第二百十八話 彼女を嫌い愛した神様とやら
視点なしです。
体の芯まで凍りそうなほどに冷たい地下牢。ぽたりぽたりと落ちる滴は落ちた瞬間、地面の荒く整えられた石に吸い込まれ、空気を冷たくする手伝いをしていた。
「反省したか?」
空気よりも軽く放たれた言葉は、氷柱のように鋭く冷たかった。決して、娘に向けるような声でもなく、けれどそれは確かに、血を分けた娘へ向けられた言葉。
「おと、さま、なんで、なんで…」
どうにか体温を逃さないようにと凍える体を自分で抱きしめる娘は、ボロボロと落ちる涙を拭いもせずに父親を見つめていた。
「お前の我が儘が加速してると聞いてな。全く、母親は聡明で美しく完璧だったというのに、お前は我が国始まって以来の恥晒しだ」
「──……ぉとうさ、ま」
「黙れ。もうこれ以上お前の言葉に耳を貸すつもりはない。王太子であるアルベルトの慈悲があるからこそ生きられている分際で随分な好き勝手をしたな」
父親が娘の話を聞いた事など今の今まで一度たりともなかった。今回だってただ、カタルシアにいる友人の見舞いに行きたいと、珍しく娘が自分の意思を声に出しただけだった。
結局娘は、兄が王太子でも、王太子の慈悲があったとしても、父親が気分を害すれば牢に入れられてしまうような存在なのだ。
王族が幽閉されるはずの別邸はここ数年誰も立ち入っておらず、罰せられるたびに娘はこの冷たい地下牢で一人涙を流す。それがどれほど寂しく辛い事か、父親が理解する事は一生ないのだろう。
私はただ、愛されたかっただけなのに…──。
娘を知る人間ならば馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすだろうか。父親に直接言えばもっと罵られるだろうか。
自然と溢れる涙は悲しみからか、それとも霜焼けた手足の痛みのせいか。
娘が区別すらつかなくなった頃、コツコツと誰かの足音がした。
「なぜお前がここにいる」
父親はこちらに近寄ってくる、娘や自分と同じ金髪と琥珀の瞳を持つ男、王太子の事をギロリと睨みつけた。
「カタルシアの姫君が目覚められたと吉報が届いたので伝えにきました」
「私にか?それともコレにか?」
「……宰相と大臣が外でお待ちです」
答える事を拒絶した王太子を父親は鼻で笑った。
「その慈悲がいつか裏目に出るぞ」
裏目になど出るはずがない、と王太子は思う。何もできない無力な妹に何ができるんだ。父はどうしてこんな非道な真似ができるんだ。
ふつふつと湧いてくる疑問と憤りをぶつける事もできず、王太子は踵を返す父親に道を譲った。
ガシャッ──
体を打ち付けるように牢の柵を掴んだ娘は、父親が去った後自分に駆け寄ってくる王太子の服を掴んだ。泥に汚れた手が、王太子に縋る。
「アステア様が目覚めたって本当ですか!?」
「あぁ。さっき知らせが来た。もう安心しろ、リリア」
「良かった…ッ!ほんとに、良かっ…!」
「リリア!?」
ふらり、娘の足元が覚束なくなる。立っているわけではないのにふらつくのは、もうすでに意識がなくなりかけている証拠だろう。王太子はすぐに娘を地下牢から出そうとするが、それを止めたのは娘だった。
「だいじょぶです、お兄様。アステア様が無事なら、私なんてどうでも良いから」
「なっ…!そんな事あるはずないだろう!」
「大丈夫、大丈夫ですから…。アステア様は本当に無事なんですよね?」
「間違いなく無事だ。今頃はゆっくりと休養をとって体力の回復に努めてる頃だろうな」
「そ、か…。良かった…」
「だからお前もゆっくり休もう。もう地下牢から出ても何も言われないはずだ」
大丈夫だ、と柵越しに頭を撫でられ、朦朧とした頭で娘は安堵の表情を浮かべた。愛しい人が助かった。それだけで娘は冷たい地下牢も、父親からの罵倒も全て耐える事ができるのだ。
………けれど。
愛しい人を思い浮かべるたびに思い出すようになってしまった、愛しい人の大切な人。あの存在だけが娘の思いを邪魔していた。愛しい人を思い出す事さえ邪魔するのかと思うと怒りは湧いてこそすれ、許す気など起こるはずもない。
何より、今この瞬間、愛しい人が自分ではなくあの存在の傍にいる事が許せなかった。
なぜ一番に愛しい人を想っている自分ではなく、自分の邪魔ばかりする人間が傍にいる。なぜ愛しい人を愛しむ事のできる自分ではなく、愛されるばかりの人間が傍にいる。なぜ何も持たない自分ではなく、何もかもを持ったような人間が傍にいる。
ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい。
「ジャマだなぁ…」
「…?」
何色かもわからなかった黒は体を重く動かしていく。同時に、逃れるために口から溢したのはいつも思う事。
「お兄様、本当に私の事を愛してくれるなら…」
──きっと、できますよね──
娘が伸ばした手は王太子の頬に触れて潔白を黒く濁った泥で汚し、どこかで彼女を嫌い愛した神様とやらが、ひっそりと笑った気配がした。
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