第八十三話 芍薬のような
「な、殴り、込み……?」
聞き馴染みのない言葉に首を傾げた国王とは違い、その隣に立っていた宰相は口を大きく開け、我慢できないとばかりに声を荒げる。
「何をおっしゃっているのですか!カタルシアの姫であってもこれはあまりに無礼であり、見過ごす事など到底できない所業ですよ!?」
姫の落ち着きと怒りを混ぜ合わせたような佇まいから吸い込まれるように呆然としてしまっていたが、確かに宰相の言葉は正しいように聞こえた。宰相の弟子もその言葉で正気を取り戻したのか、援護しようと声を上げようとする。けれど、それは姫の一声によってものの見事に打ち壊された。
「見過ごすなどと、どの口が言うのですか?」
コツ、と、姫が歩みを進める。
「私がこのような事をしているのは一重にこの国の馬鹿さ加減に嫌気が差したからです。あぁ、どういう事だ、とは聞かないでくださいね。そんな面倒で当たり前の事を聞かれても、苛立ちが募るだけですので」
浮かべていたはずの笑みは消え失せ、淡々と紡がれる言葉からは、冷たい怒気がひしひしと伝わってきた。
「わ、我々が何をしたというのですか!!」
宰相の弟子の首に、剣が落ちる。
剣とは無縁の世界で生きてきた弟子が小さく「ひっ」と声を漏らし、剣を落とした張本人である男、ダークエルフは色のない表情で、ただ無言を貫いた。
「苛立ちが募ると言いませんでしたか?人の言葉を理解できない家畜でないなら、今すぐ口を閉じてください」
尊敬していると言う姉とともに現れた可愛らしい少女の姿などどこにもなく、そこに立っているのは氷のように冷めた、けれど曝け出さねば爆発しそうなほどの怒りを溜め込んだ麗しの華。例えるなら、美しい女性に用いられる言葉で、けれど色によっては憤怒を表す、芍薬のような。
宰相の弟子は動かない体を無理矢理に動かし、なんとか一度頷いて見せる。するとダークエルフは音もなく剣を自身の腰へと戻し、姫はまた一歩足を進めた。
「勘違いなさらないでくださいね、私は国王陛下に怒っているわけでも、宰相様に怒っているわけでもありません。ただ、馬鹿な妻を止めることのできない馬鹿な夫君に怒鳴り込みにきたんです」
その言葉を聞いて、国王の脳裏にある一人の姫が浮かんだ。
目の前で怒りを露わにしている姫の、最愛の姉。妻である王妃は息子に「射止めてみせなさい」とまで言い、少し病的に見えるほどに彼女を気に入っている。そうして、最近耳に届くようになった噂話を総合すれば、姫がなぜここまで怒っているのか、なんとなく察しがついた。
「うちの息子が何か、したのかな…」
「少し違います。ブラッドフォード第一王子は姉に好意があるようで、それは別に構わないんです。姉も悪い気はしていないようですし。問題は王妃様で、少々厄介な勘違いをされているらしいんですよ」
「か、勘違い…?」
えぇ、そうなんです、と頷く姿からは怒りなんて感情は感じられないのに、小さな波となって何度も訪れる焦りや不安は、直感的に目の前の姫が怒っている事を伝えてくる。
「クリフィード第二王子が姉に好意があると思っているらしくて。しかも、息子二人に姉を取り合わせようとするんですよ?」
病的と言える執着を持っているとしても、そこまでとは。
あの姫君にそこまでの魅力を感じる事などなかった国王は、けれど、納得もしてしまっていた。いつの間にか目の前に来ていた少女の姉ならば、人一人を魅了するなど造作もないように思えたからだ。
「息子達の感情をなんだと思っているんだか。しかも、まるで姉様が悪女みたいじゃないですか!結局姉様だって傷つくかもしれないのに!そんなの考えられない!私は姉様に幸せになってほしいんです!あ、あとですね、リディア伯爵の事もできれば罰してくださいね」
「え…?」
いきなり話に登場したリディアという名を聞いて、一瞬の不安が過ぎる。信頼している家臣の一人だが、なにぶん戦場で生きすぎた。一直線に突っ走り、加えて礼儀も忘れる時があるのが玉に瑕なのだ。
そんな男の名が出てきたという事は、十中八九何かしでかしたに違いない。
「獣畜生の方がまだ可愛いですよ。だって多少の愛嬌くらいはありますからね。良い年をした男が、しかも子供を二人も持った男が、息子の才に気づく事なく、馬鹿みたいに長男ばかりを重視する。しかも!伯爵家の当主であるにもかかわらず家の家紋に泥を塗るような事に手を貸して!ははっ!馬鹿なのかと!脳みそのない人間などいないというのに、あの男は頭を戦場に置いて帰ってきたんですか?」
怒涛の如く並べ立てられる言葉に、声が出ない。長年ともにやってきた騎士団長を罵倒されているというのに、姫をここまで激怒させたリディアになんとか謝らせなければ、そういう考えになってしまう事に、声が出ないのだ。
「ちょっと、聞いてます?話はまだ終わりじゃないんですよ」
ペシペシと頬を叩かれ、「あ、あぁ、うん…」となんとか声を出す。それに満足そうな顔をする姫を見て、まだまだ罵倒の言葉は続くのだと悟った。
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