幕間 ライニガー侯爵
本日は、少し長めです。
ライニガー侯爵は、連れ帰った妻を使用人に命じて部屋に押し込める。閉めるドアの隙間から、後妻であるイザベルが叫ぶ。
「いやぁ、お願いよ!! お願いアナタ、グレアム!!」
けれども、ドアは彼女の意思などお構いなしだ。ぴったりと閉じられ、世界と切り離すように施錠される。
もう、我慢ならない。妻は謹慎させ、二度とどこにも出すまいとグレアムは考えた。領地の別邸に押し込める算段をつける。
タウンハウス付きの執事へ、食事の時刻まで誰も通すなと言い捨て、彼は書斎の椅子に深々座り込んだ。溢れるのはため息ばかり。
一体自分の人生は、どこで間違えたのだろう。
考えずとも答えは簡単だった。
あの女。
全ての元凶は、とある子爵令嬢からだ。
──アリス・ダーズベリー。
貴族の令嬢だというのに、天涯孤独の奇怪な娘。見目はプラチナの髪を綺麗に巻いた、愛らしい姿であった。まるで虫も殺せぬような、清楚で可憐。誰もが思い描く可愛らしい容姿。
けれども、恐ろしい女だとグレアムは知っている。
グレアム・ライニガーの本来の婚約者イーヴァは、真っ直ぐな黒髪が美しい、控えめな女性だった。
両親の教育がよく行き届いた物静かな性格で、どこを見てもできた婚約者。詩を朗読するのが趣味で、その囀りを聞くのがグレアムの癒しで幸せだった。はにかむと両頬にえくぼができて、それをグレアムは愛おしく思っていた。
当時も今も、グレアムが愛するのは彼女だけだ。
イーヴァだけが最愛で、永遠に心に住う乙女であった。
けれども、現実は残酷である。
ある日突然、牙を剥く。そうしてささやかな幸せを、あっという間に噛み砕いてしまうのだ。胸の悲鳴も痛みも飲み干して、まるで何もなかったように明日が来る。そういうものだと、グレアムは無理矢理教えられた。
ある日だ。いいや、大聖堂での婚姻式まで残り三月となった頃か。
本来ならば無事迎えることができた婚姻式を前に、父親が見知らぬ女を連れてきた。そうして、いうのだ。これがお前の新しい婚約者だと。
一瞬、何をいわれているのか全く分からなかった。否、どれほど時間が経ってもグレアムには理解などできなかった。できるはずがない。
近頃、父が妙な女性に入れ込んでいると、使用人から聞いていたのだ。占い師かその類で、予言へ熱心に耳を傾けているとか。
事実、執事に確かめれば頷くばかり。それどころか、信じ難いことにその力は本物だという。不安に駆られ、屋敷中の使用人へ尋ね歩けば、下級のランドリーメイドも馬丁見習いすら同じことをいう。
まるで自分が見知らぬ世界に突き落とされたかのよう。
彼らは微笑み、アリス様は素晴らしいと命じられたかのように同じ台詞を口にする。若奥様に相応しい方で安心しましたと告げてくる。
ここが、本当に己の生まれ育った屋敷なのかとさえ思った。感じたのだ。
当然、グレアムの頭に過ったのは、詐欺という二文字だ。
ライニガーの領地は、このソニード王国の玄関口だ。代々、大陸からの脅威に睨みをきかせ、その動向を観察してきた。そうして、国に貢献してきたのだ。近年は大昔のような戦もなく、大陸とも貿易を行うようになったが、それで腑抜けるわけにはいかない。
そのライニガー侯爵家が、どこの馬の骨ともしれぬ相手に夢中になるなど許されない。それが大陸からの間諜ならば、どうするのだ。
そう思い、父に確認する矢先、突きつけられたのがアリス・ダーズベリーという女だった。
「初めまして、アリス・ダーズベリーと申します」
目の前で、カーテシーを行う女性をグレアムは言葉もなく見た。
「君は……だれだ」
間抜けな問いに、彼女は微笑んだ。
まるで子供騙しの御伽話の姫君のよう。穢れなき笑顔は純真無垢を通り過ぎ、気持ち悪いほど。グレアムは違和感しか湧かない。
しかし、ここにいる人間は誰も彼の気持ちなど構わない。
アリスが慎ましく答えるのは、信じられない内容。
「グレアム様の婚約者です」
訳がわからない。
「父上、これは……これは、どういうことですか? 自分にはイーヴァがいます。それを、新しい婚約者だなどと、納得いきません!!」
けれども、それに対して返ってきたのは、振りかざされた父親の杖と怒号だった。鞭のように、こめかみを杖先が掠める。
熱い痛みは皮膚が切れたせいか。
「お前に拒否権など、ある訳がないだろう!! お前はこのライニガー侯爵家の後継だ。家のために、婚約者が変わるなど無い話でもない。文句など言う暇があるならば、新たな婚約者の機嫌でもとってやれ」
こんな馬鹿な話があるだろうか?
いいや、あるのだ。
現に今、それが起きた。
グレアムはその日から、イーヴァを失い、アリスを側に置かねばならなくなった。屋敷の者は皆、それは素晴らしいことと次々口にする。
母とてそう。イーヴァをあれほど褒めていた、仲が良かったグレアムの母も今ではアリスに夢中。実の親子のような親しさを持つ。グレアムは自分がおかしくなってしまったかと思うほど。
しかも、婚姻式の三月前に婚約解消など、あり得ない。常識がない。まるで相手の女性に問題があったといわんばかりだ。なんという仕打ちだろう。
グレアムがイーヴァの心配をしない日はなかった。
新たな婚約者のアリスは見目も良かったが、マナーや所作に関しても完璧だった。それこそイーヴァも素晴らしかったが、アリスはその上をいくよう。子爵家の出というわりに、生家が大貴族であるかのよう。
そう、このぽっと出の婚約者は、随分と上手くできた相手だったのだ。出来過ぎて不気味なほどに。
だからといって、グレアムの感情が納得できるかと問われれば、否と口にするだろう。五年も婚約を続け、確実に将来結ばれるのだと互いに思っていた。そこに綻びも、間違いもなかった。
アリスが現れるまでは、だ。
「グレアム様はあまり出歩きませんのね」
アリスが今日も自分の傍にいる。彼女は紹介された時から、ライニガー侯爵の屋敷に住むようになった。グレアム以外の全員が彼女の味方。違和感しかない世界。
それでも日々は続く。
グレアムの唯一の抵抗は、彼女を伴い外出しないことだけだった。イーヴァと共に過ごした場所へ、この女を連れていきたくはなかった。そうして、思い出が上書きされるのが嫌だった。
(……イーヴァ、君は今どうしている?)
グレアムがこっそり出した手紙は、そのまま戻ってきてしまった。まるで宛先の当人が見つからなかったよう。それとも彼女の家族が拒絶したのかもしれない。
当たり前か。
自分の娘が急に婚約を解消されたのだ。グレアムとて同じことをする。そんな男からの手紙など受取拒否するだろう。
グレアムはひたすら、イーヴァの無事を願った。あの大人しい彼女が、今回のことで傷つかないわけがなかった。何の咎もない彼女へ、謂れのない噂が立たないかと不安に思う。
自分の無力さを散々味わった。
そうして、グレアムはアリスと婚姻したのだ。
イーヴァが着るべきだったドレスをまとい、イーヴァが被るべきベールをし、イーヴァが受け取るはずだった精石の装飾品を身に付ける女と己は署名をする。
大聖堂で精霊王の名の下に生涯を誓い、死がふたりを別つまで伴侶であるという、茶番を行ったのだ。
婚姻式の夜から、父の無慈悲な命令は続く。
貴族なので、薄々は分かっていた。
そう、後継だ。
だが、グレアムはそれができなかった。屋敷内で響くのは父の怒鳴り声と母の啜り泣きだ。また、父の杖がグレアムを打つ。
「貴様、それでもライニガーの後継か!! 何が不満だ、こんなに良くできた相手であると言うのに!!」
その台詞に、グレアムは笑うしかない。何が不満かと問うのか。この不満だらけの婚姻に対して!
「……いいか、グレアム。お前とアリスが子を成せば、それは我がライニガーの絶対的繁栄と繋がる。お前のつまらんこだわりなど、今すぐ捨てろ。そんなものに何の価値もないのだ」
父の諭し方は、奇妙であった。
「お前は何も分かっていない。いっときの愚かな感情で、永劫の栄華を失ってはならないのだ。グレアム、お前は貴族の生まれ。分かるな?」
馬鹿な、分かるはずがない。
唇を噛み締め無言の抵抗を示す彼へ、父は更に杖を振るった。肩を打ち、腕を打つ。
「何故、分からん!! 我らの誉ぞ、一族の興隆が掛かっているのだと知れ!! お前とアリスとの間にはな『約束された子』が生まれるのだ」
『約束された子』『約束の子』、その単語が頻繁に父から出てきたのがその頃だ。
グレアムとアリスとの間には、そう呼ばれる素晴らしき子供が生まれるのだと両親は信じ切っていた。それも、アリスの予言だ。
領地の天候から、海賊船の出現、屋敷内の失せ物まで、アリスの予言は外れることがない。ならば、この生まれるという息子も予言通りだと両親が思い込むのも無理なかった。
けれども、祝福された子などグレアムは望んでいない。そんなもの欲しくもない。
グレアムが心から求めるのは、今も昔もイーヴァだけ。
彼女だけが、彼の希望。
(そうして、自分は愚かな決断をした)
あの頃と違い、白髪が出始めた今のグレアムは唇を引き結ぶ。致命的な失敗を犯した夜を思い出し、息を止めた。
子を成せないグレアムは日々父に怒鳴られ、母を泣かせていた。屋敷の者は皆、グレアムを責めるような眼差しを向け、アリスを大事にしていた。
まるでアリスこそがこの家の娘のように、誰もが振舞った。冷え切った新婚のふた月が過ぎたあたりだろう。
なさぬ寝室で、アリスがグレアムに告げたのだ。
「旦那様は、以前の婚約者様がとても大切なのですね」
グレアムは答えない。代わりに視線だけが正直だった。それをアリスは分かっていたのだろう。
「そうそう、旦那様ご存知ですか? そのイーヴァ様は婚約を解消され、それはもう悲しい有様だそうです」
「……どういうことだ!」
これが罠だった。
「イーヴァ様もお年頃、それなのに今回の事で誹謗中傷に晒され、嫁ぎあてもないとか。修道院へ向かわれると、もっぱらの噂です」
「か、彼女に非はないだろう」
「ですが旦那様、それが世間というものですよ。両親に見限られ、身を持ち崩すのも時間の問題だとか? まあ、世の中悪い殿方もいらっしゃいますから、格好の獲物なのでしょうね」
「……貴様、何を考えている。何をするつもりだ?」
グレアムが問えば、アリスは艶然と微笑んだ。
「あら、旦那様は妻以外の女が心配ですか? でも、旦那様のそういうところが悪いのですよ。わたしは幸せになりたいのに、定められてるのに、決まった道だというのに、そうやって意地悪をするんですもの……意味がお分かりかしら?」
彼女の言い分はさっぱりだったが、グレアムはひとつ理解したことがある。
これは脅しなのだ。
このままグレアムが拒絶すれば、イーヴァはきっと酷い目に遭わされるのだろう。残酷な運命が彼女を襲うのだ。
だから、グレアムはアリスと夫婦になった。『約束された子』とやらのために、契ったのだ。
たった一度の裏切り、それがグレアムの最も大切なものを壊してしまった。
その後アリスは身籠り、イーヴァは破滅した。
命を絶ったと聞かされたのは、アリスの腹が膨れ後戻りができなくなった頃。
「旦那様がわたしを愛されたと人伝に聞いてしまったイーヴァ様は、その後、口に出すのも恐ろしい、悲しいことが身に起きてしまったようですの」
子守唄のように腹部を撫でながら、アリスが語る。
「あまりな内容でご説明もできませんが、そのことでアルカディアの門を自ら叩いたとか」
お可哀想な旦那様と、アリスが歌うように告げる。
「もう二度と、イーヴァ様をお迎えできなくなりましたね」
そうして、グレアムは悟ったのだ。
イーヴァが亡くなったのは、アリスの仕業だと。この女が、イーヴァを這い上がれぬ不幸の底なし沼へと突き落としたのだ。そう気が付いた。
その日からグレアムは両親に従い、いつの日かこの女を排除すると心に誓う。
やがて、子供が生まれた。約束された子、ライニガー侯爵家の繁栄を担う幸いなる子供。
だが、グレアムにはとてもそうは思えない。大いなる祝福を得るべき存在などに、価値があるものか。あの女の子供だ。
忌むべき、化け物だろう。
(だから、アレは息子ではない)
父も母も、アリスもいなくなり、やっとグレアムは己の人生を取り戻した。それからは化け物に代わる跡取りが欲しく適当な女を後妻に迎え、もうひとりの息子を得た。
時期を見て、アリスの息子を引きずり落とし一族から追い出し──そこまでは上手くいった。
(……だが、アレを欲しがる人間が出てくるなど考えもしなかった)
貶め、蔑み続けて、貧相な存在にしたというのに、世の中お節介がいるらしい。そうして、アレは本来の姿を取り戻し、愚かな妻は自滅した。
グレアムは知っている。
アレが親と同じく無害な顔をして、恐ろしい息子だと。人を穢す毒に満ちた存在なのだと。
後妻のイザベルは愚かな面もある女ではあるが、あそこまでではなかった。それもこれも、化け物が彼女の欲を果てしなく増長させたからだ。
どうなるか分かっていながら、素知らぬふりで願いを叶え続けた。我儘に拍車をかけていく。
人の理性は脆く留め金は緩い。そこを突き、従順なフリをしてどんどん欲望を高め、尋常ではない愚か者に堕としたのだ。
(忌々しい……化け物が!!)
これしきのことでライニガーは揺るがないが、醜聞とはなろう。王家との婚姻に影を落とさなければと、考える。
その時だ。
誰も通すなといったドアを、ノックされる。
「誰だ?」
「──父上、私です」
本物の息子である、ジュリアンの声だ。
入室を促せば、いつもと変わりない顔で向かいに立つ。デスクを挟み、ジュリアンは悲しげであった。
「母上の事を伺いました。兄上に嵌められたのでしょう。母上は素直な方でしたから」
「そうだな。アレは化け物だ、関わるだけでこちらを不幸にする」
「実は、アリーシャ王女殿下も……体調がすぐれないと聞きます。これも兄上のせいだと私は思うのです」
そういえば、謹慎中の王女殿下はそのせいだけではなく、ここめっきり姿を現さなくなった。城内の噂では、誰かに呪われたのだと嘆き悲しんでいるのだとか。
部屋に篭って、寝台の上で泣き伏していると囁かれる。
「……何という事だ」
「父上、私は兄上が恐ろしくてたまりません」
「だから、アレは化け物だとお前にも言い聞かせていたはずだ」
「ええ、本当にそうだと思います」
ジュリアンはその整った顔を歪めた。
きつく握りしめた手から、骨の軋むような音がする。
「──兄上はあのまま、幸せになってはいけない存在です」
その言葉に、グレアムは頷くのだった。
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