第百八十三話 あとは落ちていくばかり
フード男、基リディア伯爵が私の目の前に現れてから、もっと言えばカタルシアへ足を踏み入れてから、今の今まで一度だって「リディア」という言葉を口にしていない。当たり前だ、リディア伯爵自身がそれを意識して避けていたんだから。それはなぜか簡単に説明すると、まぁ面倒な貴族のしがらみが関係してくる。
貴族がお忍びで他国に出向いた際、何か揉め事を起こした場合も揉み消せるように名を告げない事が暗黙のルールとなっているのだ。名を告げなければ、親しい者が証言でもしない限り言い逃れができてしまう。いや、見逃されてしまうと言った方が正しいだろう。こういう時には魔術や魔道具で導き出した証拠もうやむやにされてしまうので、お忍びでやってきた貴族に問題を認めさせるには、さっさと名前を吐かせた方が手っ取り早いのだ。
「言いましたよね?」
何も答えないリディア伯爵に笑いかけてやる。その間抜け面は面白いけど、ずっと見ていると胸糞が悪くなってくるから早々にやめてほしいものだ。
「り、リディア家とは言いましたが…」
多少の悪知恵が働く頭がフル回転して冷静にでもなった?さっきまでの喋り方とは一転して敬語なんて使っちゃって、しかも声を張り上げる事もしないんだから笑えるよね。
「まさか、他国で家紋の人間でもない者がかの有名なフィニーティス国王の現騎士団長、リディア伯爵が御当主を務めるリディア家を名乗るなどあり得ませんよね?」
「っ…!!!」
目を見開いて私を見つめる瞳とわざと目を合わせて、ニッコリと綺麗な笑顔を作ってあげる。
貴方がリディアという言葉を口にした瞬間から、貴方がリディア伯爵であるという事は証明されちゃったんだよ。
そして、他国で騎士団長が問題を起こしたとなれば、国王だって黙ってはいられない。きっとリディア伯爵の頭の中はてんやわんやになってる事だろう。どうやって国王にこの失態がバレないようにすれば良いか、黙認される可能性が極めて低くなってしまったからどう立ち回れば良いのか。
全部知られているとは知らない頭が、忙しなく動いている事だろう。
「改めてリディア伯爵…」
「わ、私はリディア伯爵などではない!」
今度は私が目を見開く番だった。
え?まさかこの状況で認めないつもり?認めさせるために捲し立てたとはいえ、さっき言ったのは全部事実だ。身内の人間でもない者が家紋を名乗れば名家の名に泥がつく。普通の貴族はそれを絶対に許さないし、黙認する事もまずあり得ないのだ。………でも、リディア伯爵は認めない気でいるらしい。
冷や汗を額に滲ませ、苦し紛れに逃れようとしている表情は追い詰められた人間のそれで、そういう人間は判断力が落ちるから。
「なら、仕方ありませんね」
出すつもりはなかったけど、その逃げ根性を折るには一番手っ取り早いよね?
「リンク、出てきなさい」
私の言葉を聞いて、ガンッと大きな物音がする。おそらく動揺で足をどこかに打つけでもしたんだろう。足を摩りながら慌てた様子でリンクが現れた。
「あ、アステア様…」
「リンク!!やっと現れたか!!」
どうして良いのか狼狽えているリンクとは対照的に、リディア伯爵の顔が一気に明るくなった。………なんでこう、この人は全てが自分の良いように運ぶと思っているんだろうか。そう思って良いのはこの世界でただ一人、ヒロインだけなのに。
「リンク、その方の顔を確認して、知っていれば誰か言いなさい」
「!」
できるだけ冷たく言い放つ。これは、リンクにとって最後の決断になるだろう。
リディア家と決別する、最後の決断。
父である当主を国王の意思に背いた騎士にする最後の大手を指したその瞬間から、リディア家の家紋に泥を塗ったとして破門される事は確実だ。私の命令に従うか、それとも躊躇い黙り込んでしまうか。
さぁどっちだ?と、待つ時間は私の予想を大きく外れて来る事はなかった。
「確認するまでもなくリディア家当主であり、私の実父で間違いありません」
さっきまでの、慌てて私の名前を呼んでいた姿はどこへ行ったか。その瞳に迷いはなかった。後ろでブレイディが感心したように「ほう」と呟き、レイラが小さく「それでこそ、です」と囁くのが聞こえる。
どうやら騎士団長二人もリンクの意思を受け取ってくれたようだ。
「お、お前…!!裏切るつもりか!!」
それは家紋を裏切るという事か、それとも親子として?………どちらにしても、先に子供を裏切った親のセリフじゃないな。
「間違いはない?」
「実父の姿を見間違うほどこの目は曇っていないつもりです」
真っ直ぐ私を見据えたリンクが、やはり強い意志で見つめて来る。
私もそれに答えるように頷くと、わなわなと震える資格もないはずのリディア伯爵へと視線を移した。
「実の息子から明言されましたね。ここからは、リディア伯爵としてお話をしましょうか」
あとは落ちていくばかり。潔く認める事はないんだろうけど、仕方ないから最後まで付き合ってあげるね、リディア伯爵。
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