第三百七話 優先すべきもの
視点なしです。
ひくりと喉が引きつった。大好きな月がこっちを覗いて、訝しげに見つめてくる。
「どういう、意味ですか」
わかってるよ、ヨルが何を言いたいかなんて。わかってるけど、けどさぁ、この状況で、一番良い方法なんて、私にはカタルシアに帰るしか思いつかないんだよ。
『今すぐにあの男のこと追うんじゃねぇのか。俺が知ってる姫さんなら間違いなく追ってるぞ』
なんだそれ。
「ヨルが知ってる私…?」
ふつふつとこみ上がるのは確かな怒りだった。苛立ちとも言うのかな、なんていうか、見て見ぬふりを重ねてきた感情が抑えきれない。何かに八つ当たりがしたい殴りたい蹴り飛ばしたい。
目の前の男が、憎たらしくてたまらない。
「ヨルが、私の何を知ってるって言うんですか」
ああダメだわかってる。こんなの八つ当たりだよ。けど、あの男がもしかしたら姉様に手を出してるかもしれない。姉様の幸せを壊す奴を取り逃した。
あれは間違いなく姉様の幸せと、姉様自身を害す存在だ。
それを捕まえられる距離にいて捕まえられなかった。馬鹿みたいにキレておいて結局最後は逃げられた。
それがどれだけ私のメンタルを弱らせてるか、気づかないほど鈍感じゃないくせに。
元々神龍のところにきたのだって自分の無力さに打ちのめされたからだ。守る力がないからだ。
だと言うのにまた守れなかった。手が届かなかった。
なら、ライアンとリアンは守らなきゃ。
ライアンは一時的とはいえ騎士になったのだからと自分の責務を全うしようとしている。
リアンは突き放したのに、自分が優先すべきものがちゃんとわかっているのについて来てくれた。
そんな2人すら守れなかったら、私は自己嫌悪でどうにかなってしまう。
ヨルがいた時とは、状況が違うんだよ。
『知ってるね。短い間とはいえ姫さんには振り回されて来たんだ。どう動きたいのかくらいは予想ができる』
私の心情なんかお構いなして笑うヨルの目は、淡々と私に問いかけているようだった。
その目がどうにも綺麗で、鼻がツンと痛くなる。
自分の気持ちを見透かされるってこんなにも悔しいものなのか。悔しくて泣くなんて情けない。
「カタルシアに戻るのが一番安全です、一番状況の把握ができます」
『ああ』
「きっと姉様の行方だって、カタルシアに戻ればすぐにわかるし」
『だろうな』
「クレイグ達にも会えるし、屋敷に戻ればクレイグとエスターも連れて、姉様を助けに行く準備が───」
『確かに最善だな』
ニッとヨルが笑う、瞳が弧を描く。ああ憎たらしい、こんな時まで綺麗なその夜空の色も、二つ浮かぶ美しい月も。
『けどそりゃあ、この場の最善であって、姫さんのしたい事じゃあねぇだろ』
たった一言、それは私の事実だった。
『なぁ姫さん、素直になれよ。我慢なんか似合わねぇ。大事なもんに手ェ出されて黙ってるような可愛い性格してねぇだろ。王様んとこに殴り込んだ時の威勢はどうした?人嫌いのエルフがこうも協力してるなんざエルフの里にも似たような事したんだろ?』
───プツンと、きっと堪忍袋の緒があるとするなら、今切れた。
「私に一言もなくどっか行った馬鹿が言うセリフですか!?それが!!!」
知ったような口ききやがって、何があったのか理解すらしてないくせに。
「私の事守れなかったから?周りのあたりが強くなったから?皇帝に睨まれたから尻尾巻いたのか!逃げたんでしょうあの時!そんな人間が私が逃げようとするのを邪魔しないでください!私らしくないってなんですか!?怖くて足がすくむのがそんなに悪い事なんですか!?」
目から熱いものが溢れていく。きっと涙だろうけど、もう私の視界にはヨルしか映っていなかった。
「頼れる人がいないんですよ!クレイグは置いて来た!ライアンもリアンも私の騎士じゃない!なのに、私以外に守らなきゃいけないものがあるくせに私を守ろうとするから、これ以上は連れていけない!なのに私1人じゃ馬にも乗れない!」
強いけど、それ以上に守らなきゃいけない人達。あの男の異常性を目の当たりにした瞬間から、これ以上2人は巻き込んだらダメだという思いが脳裏にこびりついている。だからこそ出したこの場の最善なのに、ヨルは易々と踏みにじっていく。
『俺がいるだろ』
その一言で、私がどれほど憤るかも知らないで。
『俺は姫さん以外に守らなきゃいけねぇもんなんざねぇよ』
酷く穏やかな顔をしているのに、どこか真剣味を帯びた瞳で見つめてくる。
だっだらなんでいなくなったんだと聞いたら、この話はずっと平行線を辿る事になるだろう。
『守るために必死になんのは良いけどよ、いつだって自分に正直なのが姫さんだろ?』
それは、自分に正直になれる立場と力があったからだ。今の無力な私じゃ、自由に動いたところで無駄に終わるだけ。
だけど、ヨルが一緒なら。少なくとも私は絶対的な攻撃手段を持つ事になる。ライアンとリアンを置いて、姉様を追う事が、あるいはあの男を追う事ができるんじゃないのか。──あぁ、嫌になる。人間っていうのはどうしてこう、力を持つと浅慮で傲慢で、貪欲になるのか。
ヒヒィーン──
どこからか馬の鳴く声がする。愉快そうにヨルは笑い、私は泣くのを我慢するように息を飲み込んだ。
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