第二百九十六話 手が届くはずもなく
視点なしです。
「ヨル?」
黙り込んでしまったヨルを心配してアステアが名前を呼ぶと、ヨルは『相変わらずだなぁ、姫さんは』と小さな声で呟いた。
「ヨル、もしかして泣いて…」
「だぁかぁらぁ!そういうのは主人公のものなんですよ!!!」
「『!!』」
洞窟に大きく響いた声に思わず二人の体が跳ねる。
「この世界には主人公がいて主人公を中心に回っていて主人公のために作られて主人公のために人間が生きていて主人公が愛されて当然の世界なんですよ!?わかってますか!?お前らは主人公のためだけに存在してるんだよ!!」
男は何度アステア達の逆鱗に触れれば気が済むのだろうか。状況を把握できていないワイアットやリアン達ですら顔を顰めるほどの言葉をさも当たり前だと言わんばかりに叫ぶ姿は、滑稽と言うほかなかった。
「それはあんたの勝手でしょ」
「!?」
「あんた達が勝手に押し付けてる事実をこっちが勝手に跳ね除けて何が悪いっていうの?お互い様だろうがこの逆ギレ男!」
この状況で相手に「逆ギレ男」なんて言って名前をつけてしまうのはアステアだけだろう。男だけではなくワイアット達も一瞬呆気に取られる中、ヨルが笑った。
『これだよこれ!本当に姫さんだ!』
「え、なんですか…」
いきなり喜び始めたヨルに首を傾げたアステアだが、ヨルはお構いなしに『最高だよ』とまた笑う。リアンも「確かに皇女様らしい言葉ではあるな…」と納得すると、男が顔を真っ赤にして怒り顔になった。
「これ、だから、これだから嫌なんだ人間は!こっちの都合なんてお構いなしに改変するから…!!」
声が震え始め、それは涙声に近かった。男の瞳は微かに濡れていて精神的に追い詰められているのだとわかる。アステアは男の姿を見て追い詰めている側であるという事を自覚し、少しの罪悪感のようなものが芽生えたが、それも今も確かに自分の背中に縋っている手を思えば摘み取る事ができた。
「……とりあえず、リアンとライアンはその男を拘束。ワイアットさんはヨルに今の状況を説明していただけませんか」
「あ、は、はい」
ライアンがなんとか返事をしてリアンも頷いて、アステアの指示通りに男の腕を捕まえようとする。ワイアットは自分でも理解できていない現状を、どうにかヨルに伝えようと努力した。
けれど。
「人間と残りカスが…この私を止められると…?」
「!ライアン君今すぐ下がれ…!」
「ッ!!」
バキッ──
リアンが咄嗟にライアンの体を押して地面に倒れ込む。次の瞬間には男を拘束していたはずの金の鎖は砕け散っていて、ヨルが苦虫を噛んだような顔をした。
『今すぐそいつから離れろ!死ぬぞ!』
ヨルの声を聞いてリアンとライアンの二人は足に精一杯の力を込めて男から距離を取る。見れば男は無傷で、何事もなかったような顔をして立っていた。
「嘘だろ…」
ワイアットが驚愕の声を上げ、アステアもそれには同意せざるを得なかった。確かに鎖は男の体に目を背けたくなるほど食い込んでいたはずだ。アステアの言葉を聞き入れてヨルが多少緩めたとはいえ、それは変わっていなかったのに。
『人間じゃないのはわかってたが、そこまで化け物なのかよ』
「心外だな。世界の秩序を保つ力を持ってるだけですよ。それに化け物と言うなら、あなたの方が余程似合っている」
先ほどまで取り乱していたのが嘘のような冷静な喋り口調の男を見て、この場にいる中で男の一番側にいたリアンとライアンは底知れない悪寒を感じた。これは人間が踏み込んで良い領域の存在ではないと、本能的に感じ取ったのだろう。
「そろそろ失礼します。取り乱すばかりでなんの収穫もない最悪な時間だった。もう予定の時間に近いのにこんなところにいたら間に合わなくなってしまう」
「予定…?」
アステアが首を傾げる。すると男はニイっと笑いながら愉快そうに答えた。
「神と人では時の流れが違うでしょう。それと同じです。人が住まう場所と、神が住まう場所の時の流れが違うだけの事」
「───……ッ!」
それだけで察する事ができてしまったのは、きっとアステアがどれほどの混乱に陥ろうとも心の片隅でずっと気にかけ続けていたからだ。
「そちら側に神龍がついてしまったのは誤算ですが、まぁもう仕方ありません。他の手を考えますよ。それにこの世界は物語が決まっているので修正するのも比較的簡単ですし…」
そう語る男の目は何も写しておらず、アステアの背筋にゾッと悪寒が走る。一度タガが外れた者は、予想もできない暴挙にでる事があるのだ。
「よ、る、ヨル!捕まえてください!今すぐ!絶対ここから出さないで!!」
『!?』
「遅いですよ」
ふわりと、男の足が浮く。すでに逃げる算段でもつけていたのか男が余裕の笑みでアステアに笑いかけた。
「神の遊戯を邪魔する事など不可能なんですよ、人間如きが」
「待っ…!!」
アステアが神域に入って半日も経っていない。けれど人が住む世界では、どれほどかはわからないが、もうすでに日付が変わっているのだ。男の口ぶりからそれに気付いてしまったアステアは、男に必死になって手を伸ばした。
「どんなに足掻いても無駄だという事を教えてあげますから、お楽しみに」
そう嘲笑った男は、アステアの手が届くはずもなく、淡く眩い光の中に消えていった。




