第三百五話 皇帝の最愛
視点なしです。
カタルシア帝国、第一屋敷。皇太子が住まうその場所に足を踏み入れるは、最も高貴な箱庭の主人である。
「久しぶりね、クロード」
目を細め口元を扇子で隠し、帝国の紋章が刺繍されたドレスを身に纏った女性は、皇太子クロードにとって皇帝よりも恐ろしく強い人物だった。なぜここに、と疑問が口から飛び出そうになって慌てて引っ込める。
扇子で顔の半分しか確認できないが、確実に怒っているのはその声でしかと理解できたからである。
クロードは己の実母ロゼッタのあまりの威圧感に思わず冷や汗をかいて息を詰まらせた。
「ご挨拶を、皇太子」
「あ、ああ」
「いらないわ」
「えっ」
クロードの怯えぶりを見かねてブレイディが耳打ちするが、即座にロゼッタが拒否してしまった。驚くクロードにロゼッタの視線はますます鋭くなっていく。
「まったく貴方ったら本当に…妹が他国へ嫁ぐというのに見送りもせず自分の屋敷で縮こまっているなんて情けない」
「ッ!」
「皇太子としての自覚を……いえ、情けないのはあの人も一緒ね。完全に血筋だわ。真の皇帝だの歴代最強だのと持て囃されても結局、大事なところで臆病なんだもの」
怒りというより呆れの方が強いのだろう。うんざりとした様子で肩を落としたロゼッタに、クロードは何も言えなかった。
「別に良いのよ、臆病でも。国を背負う者にとって警戒心というのはとても大事なものだもの。けれどねぇ、それがこんな時に発揮されるなんて……はぁ…」
小言を言おうとしても、言うだけ無駄に思えるのは流石にまずい。一応救いようはあるはずだ。
不安そうな顔でこちらを見つめるばかりの息子と居心地が悪そうに視線を逸らす近衛騎士団長を見比べ、ロゼッタは後ろに控えていたメイド、カミラに服を持ってくるように指示を出す。
「あらかじめカミラが用意しているからクロード貴方、着替えてらっしゃい。今から皇城に行くわよ」
「へ?え?な、なんで…」
「この状況でその疑問が出るの?」
「あ、いえ、皇帝陛下に会いにいくのはわかりますが、ちょっと待ってください。もうこれは決まった事でしょう?それに戦いに関しては皇后陛下より皇帝陛下や私の方が詳しいのは紛れもない事実です。この決定を覆すなんてできるはずが」
「惨めな姿を晒すのはやめなさいクロード」
パシンッ、扇子が閉じられロゼッタの表情があらわになる。瞬間、見慣れている美しさのはずなのにいつもならば感じられる暖かさはなく、ただ冷たい感情だけがクロードに突きつけられた。
「本当に貴方はディルクそっくりね。助けて欲しいならさっさと言いなさいな」
その言葉を聞いてクロードの心臓はあり得ないほどに飛び跳ねた。それは間違いなく図星であり、けれど決して言葉にしてはいけないと仕舞い込んでいた事。
どうやってもアルバが持つ“何か”を突き止める事はできなかった。カタルシアにあんな横柄な態度の書状を送ってきたのだ。何かしら、想定以上の策がアルバ側にあると見て良いだろう。
カタルシアでは皇帝に即位する者は皆必ずと言って良いほど戦事に優れていた。例に漏れずディルクもクロードもその才を若い頃から発揮し民から有り余るほどの賛辞を受けてきたが、そんな2人でもどうすべきかわからなかったのだ。
いつもなら舵を切る場面で足が竦んだ。いつもなら冷静に対処できるはずなのに判断を間違えた。最適解を求めようとすればするほど思考が狭まっていき、まるで自分の意識が改ざんされているような感覚。
そんな人間が戦事を知らずに育った母へ、妹達へ、どう助けを求めろと言うのか。どの口が言えようか。
「私達が守られるだけの人間に見えているなら、貴方は皇帝の器じゃないわ」
喉が締まっていく、息がうまくできている気がしない。
クロードはさまよう視線の中で、自分を真っ直ぐに見据える母の目をすがるように見つめた。
「カリアーナは貴方達の負担を少しでも減らすためにその身を差し出した。アステアはそんな姉の幸せのためにその身を危険に晒してもがいてる」
「っ!?アステアは屋敷にいるはずでは…」
「家族が不幸になろうとしてるっていうのに、あの子が大人しくしているはずないでしょう」
なぜその思考に辿り着かなかったのか。そこに気が回る余裕すらないのだろうか、そこまで追い詰められているのだろうか。
情けない夫と息子に対して、そして1人で決めてしまった娘に対して怒りが湧いていたロゼッタは、少しだけ考えを改めた。たとえ精神的に大きな負担がかかったとしてもディルクとクロードがここまで追い詰められる事はない。その前に打破する力を持っているからこそ皇帝として、そしてその後継として選ばれた2人なのだ。カリアーナにしてもそうだ。
今の状況は、どうも腑に落ちない点が多すぎる。
「まぁ、貴方達が言わなくても助けるけれど」
もしこの状況が、アルバが用意した対抗策のせいだけではないとすれば、ロゼッタの怒りの矛先は3人ではなく3人を苦しめる存在へ向く事となるだろう。人様の夫と息子を追い詰め剰え娘を奪おうとしている。その報いは、必ず受けさせる。
─母様は、姉様を引き止めてくれるんですね…─
末の子の言葉を思い出し、ロゼッタは笑みを深める。
もちろんだとも、箱庭に引きこもるばかりの母だけれど、家族に手を出されて黙ってなんかいられない。何よりこんな時に黙る女が、かの皇帝の妻になどなれるはずもないだろう。
ロゼッタも、カリアーナも、アステアも。帝国随一の男達が尊ぶ女性らが弱いわけがないのだから。
「貴方達は揃いも揃って、愛した者の強さを見誤りすぎよ」
カタルシア帝国皇后、皇帝の最愛。彼女の怒りに触れ、首をたれなかった者はいない。
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