15 「一度ね、やってみたかったんです」
「デミオン様は、その……侯爵家に寄らずに我が家に来ましたが、取りに戻るような大切なものはないのですか?」
そう。彼はその身ひとつで我が家にやって来た。今更あちらに行って取るべき物が残っているかも分からないが、確認は必要である。
「持つべき、一番大切な物は普段から持ち歩いているので大丈夫ですよ。気を遣わせてしまいましたね、リリアン嬢。でも平気なんです。俺はね……意外に思われるでしょうが、家族をそれほど嫌ってはいないんです」
デミオンが深海の瞳を移す。
眼差しの先は窓で、我が家の庭園が見えている。いいや、彼はもっと見えない遠くを見ているのだ。今ではない、過去の何かなのかもしれない。
「父親には正直言って同情しかありませんし、義母はそうですね。あの人は可愛らしい方だ。人として分かりやすく愚かで正直で、とても欲しがりなんです。異母弟のジュリアンも嫌いじゃないかな。異母弟は、俺の手にあるだろうものを奪うことに必死でね。努力家ですよ」
だけど、彼の母親のことは口にしない。彼はまだ何かを隠してる。それを、わたしは尋ねようとは思わなかった。聞き出したいとも思わない。
いいたい時にいってくれればいいし、一生聞かないで終わってもいい。誰にだって口にしない感情があって、思い出がある。人が人に見せられるのは、海に浮かぶ氷山と同じく全てではない。全部が知りたいなんていえるのは、紙面上での理想の中だけだ。
(わたしだって、前世の記憶のある女の子でーす! なんて、誰にも言っていないんだ。デミオン様だって、言いたくないことぐらい普通にあるだろう)
窓から顔を戻して、デミオンはわたしを見る。
「王女殿下のことを聞きたいですか?」
「話したいならば、どうぞ」
「そう返されると、ちょっと気にして欲しいような、そうでもないような……不思議な気持ちになりますね」
彼が苦笑した。
「殿下は……彼女は俺にとってはつまらない人ですね。王女殿下はご自身が一番大好きなんです。自分が輝くのが好ましくて、だから俺は影に徹してました。ただつまらないと言っても俺は侯爵家の嫡男なので、伴侶として文句などなく婚姻するつもりはありましたよ」
「そうですか」
「怒らないでください、リリアン嬢。俺は貴女を好ましく思っています。それは本当ですよ。この話も、貴女だからするんです」
「別に怒っていませんよ」
「本当に?」
彼の瞳がわたしを映す。じっと観察しているか、それとも言葉の真贋を見極めているのか。見られ続けるのは少々照れ臭いものだ。デミオンは顔が整っている。生活を整えれば伸び代しかない顔面の持ち主だ。
伸ばすべき上限に到達しているだろうわたしの顔では、この状況が辛い。
つい、視線を下へと逃す。彼の肩を見るぐらいが、わたしの心の平静に丁度いい。
「貴女と王女殿下、どちらか選べと問われたならば、俺は必ずリリアン嬢を選びますよ」
「そんな究極過ぎる選択肢では、全然嬉しくありません」
破棄した相手か婿に欲しい相手かの二択、問うまでもない。結果なんて明らかだ。もし恋人を喜ばせたり信じさせたりしたいのならば、必要なのは甘やかな口説き文句では?
少なくとも、これはその類に入らないだろう。生存戦略的に、答えなど最初から決まっている設問なのだから。
「究極過ぎますか、それ面白いですね。俺はそんなことを言ってくれる貴女がやはりいいですよ」
だが、デミオンの何かに触れたらしい。謎だ。分からん。
彼はちょっと機嫌が良くなっていた。視線をあちこちに惑わせそわそわした上で、最終的にわたしの顔を見る位置で固定する。
こてりと首をかしげ、口にするのはささやかなおねだりか。
「ね、リリアン嬢。ご褒美に俺を看病してください」
「なっ、何を!」
何ですかそれは、デミオン様!
看病とは、りんごを剥いてうさぎさんを作るやつだろうか? それとも水で濡らした手巾を額に乗せるやつだろうか? それとも、おでことおでこをくっつけて、熱を計るということだろうか?
確かに、前世ではよれよれだったが、うさぎさんを作れた気がする。しかし今世はお嬢様なので、刃物は厳禁なのだ。作れる気がしない。
(モモの缶詰はないし、あと何をするんだっけ? お粥を作ったりするなら、パン粥とか用意すべき?)
わたしの混乱をよそに、デミオンは楽しそうだ。
「いきなりで驚かせてしまいましたね。ベッドで寝てはいませんが、医師に診てもらうほどなので、やはりリリアン嬢に俺を看病して欲しいんです」
「か、看病とは、具体的に何をするべきなんですか?」
「少しだけ、俺と手を繋いで欲しいんです。熱が出たりすると、こうするものなんでしょう?」
ああ、子供の頃はそういうこともあるかもしれない。この世界は前いたあちらと違って、さまざまな要因で子供が亡くなる。いや、あちらでも赤ちゃんはか弱いものだ。危険は変わらない。生むこと自体が大変なのも全く同じ。
ならば、育てるのだってまた同じ。
だから両親は願うのだ。少しでも我が子が健やかであるようにと。わたしも幼い頃具合が悪いと、母が時々様子を見に来てくれた。
デミオンの母親は、彼にとってどんな存在だったのだろう。叶うならば、息子の成長を願う存在であって欲しい。
気がつくと、大胆なことをいってしまったと思ったのか、目の前でデミオンが手を開いたり握ったりと忙しない。
「恥ずかしいなら、俺の指に少しくっつけるだけで良いです」
そういって、テーブルに彼の手が差し出される。こちらを見る顔は、意外に真剣だ。
「一度ね、やってみたかったんです」
さっきは誰よりも貴族らしく立っていたのに、今は目の前で可愛い願いを口にする。温度差が激しすぎやしませんか、と尋ねたい。
ですが、問われて請われて願うなら、是と答えたい。それが出来る女の格の違い。わたしは将来の婿殿を大切にできる、跡取り娘!
「分かりました。握りますよ……って、逃げないで」
土壇場で逃げるって、どうよ? 看病して欲しいんじゃなかったのか!
わたしは狼狽える彼の指を、ダァン! と素早く押さえて捕まえると、とびきりの笑顔で告げる。
「デミオン様、早く良くなってくださいね」
思わず力を込めすぎたと思ったが、淑女のわたしの握力などたかがしれたもの。痛いなんて苦情もない。代わりに、ふにゃりと相手がほころんだ。
「ありがとう、リリアン嬢」
幸せ色の綿毛をパッと花開かせたように、デミオンは嬉しそうに微笑んでくれるのだった。
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