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ミラージュワンダラーズ  作者: 各務セイカ
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第1話 逢瀬

※週に一回更新します。

 株式会社笹村軽電はこの2106年の不景気下でも奇跡的に順調と言えるほどの発展を遂げた企業の一つで、近年は主に自社のARデバイス開発や、他社との関連ソフトウェアの共同開発などの業務を展開している。


 『先日お嬢様に送った野菜はそろそろ届いている頃だと思います。この老いぼれがまだ可視化とかなんとかのいじり方がよく分かりませんので、申し訳ございませんが、レシピは紙に書いて箱に入れておきました。』


 『じいやありがとう。もう届いたよ。美味しそうけど、今日も残業でね。休日料理ができたら画像を送るから。』


 『わかりました。お嬢様はくれぐれもご無理なさらないように。画像は楽しみにしております。』


 『じいやこそ、体に気をつけて。健康診断の予約もちゃんと守ってね。長期休暇が取れたら埼玉に戻ってこの目で確認するわよ。』


 『はい、お嬢様の確認をお待ちしております。』


 アカツキラーメンの奥隅の一角で、(はやし)千帆(ちほ)は通信を切り、黒縁メガネの外見をしていたAR端末の情報インターフェースを切り替えた。目の前のメッセージ画面は消失し、右上にあるタイム機能のみを残し、浅い空色の数字が躍動している以外、視野からすれば普通のメガネ越しとあまり変わらない。


 このラーメン屋は笹村軽電から少し離れているが、味がいいわりにプライベートゾーンもあるため、千帆は残業上がるたびにここで食事をするようになった。プライベートゾーンはテーブル席ごとに設置され、客は音声バリアーと光学バリアーを自由にオンやオフに設定できる。一人で静かに食事をとりたいときや、人に見られたくないとき、食事中の会話を漏らしたくないときなど、また他人への迷惑考慮も踏まえて、画期的なテクノロジーが日常生活に溶け込まれた一例である。


 テーブルの上にある豚骨ラーメンはすでに綺麗に食い尽くされ、ウェーターロボットに運ばされた。プライベートゾーンをオフにし、店の中で流された音楽を聞きながら、氷が溶けかけのビールを一口。その時、不意にカウンターから聞き覚えのある少々酩酊した声が耳に入ってしまう。


 「もう一軒って、ラーメン屋に来てどうする?お、おれは一刻も早くエリカちゃんに会いたいけどよ!」


 「いや、エリカちゃん、こっちの激辛ラーメンが好物みたいじゃないですか。部長がわざわざ買って差し上げれば、きっと大喜びに決まっていますよ!この時間客も少ないし、10分もかからないって。ああ、激辛一つお願いします。」


 「そ、そうか?しょうがないなぁ、もう!藤本おまえ、ほんっとに気が利くなぁー」


 「いえいえ、部長のおかげですよ。あれを上まで通させていただき、本当に感謝しきれないです!」


 「なーに、大したことじゃねぇよ。ただ、最近社内にも少し噂が流れててよ。新入りが書いたとかなんとか?それはちょっとまずいっていうか……」


 千帆は振り返ることもなく、軽く目を閉じ、一気にビールを飲みほした。朦朧とした照明の光は半分溶けた氷とガラスの屈折により、虹か万華鏡のような色彩をテーブルの白い表面に映し出す。


 男たちはカウンターの向こうの料理の進み具合を眺めつつ、ただ時間潰しのために会話を運んでいく。


 「ご心配なく、それはもちろんでたらめですよ!万歩を譲っても、あの新入りのパシリお嬢様があれを書けるわけないじゃないですか。」


 「なら問題ないな。藤本、そういう噂はなぁ、ばっちり言い返さないと!」


 自分をあざ笑った言葉と笑い声を背に、千帆は冷たい冬風と果てしない闇夜へと歩き出す。カウンターに居座っている二つの影は、彼女に気も付けず、泥沼の漣みたいに揺れ続けていた。


 今になってはもう何も感じなくなった。例えどんな悪口を叩かれても、どんなに罵られても、心ひとつ動くことはない。それは双極性障害を治療する薬のせいなのか、それとも本当の自分は元々こういう人なのか、千帆はわからない。じいやと話をしている時は思わず柔らかな表情になるけど、実際的には、じいやがもし亡くなったときのことを考えたこともあるし、それに対して何の気持ちも浮かべなかったのが事実だ。


 右上の数字がちょうど00:00:00に変わったとき、千帆は隅田川テラスのある木製展望台に登った。今は木製と言っても、それは見た目だけで、ホログラムに投影されたものこそ普遍的なデザインだが、なぜかここの展望台は正真正銘の木製らしい。ここから川を眺め、大都会のホライズンを堪能するのは彼女なりの気晴らしで、主治医に勧められた治療法の一つである。


 鞄から4分割の薬ケースと水筒を取り出し、精確に切り分けた薬を飲む。これで、多分一時前は眠れるはず。川の向こうの高層ビルにはいまだにもいくつか明かりをともしている窓が点在し、千帆は手すりに身を寄せ、それを数えていた。


 18。


 それは、この酷寒の中でも、ささやかな火の温もりがする数字だ。


 18歳の誕生日、あのケーキに載せていた蝋燭の数と同じだから。


 あの時、蝋燭に向けて神に語った願いは、まだ叶えていないから。


 おかしなことに、そういうことを考えていると、まるでアンデルセンが書いた『マッチ売りの少女』の御伽話みたいに、幻覚のはずの炎の熱さがまさに肌へと迫ってくるような気がした――後ろの方から。


 千帆はふっと振り返り、その場で驚愕した。


 木製の展望台の出口は、もはや火の海と化していた。


 「どうして……」


 どうして気付かなかったのか。どうしてここに火事が起きるのか。どうしてこんなにもはやく蔓延したのか。どうして消火施設が作動しなかったのか……一瞬で疑問は限りなく湧いてくるけど、薬のおかげで理性からもっとも肝心な一つだけ絞り出された。


 ――そうか、神はようやく私の願いを聞いてくれたのか。


 「ご丁寧に二択もくれたんだね。」


 不思議に冷静さを束の間に取り戻せた千帆は、普段は無表情が多かったその顔に珍しく諦めたような微笑みが浮かべ、最後の最後で、ARデバイスのメッセージ画面をオープンする。


 「じいや、野菜、おいしかったわ。」


 隅田川テラスの展望台のそこには、通り過ぎる夜風と遠くから注いでくる都会の明かり以外、人の影も炎の海も、何もなかった。


 ・・・・・・・・・・・


 『次の嵐の到着まで約24分、破壊作業の進展はどう?』


 「ガーディアン(虚築者)・フォーが解析中。レベル4以下の核と推定。」


 『了解。イグナイター(真導者)・ワンとイグナイター・フォーは破壊済みまで引き続き周辺警戒を頼むわよ。』


 「了解。」


 「わ、わかりました!」


 茫々たる雪原を高空から俯瞰すれば、その上に載せていた三台の黒いスノーモービルと黒い装甲を身にまとった三人さえまるで大きな雪餅のうえに撒き散らしたごまのように見える。


 その中の一人は赤褐色の髪と翡翠の瞳を持つ少々小柄な青年で、隣の警戒役の二人と違い、彼の前には小さな魔法陣のようなものが展開されていて、空色の環がいくつか積み重ね、各環の表面には異なる文字と数字が組み合わせた紋様が浮き出し、そして異なる速度で回転している。それの真っただ中には綺麗な切れ目をしていた無色のクリスタルが点滅し、魔法陣と共に奇妙な景色を描き出している。


 警戒役を担う一人は黒い瞳と同じ色の長い三つ編みを持つ若い女性。彼女は不安そうに魔法陣を支える青年を見つめながら、左手を腰のあたりに吊り下がっていた刀の柄にきつく握りしめられている。


 もう一人の警戒役は女性と同じく黒い瞳とさっぱりした短髪をしている長身の青年。他の二人の視線と全く逆な方向に注目している彼は、目をそらさず、淡々と口を開いた。


 「イグナイター・フォー、防寒ギアの耐久は?」


 「はっ、はい!えーと、三機各48%上下です。応急用防護服に破損無し、スノーモービルの防寒シールドも全機作動中。」女性はようやく握りつぶし寸前の左手を離し、慌てて装備詳細インターフェースを呼び出してから、確認した数値を報告する。


 それと同時に、魔法陣から強烈な光が放たれ、クリスタルと共にきらめく吹雪の欠片へと砕け散った。


 『目標消失。よくやった。全員、ただちに帰還せよ。』


 「任務完了、っと。もう、シャーちゃん、そんな顔しないでよ。美人が台無しだよ?そんなにおれの腕が信用にならないの?」


 「べ、べつに。」


 翡翠色のウィンクをしながらこっちへと向かう青年を前に、シャーちゃんと呼ばれた女性はそれを無視して、スノーモービルに乗った。青年は残念そうに肩をそびやかし、同じくスノーモービルに跨る。しかし、もう一人の青年は変わらず反対側を見つめている。


 「どうした、(シュン)?はやく帰って満漢全席でも食べにいこうよ。」


 黒髪の青年はやっと気が付いたように振り返り、スノーモービルに乗り、さっき見ていた方向へと車体を回転させた。


 「あそこ、誰かがいるような気がする。」


 「またいつもの……って、誰かって、まじかよ?ありえねぇだろ、こんなところで⁉」


 「まあ、これは私の独断ということで、キミたちはもう帰っていいから。」


 爽やかな笑顔を残し、黒髪の青年はスノーモービルを走らせていった。


 『イグナイター・フォー、ガーディアン・フォー、応答せよ。イグナイター・オンに通信を切られた。またいつものあれか。』


 そのまま残された二人は視線を交わし、ほぼ同時にエンジンをかけ、異例な速度で走り出す。


 「姉貴、今回はちょっと違うかもよ。この先、やつらじゃなくて、人間みたいだって。」


 『なっ……あいつ、何のつもりだ。とりあえず、こちらは救護班の準備を整える。お前たちは必ず嵐が来る前にあいつを捕まって帰れ!』


 「はいはい。あ、シャーちゃん、怒っちゃってはダメよ?肌に悪いから。」


 「べつに怒ってないし。」


 はあー、と心の奥でため息をしながら、一樹(かずき)は今度こそ姉貴に言いつけてイグナイター・ワンとの共同任務を一回だけでも断り切ることをひそかに決めた。


 ・・・・・・・・・・・


 寒い。


 この寒さは、水の中に沈んでいく時の感触とはまったく違った、風による骨まで蝕む寒さだ。


 身体中が千切られるほど痛い。


 寒い。痛い。寒い。痛い。痛い。痛い。


 確か、何十メートルから飛び込んだ際、水面はコンクリートに相当する固さになるとどこかで聞いたことがある。何十メートルどころか、もし飛び込みの姿勢が悪かった場合は、2、3メートルでもかなり重傷になるらしい。私のような一般人は、展望台の高度から川に落下するなら、たとえ衝撃などの外傷がなくても、誰かに救わなければ溺死になる。


 これはまさに私が望んでいた事故死であり、神から授かれた二択の一つだ。


 しかし、恐ろしいことに、私が今感じていた寒さと痛みは、それが成し遂げなかったことを示している。


 いや、もう一つの可能性がある。もしここが地獄だったら、辻褄が合うかもしれない。


 そう、目を開いて、その可能性を証明すればいい。


 「――、――――!」


 誰かの声がする。私を呼んでいるみたいだ。


 千帆は、劇痛と酷寒を耐えながら、重い瞼を少しずつ開けていく。


 視界の中はぼんやりしていて、赤いワーニングのマークに充満されている。それは多分AR端末の損壊警告だろう。メガネのモニターにはひびがはいっているが、破片はない。そのおかげで、目に破片が刺される危険は避けたようだ。


 赤いワーニングマークの後ろに、朦朧とした白い背景に人の姿が映し出されている。その骨格から見れば男性らしい。彼は千帆を呼び続けているが、何を話しているのかはまったくわからない。一つ一つの発音はよく聞こえてきたのに、言葉が通じなくて、外国語でも話しているような気がした。


 「――?――、――――――!」


 だから、何を話しているのかはわからないって。


 その苛立ちはよけいに痛みを増していく。男はそっと千帆の身体を起こそうとしていたが、急に何かを見たかのように、動きが一瞬に止まってから、乱暴に彼女を抱え上げ、ある黒い塊に向かって走った。


 抱えられた千帆は男の肩を越し、地平線の彼方から何かがやってくるのを見てしまった。


 それは、吹雪の嵐の中を前進する巨大な無色の怪物の群れ。「無色」というのは、それらはすべてクリスタルのように透き通っていて、光の屈折により形がはっきり見えるから。人の顔をしている怪物はいくつか存在しているようだが、それはただのショックによる見間違いかもしれない。あの怪物の群れからは、「綺麗」と「恐怖」の二つの矛盾した感覚をもたらしてくる。


 男の両腕はとても力強く千帆を抱いていたけど、その瞬間が来た時、千帆は奇跡的に寒さと痛みを重ねていたボロボロの重体を動かせた。




 舜はその女の子に庇われたまま地面に倒れ、また彼女を抱え上げようとしたが、衝撃的な情景に目を見開いた。


 ワンダラーズの刃が、彼女を貫いた。

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