第二百十六話 私の写鏡
「アステア様、あそこどうしますか?」
屋敷に帰ってきてすぐにリンクに呼び止められ、そう言われる。あそことはどこの事かと首を傾げると、横からクレイグが「森の事でしょう」と耳打ちをしてきた。
「あぁ…うん、好きにして良いよ。大きな実験でもする時には便利なんじゃない?」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
作ったのがリンクや職人とは言え、あそこは私の所有物だ。ヨルのために作った場所だけど、碌に使わずいなくなってしまったんだから文句は言えまい。
「クレイグ、姉様に手紙出してくれた?」
「はい。先ほど返事が返ってまいりました。心から待っていると」
「そっか。もう暗いし、今から行っても迷惑だからね」
窓の外を見てみればすっかり日が暮れている。それは一重に兄様が「いや、あそこの管理はお前がするにはちょっと物騒で…」とぐだぐだと私を引き留めたせいだ。最後にはクレイグが出てきて話をまとめてくれて、結局あと一週間のうちに管理する人間が見つからなければ私の物になるという事に決定した。どうやら父様から権限を一任されているらしく、自分の一存で決めてしまえる兄様はクレイグに書面まで書かされて半ベソ状態だった。
途中ブレイディが止めに入ったが、クレイグと無言の応酬を続ける事十分、静かに身を引いて兄様に「もっと粘れ!」と言われていた。あの沈黙の中でどんな駆け引きがあったんだか…。
「どうなさるおつもりなのですか?」
リンクの嬉しそうに走り去って行く背中を見送り、また廊下を歩き始めた時。ふとクレイグがいつもの調子で聞いてきた。
「…踏み込む事はしないんじゃなかったの?」
「一線が引かれていれば踏み込む事はいたしません」
「つまり一線は引かれてないと」
「それは…」
珍しくクレイグが言葉を詰まらせる。これはただ事じゃないなと他人事のように思いながら、それでも私からは何も言わない事にした。
変な事を口走ってしまったら、最悪だから。
「あの場所を管理されるのであれば、何かお考えがあると心得ております。ですが、その理由が私には一つしか…」
「面白そうじゃない?」
「アステア様…」
呆れてるのか、主人の不甲斐なさを嘆いているのか。
きっと意を決して紡がれたのだろう言葉を遮れば、クレイグは私の名前を呟いてから、それから何も言わなかった。ただ、何も言わずにジッとこっちを見つめてくる。それがちょっと居た堪れなくなって、「まだ決めてないんだよね」と笑って見せた。
「でも、誰もいないなら、問題の渦中にいる私が引き取るのも面白いと思ったんだよ」
これは私の気まぐれだ。いつものわがままで、いつもクレイグが笑いながら受け止める程度の出来事。
「そうでしょ?クレイグ」
声は震えてない。確かにいつも通りだった。でも、何がダメだったのかなぁ…。
クレイグは眉間に皺を寄せて目を伏せて、私と視線を合わせようとはしなかった。笑顔が常のクレイグがこんな態度を取るなんて、なんだか私の写鏡のようだ。
「……アステア様がそう思われているのであれば、そうなのでしょうな」
小さい声で微笑んだクレイグは、何を思っただろう。私がクレイグが怒っている事を知っているように、クレイグも私が今何を思っているのかわかっている。だからお互いに笑顔で取り繕って、踏み込もうとした一線を強く引き直した。
「あ、そういえばインターンシップっていつだっけ」
「ちょうど一週間後になります」
「え、マジか」
一転した空気が笑えてくるほどに、何事もなかったように言葉を交わす。私の軽い声にクレイグが頷き、「ライアン様のお迎えはエスター達にさせましょうか?」と聞いてきた。
「んー、いや、せっかく来てくれるんだし私が迎えるよ」
「かしこまりました。この後は自室の方で?」
「久々にエスターの手料理が待ってるんですぐご飯にします」
「そうですか。腕は落ちていないので、ぜひお楽しみください」
可愛いエスターに癒されるため、踊るような足取りで食事をする部屋へ向かう。多分リンクもいるだろうし、そこでライアンが来る事を伝えてしまおう。
一緒にご飯を食べるのも良いかな、なんて考えていると、クレイグがついて来ていない事に気がついた。
「?…クレイグ?」
「私はお薬の準備をしてから行きますので」
「あぁ、そっか。わかった〜」
早く来るんだぞ〜、と言葉を残し、私はその場を後にする。だから、私は気づかなかったのだ。
…いや、気づく事を無視したと言っても良いだろう。だって、あんなにはっきり言われたら、怖くて無視したくなるじゃないか。
大丈夫だから、いきなり消えちゃって不安定になってるだけだから、自分に言い聞かせる事もなく心の奥に沈んでいく言葉とともに、気づかないふりをしたのだ。
「闘う場所を与えて笑顔を見せてくれるヨル様はもういないのですよ、アステア様…」
お願いだから、あと少しだけ一線を越えるのを待ってよ、クレイグ。
お読みくださりありがとうございました。




