第百四十四話 囁いたのは
視点なしです。
「帰りたくありません…」
悲しい顔をして俯く姿に苦笑いしかできないルカリオは、優しく「どうして?」と聞く。けれど、俯くリリアは首を振るばかりで答えようとはしなかった。
リリアとルカリオがカタルシアへ訪れて、すでに十日が過ぎている。
元々片手で数えられる程度しか滞在する予定ではなく、皇太子であるクロードの好意でここまで期間を延ばす事ができているのだ。確かに最初のうちは見物したいものも多かったため滞在期間を伸ばす事に賛成していたルカリオだったが、流石に両手で足りないほど滞在するのは頂けない。
どうにか説得しようと、三日前から様子のおかしいリリアの肩に手を乗せた。
「リリアちゃん、帰らないとアルベルトが心配するよ。国王陛下だって…」
「…お父様が心配なんてするはずないじゃないですか。そんな事、ルカリオ様なら知ってるでしょう…?」
「それは…」
そうかもしれない、と言いそうになる。ルカリオはあくまでアルベルトにリリアを頼まれたが、国王であるアーロンがリリアを外へ出そうとしていた事には薄々勘付いていたのだ。決して言葉にはしないけれど、アーロンはリリアを嫌っている。
「とにかく、帰りたくありません!アステア様にだってまだ会えてないのに…!」
「皇女殿下はお忙しいんだよ。代わりに執事をつけてくれてるでしょ?」
「執事さんはアステア様じゃありません!」
会いたい会いたいと何度も言ってくるリリアに、流石のルカリオも困り果ててしまう。差して仲も深くないアルバの姫が駄々を捏ねていると知れれば、皇帝の気に触るかもしれない。一度食事をした時はとても寛容だったが、他国の無礼を許すほど優しくもない事だろう。
「リリアちゃん、国王陛下の顔に泥を塗るはめになる前に帰ろう。ね?」
「ッ…!」
自分を心配などしていないと言うくせに、父の事を出されると何も言えなくなる。それはリリアがアーロンに愛されたいと望んでいるからこそ。それを知っているルカリオは自分の事を卑怯者だと心の中で罵りながら、リリアの説得の材料とした。
けれど。
「帰り、ません…」
それは予想もしていなかった返答で、ルカリオは思わず「えっ」と声を溢していた。あのリリアが、アーロンよりも他の事を優先した。それは、青天の霹靂とも言える事だったのだ。
「り、リリアちゃん?」
「アステア様に…会いたいんです…!やっと、やっと会える距離まで来たのに!あの人がいるから!!」
ボロボロと涙を流して懇願するリリアの姿を見て、ルカリオは表情を歪めた。
女性は花のような笑顔が一番似合うというのに、自分が泣かせているのかと思うと罪悪感が募っていく。
ルカリオの頭の中には「クロードに頼み込んであと数日だけ滞在を延ばす」という選択肢ができかけてしまったが、それを遮ったのは、コンコンッという扉をノックする音だった。
「アルベルト・アルバ・ファニング王太子殿下からお手紙です」
場にそぐわぬにこやかな笑みで告げた執事から、ルカリオはリリアの瞳と同じ金色の刺繍が施されている手紙を受け取る。便箋を取り出せば、書かれていたのは、確かにアルベルトの文字だった。
──リリアが何を言っても連れ帰って来てくれ。どんな手を使っても良い──
長年友人としてやってきた身として、その文体だけでアルベルトが何か焦っているのがわかった。あの男が「どんな手を使っても」などという言葉を使う事自体稀有なのだ。
ルカリオは手紙を読み終えると、リリアの言葉を無視して荷物をまとめ始めた。
「ルカリオ様?何を…」
「帰るから明日の朝までに馬車を用意してくれ。クロードにできれば挨拶したいんだが…」
「お時間は作っていただけるかと。皇帝陛下とはご挨拶されますか?」
「お忙しいだろうから皇帝陛下に任せるよ。リリアちゃんもいるから、短くなってしまうかもしれないけど」
「お伝えしておきます」
その会話を聞いてリリアが驚いたように声を上げる。けれど、ルカリオにもうその声は届いてはいなかった。リリアは確かに大切な友人の妹であり、優先すべき自国の姫だ。だが、ルカリオの中で最も優先すべきは自身の友であり、次期王ともなるその男が望んでいるなら、リリアの言葉に耳を傾ける必要はないと判断したのだ。
「嫌!アステア様に会いたいんです!ルカリオ様!」
涙ながらに訴えてくるリリアを見て、動いていた手が止まる。他国の、それも数回会った程度の他人になぜそこまで執着するのか。アステアには確かに人を惹きつける力があるとルカリオもわかっているが、それは他の皇族、もっと言ってしまえばアルバの王族にも言える事。
なのになぜここまで、だって、これではまるで…。
「最後なのであれば、私からお話ししてみましょうか?」
その囁いたのは、にこやかに笑う執事だった。
お読みくださりありがとうございました。




