手から逃れようとするが上手くできない。少しずつ、動ける範囲が狭まっているようだ。
オイルを差し忘れた機械の如く、稼働領域がどんどんなくなっていく。
(いやだ、いや……やめてっ)
多分、この知らない手がわたしを奪っているのだろう。何となくそう思う。
他人の手に貫かれ、混ぜられるごとに、わたしのわたしの部分がさらに目減りする。
わたしは息継ぎのように、口をぱくぱくとさせ、声を探す。絞り出す。
わたしの声。
わたしの心。
わたしの存在。
カシャと金属の音がする。
手錠が震え音を立てた。
途端、喉に空気が戻ってきたよう。
迷う暇はない。わたしはここぞとばかりに、響かせるような大声量を迸らせた。
「で……デミオンさまぁぁ───!!!!!!」
───シャラン
鎖が鳴る。
───シャラン、シャラン
もう一度鳴り、今度ははっきりとわたしの耳を打つ。
───シャランッ!!!
温度の消えた場所で、わたしの頬を包むのは知っているべき人だ。鎖を手繰り、知らない手からわたしを引き剥がしてくれる。
包む腕の逞しさを、わたしの中のわたしがまだ覚えている。
(わ、たしの……、わたし、の、大切な婿殿だから)
「リリアン嬢、大変遅くなり申し訳ありません。不甲斐ない俺に対してのご不満は後ほどゆっくりとお聞きしますから、今はどうかこらえてください」
「……デミオン、様」
「何でしょうか?」
「怒って、いるので……すか?」
「リリアン嬢ではない、目の前の女性には怒りしかありませんからね」
そう告げる彼は、前方を睨みつける。わたしも視線に添い、前へと向ける。
「何よ、何よ! 話が違うじゃないっ!!!」
そこにはマリア・スコット男爵令嬢が糸のような物を手に絡ませ、喚いている姿があった。
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